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「おまたせしました。樋口でしたら今休憩で外に出てますね。あと5分くらいで戻ってくると思いますよ」
 灰谷駅――
 駅事務所前でしばらく待たされた後、窓口に出て来てくれた若い駅員は、ほがらかにそう言って待合の方を指さした。
「よかったら、そちらでお待ちいただけませんか。戻ってきたらお呼びしますよ」
「ありがとうございます」
 成美は礼をいって、言われたとおり、空席の目立つ待合スペースに向かって歩き出そうとした。
 樋口直人。
 成美の初恋の人で、安治谷駅の元駅員。
 昨年もらった名刺の職場に電話してみると、彼はこの4月から、この灰谷駅で勤務しているという話だった。
 話を聞くなら今日しかない――そう思って事務所を訪ねた成美の勇気は、いないと言われた途端に、ゆらゆらと不安定になりはじめていた。
 そういえば、何を聞くかも決めていないし、氷室とこうして離れてしまった今、聞く意味があるかどうかさえわからない。
「……どうしました? 気分でも?」
 若い駅員が、足をとめた成美を心配そうに見る。
「あの――私、ちょっと、よく考えたらすごい格好で」
 成美はしどろもどろに言って、後ずさった。
 実際、ひどい格好ではある。昨日の山登りと廃屋探検から着替えていないし、足には傷を隠すためのハイソックス。
 今思えば、よくこんなセンスのない格好で氷室と再会できたものだ。
「い、家でいったん着替えてまた出直します。すみません。失礼します。私のこと――伝えなくて結構ですから」
「え、ちょっと」
 まだ何か言いたげな駅員に急いで会釈すると、成美は駅の外に向かって駈け出した。
 なにやってんだろ。私。
 ひとまず着替えに帰宅しようと思ったのは嘘ではないが、自分が土壇場で逃げたことは判っている。
 まだ心のどこかで、現実を見ることを恐れている。
 そうだ。現実から目を逸らしているのは、氷室だけではない。
 私にもまだ、開けない扉がある――
 
 
 
 2日ぶりに、住み慣れた自分のマンションの前に立った成美は、安堵のあまり、その場に座り込みたくなっていた。
 たった2日離れていただけなのに、なんだかもう、何日も留守にしていたような気がする。
 時計を見る。午後3時少し前。正直、ここから上京して堺医師の家を尋ねるとして――今日中に灰谷市に戻れるかどうかは微妙なところだ。
 ひとまずシャワーを浴びたら雪村さんに電話してみよう。
 今は仕事の閑散期だから、明日半日くらいなら、まだ休ませてもらえるかもしれない。もちろん、さんざん嫌味を言われるに違いないだろうが――
 そんなことをつらつら考えながら、重い足を引きずって階段を上がった成美は、自分の部屋の前に立つスーツ姿の人影を見て足をとめた。
 なに、セールスマン?
 これだから平日の昼間に家にいるのは面倒……
「…………え?」 
 その人は、いつも成美を待っていた時にそうするように、少しだけ片手をあげる。
 髪は、普段からは考えられないほど伸びているけど――
 成美の肩から、ショルダーバックが足元に落ちた。
「……なに、やってんですか」
 それを拾うのも忘れ、呆然と、成美は聞いた。
「君の帰りを待っている以外にどう映るのか、逆に聞きたいものですがね」
 冷たい声で返される。含みをもたせたような口調――大抵、成美の何かに腹を立てている時の態度なのだが――その時の氷室のままだ。
「ちょっと、あの」
 落ち着け。
 成美は自分に言い聞かせた。
 とにかく――何がどうなっているのか判らないけど――落ち着け、自分。
「……電車?」
 氷室は黙って車のキーをひらめかせる。
 見間違いでなければ、以前と同じ車のキーに見える。
「えっと……車と電車って」
「時速では電車にかないませんがね。近道を通って高速を使えば、車の方が早く灰谷市に着くんですよ」
「あ、そうなんですか」
 じゃなくて。
 じゃなくて――今聞きたいのはそんなことじゃなくて。
「スーツ、まだ持ってたんですか」
「社会人なら、持っていない人を探す方が難しいのでは?」
 じゃなくてじゃなくて。
「……ひとまず中に入れてもらえませんかね」
 混乱する成美の足元からバックを拾い上げ、氷室は軽く息を吐いた。
「心配しなくても、今の君と僕が、単なる昔の知り合いだという認識くらいは持ちあわせていますから」
「………………」
「僕はまだ、君の部屋の鍵を持っている」
 成美ははっとして顔をあげた。
「でも外で君を待っていた――単なる昔の知り合いだから。そのよしみで、部屋に入れてもらえますか」
 
