「ちょっと、氷室さん。何やってんですか!」
 携帯を取り戻そうとする成美を片手で制しながら、氷室は携帯を耳にあてたままで立ち位置を変える。
 雪村は――今頃絶句しているだろう。
「どうも君には、大変な迷惑をかけてしまったようですね。その非礼は後で存分に詫びるとして。――日高さんの休暇申請は却下していだたけますか」
「氷室さん、いい加減にしないと、私だって本気で怒りますよ」
 成美は真剣に言って、携帯を持つ氷室の腕を強く掴んだ。
「……なんなんですか、一体」
 理由も言わずに去っておきながら、今になってブライベートにずかずかと踏み込んでくる。こんなの、いくらなんでも勝手すぎる。
「鍵を僕に、渡してください」
 成美に腕を掴まれたままで、氷室は言った。
「そして東京へは行かないと約束してくれれば、僕は今すぐにでもここを立ち去ります」
「だからそれはできません」
「何故」
 氷室の声が少しだけ苛立つ。負けじと成美は、いっそう強く彼の腕を掴んだ。
「理由ならもう説明しました。水南さんにゲームを仕掛けられたのは氷室さんじゃない。私だからです」
「僕も何度も説明した。それは君の勘違いであり強引な推論にすぎない。――いいですか、鍵は僕の部屋にあったんです」
「ええ。氷室さんが立ち去った後の部屋にね」
 2人はしばし険悪な目で睨み合った。
「東京へは僕が行きます。そして堺先生に鍵の用途を聞いてきます。それを君に報告する。―― 一体なにが不満なんですか」
「だから、それは私の役目だって言ったでしょう?」
「君の思い込みと独り決めに同意しろとでも? そもそも君の主張には根拠がない。僕の部屋においてあった鍵の権利を、君が主張する意味がわからない」
「当時、あなたが出て行った部屋は灰谷市の管理下にあり、必然的に私がいる法務係に連絡がくるようになっていました」
「たかが鍵の忘れ物に、どうして法務係が必然的に出てくるんですか」
「だって結果的にそうなったんです。部屋を契約した福利課の担当が雪村さんに連絡して、そしたら、当然私にも話が伝わるじゃないですか。私たち――つきあってて、それ、雪村さんも知ってたんですから」
「………………」
 成美を睨んだままで氷室が黙り、成美も無言で、その氷室を睨み続ける。
 先に視線を外したのは氷室だった。
「話にならない」
「こっちのセリフです」
「じゃあ、こう言い換えましょうか。僕は水南の相続順位第一位の法定相続人です。彼女の遺品なら、当然僕が持つ権利がある」
「確かにそうですね。それが水南さんの所有物だって証拠があれば」
 ぴくり、と氷室の形のいい眉が動いた。
「あると、説明しませんでしたか?」
「一度見たきりなので自信がないともおっしゃいました」
「――そんな発言をした記憶はない」
「生憎、あなたの発言は全て私の記憶に残っています!」
 なおも何かを言いかけた氷室が、ふとその視線を、手に持ったままの携帯に移す。
 成美はぎょっとして口に手をあてた。
 え、まさかと思うけど――まさか、まだ雪村さんと繋がってたり……。
 氷室が携帯を指で操作する。すぐに微かなノイズが響き、雪村の咳払いが室内に響いた。
「……あのですね……。いい加減疲れてきたんですが、口頭弁論のまね事みたいな痴話喧嘩はやめてもらえますか」
 繋がってた!
 しかも今、スピーカー機能をオンにした。何故、何故、一体なんのため?
「ちょっと……仕事中なんで、そろそろ失礼させていただきたいんですが」
 雪村の声は完全に疲れ、呆れている。
「それから……、僕は日高の同僚であって上司じゃないので、休暇の許認可はできかねます。付け加えれば、法務は今が閑散期なので、1日2日休んでも支障はないと思いますが」
 携帯を持つ氷室はうつむき、ひとつ小さな息をついた。
「遺憾ですよ、雪村さん。――君なら僕と同じで、彼女を暴走させたりはしないと思っていたのですがね」
「僕はただ、僕の立場で言える事実を伝えただけですよ」
 雪村の声に、少しだけ険が滲む。そして彼は少し投げやりな口調で続けた。
「というより、普通に2人で行けばいいんじゃないですか」
 ――え……。
「鍵がどうとか聞こえましたけど、どっちの主張も間違いとは言えないですよね。だったら2人で東京に行けばいいだけの話じゃないかと。――まぁ、余計なお世話かもしれませんが」
 じゃあ、と最後にそれだけ言って、雪村の方から通話が切られた。
 
 
 切れた成美の携帯を見つめ、氷室はしばし立ち尽くしていた。
「あの……氷室さん?」
 しばらく待ってから、おずおずと成美は言った。
 影に覆われた彼の横顔からは、なんの感情も読み取れない。
「氷室さん。……あの、とりあえず携帯を返してもらえますか」
「やっと僕にもわかりましたよ」
 うつむいたままで、ようやく氷室が口を開いた。
「なにが、……ですか」
「最初に、何をすべきかが」
 え?
 顔をあげた氷室が、成美に向かって手を伸ばす。
 え――え?
 手首を強く掴まれ、顔をのぞきこまれるようにして見つめられる。
「……日高さん」
 自分の鼓動が一気にはねあがるのを成美は感じた。
 
 
 
 自分で切ったアイフォンを見つめ、雪村はしばしその場に立ちつくしていた。
 ――馬ッ鹿じゃねぇの?
「あ、雪村君? 探してたのよ」
 ――おかしいだろ。何で再会早々ガチで喧嘩になってんだよ。
 だいたい氷室さん、日高と喧嘩できる立場なのか? 今までしてきたことを考えれば、土下座レベルの謝罪がいるだろ。
 日高も日高だ。もっと、こう、下手にでろっていうか――可愛らしくしてりゃいいものを。なにも、あんなに意地になって言い返さなくても。
「………………」
 まぁ、一番阿呆なのは、そんな馬鹿げた2人の喧嘩を、電話を切りもせずに黙って聞いてた俺なんだけど。
「雪村君……、雪村君?」
 ようやく雪村は顔をあげた。
 目の前には、この4月からきた新任の課長補佐がいて、どこかしなを作った笑顔で雪村を見上げている。
「探したのよ。こんなところにいたのね。トイレの前で何やってるの?」
 誰が言ったんだっけ。
 厚化粧のふなっしー。
 あ、俺か。
「先日出た裁判の報告書を作ってるんだけど、雪村君に内容のチェックをしてほしいの。別に必要ないとは思うんだけど、課長が、ほら、ダブルチェックしろって煩いから。私の机の上に書類があるから、今日中に見ておいてくれる?」
「わかりました。僕が一から作り直します」
 雪村は淡々と答えて歩き出した。
「――って、一から? 細かい言い回しの修正だけでいいのよ」
「読むに耐えないものを熟読するより、そっちが何倍も早いので」
「…………」
 あ、と雪村は足をとめた。
「そういえば日高ですが、まだ体調が戻らないので明日も休むと電話がありました。年休の届けは僕が代わりに回しておきます」
 振り返ると、明松補佐が打ちのめされたような顔でこちらを見ている。
 ――ん? 俺なんかまずいことでも言ったかな。
 雪村は首をひねってから歩き出した。
 まぁ、どうでもいいけど――。日高、せっかく見つけた氷室さんと、くだらないことで喧嘩なんかすんなよ。
 でないと、また未練が湧いてくる。
 でないと――またどこかで期待してしまう。




 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。