 
 
 なにかこう、嫌味を嫌味で返されてる気がするんだけど。
 おかしくない? 最初に私を捨てた挙句、元の奥さんを愛してるって臆面もなく言い切ったのはどこの誰よ。
 そのどこの誰を、成美は気まずく見上げて、視線を下げた。
 勝手知ったる他人の部屋――まぁ、何度も泊まりにきているのだから当たり前だが、氷室はくつろいだ風にリビング兼ダイニングの中央にあるソファに腰をおろしている。
「あの、私……着替えたらすぐに、東京に行くつもりなんですけど」
「知っています」
 当然のように氷室は答え、指を膝の上で組み直した。
「その上で――僕の用件をダイレクトに言えば、僕は君を止めにきました」
 は――?
「もっと端的に言えば、君がどうしてもと望むなら、堺医師のところには僕が行こうと思っています。鍵を、僕にかえしてください」
 あまりに勝手な氷室の言い草に、しばし唖然とした成美は、ようやく我にかえって彼を睨んだ。
「嫌です」
「さっきも君に説明した。君が持っている鍵は、水南が僕に預けたものに違いないんです」
「そんな証拠がどこにあるんですか」
「なくても判る。――鍵があったのは僕の部屋でしょう? だったら僕に預けたと考えるのが一番筋が通っているじゃないですか」
「氷室さんがあの部屋の主だった時はそうでしょうけど、違います。鍵が出て来たのは、氷室さんが部屋を解約した後のことですから」
「だとしても――」
「だいたい氷室さん、私が見せるまで鍵のことすら知らなかったんでしょう?」
 氷室が言葉につまったように軽く唇を噛む。
 これが虚しい水かけ論だというのは成美にも判っている。
 結局のところ、その鍵がどういう方法で、何故解約された氷室の部屋に置かれていたのか、成美はおろか氷室本人にだってわからないままなのだ。
「だいたい――おかしいですよ。鍵のことじゃなくて氷室さんが」
 横を向いたまま、成美は言った。
「たまたま着替えに戻りましたけど、帰宅せずに東京行きの新幹線に乗る可能性の方が高かったんですよ。当てずっぽうにもほどがあります。私が戻らなかったら、どうするつもりだったんですか」
「別に、当てずっぽうじゃありませんよ」
 氷室はわずかに肩をすくめる。
「ちゃんと確認してから追いかけましたから。君が駅から自宅方面に向かうのを」
 え……?
「種明かしをすれば」
 氷室は自身の携帯を取り出した。いや、携帯ではない――タブレット式のモバイル端末だ。
「以前君が――紀里谷みたいな危ない男と一夜を明かし、駅で僕に見つかった時のことですが」
「は、何人聞きの悪いこといってんですか。一夜を明かしたって」
 成美の反論を、氷室は片手をあげて制してから続けた。
「あの日はたまたま紀里谷の車のGPSから追跡できましたが、毎回そんな都合のいい偶然があるわけじゃない。僕は無防備すぎる君にいたく不安を感じたんです。君に断りを入れなかったのは悪いと思っていますが――まぁ、当時はあまり悪いとも思っていなかったのですが――君の携帯に、ちょっとした仕掛けを施した」
「…………仕掛け……?」
「簡単にいえば、GPS機能をつけたんですよ。僕がすぐに君を見つけられるように」
「…………………………」
 は?
 かくん、と顎が落ちるのを成美は感じた。
「ちょっ、ちょっと待ってください。それってストーカー? もろストーカーじゃないですか」
「当時の僕と君の関係からいえば、必ずしもそうとはいえない」
「言えますよ。おかしいでしょ。そんなの――許されるんですか!」
「反論させてもらえば、誰にも許しを乞うつもりはありませんね。しごく当然のことをしたまでです」
「……………………」
 だ、ダメだ。この人。
 この人の嫉妬深さと独占欲の強さは、今までいやというほど味合わされてきたけれど。
「もちろん、今となってはいくら責められても仕方ないことですが」
 氷室は小さく息を吐いて、モバイルをポケットに滑らせた。
「言い訳になりますが………君の携帯に仕掛けたものなので、離れてしまえば僕の手で取り外すことができなかった。いずれ機種変更でもすればそれで終わると思っていたんですけどね」
 何を言っていいかわからない成美は、はぁ、と頷いてから、おそるおそる自分の携帯を取り上げた。
「……で、その機能を今使ったんですよね。もしかして今までも――」
「ま、たまに」
 は、はぁああ?
「ちょっと! 本当にそれ、犯罪ですよ?」
「位置が判る程度ですよ。会話や映像が見えるわけじゃない。まぁ――その導入も多少は検討しましたが」
 冗談じゃない!
「取ってください。外してください。今、今すぐ」
 携帯を掴んで突きつける成美を、氷室は顎のあたりに手をあてて、冷たく見つめた。
「君がこれ以上危険な真似をしないと誓うなら」
「ちょっと、条件出せる立場ですか?」
「鍵を僕に渡してください」
「………………」
「君は本当に何も知らないんだ――いや、知らなくていいことですが」
 氷室はうつむいたままで立ちあがった。
「鍵のことを君から聞いた時、すぐに思い至るべきだった。その鍵は、もしかするととても危険なものを隠した場所の鍵かもしれないんです。鍵を僕に渡して、二度とこのことは思い出さないと約束してください」
 ――それは…………。
「あの、それは」
 それは……もしかして……。
 アル、カナ……?
 その時、成美の携帯が手の中で激しく振動した。
 はっと画面を見ると、雪村の名前がある。
 何故かとっさに氷室を見上げ、成美は動揺して視線を下げた。
 別に――隠すことでもないけど――よりにもよってこのタイミング?
「……出ないんですか」
 固まったままの成美を見下ろし、氷室が優しい口調で言う。
 このシチュエーションでの優しい口調は、彼と付き合っている時は、むしろとんてもなく恐ろしく感じたものだが……
「で、でますけど?」
 そうよね。別にやましい電話ってわけじゃない。
 それに、私と氷室さんはもう他人で――ただの昔の知り合いなんだし。
「おう、出たか」
 携帯を耳にあてると、いつも通りの雪村の声がした。
 成美はほっとして顔から緊張を解いている。
 あんなことがあった後で――本当はどう雪村と話していいか判らなかったのだ。
「悪いな。今朝は電話に出てやれなくて。補佐は風邪だって言ってたけど、違うんだろ?」
「あ、はい……仮病です。すみません」
「今どこ? 昨日は氷室さんとちゃんと会えたか?」
「まぁ、会うことには会ったというか……」
 成美はちらっと氷室を見上げた。
 今、まさか灰谷市の自分の部屋で2人きりとはとても言えない。
「俺の分も殴ったんだろうな」
 少し雪村の声が不機嫌になる。
「――も、もちろんですよ。当たり前じゃないですか」
「いっとくけど、一発どころじゃすまねぇぞ。二、三発殴って蹴りでも入れとけ。――あ、それよりお前、病院行った?」
「え?」
「足、結構切ったろ。早く診てもらわないと痕になるんじゃないか?」
 そういやすっかり忘れていた。
「わ、わかりました。えっと昨日の顛末は……また、後で詳しく話すとしてですね。あの……それでついでで悪いんですけど、実は今からもう一回東京に行こうと思ってるんで、明日も……その」
 携帯がふっと手の中から消えた。
 いや、消えたのではない。氷室が上から掴んで抜き取ったのだ。
「ちょっ――」
「やぁ、氷室です。ご無沙汰していますね」



 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。