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「日高さん、お願いだから少し冷静になってください」
「冷静ですよ。さっきから慌てているのは氷室さん1人じゃないですか」
「だから僕は別に――」
 寮の階段を上がる成美を、下から氷室が追いかけてくる。
「ちょっと離してくださいよ」
「だから、僕の話も聞いてくださいって」
 丁度昼時なのだろう。一階の食堂から、社員とおぼしき若者たちが何事かと飛び出してきた。
「なんだなんだ、痴話喧嘩かよ」
「へーえ、あのブラさんが女を追いかけてるなんて、意外というかなんというか」
 成美の腕を掴んだままで足をとめた氷室が、階段下のギャラリーに向けて、困ったように苦笑する。
「すみません。ちょっとした行き違いで彼女が機嫌を損ねてしまって――お騒がせしています」
 その言い草にむっとした成美に畳み掛けるように、階下から女の声がした。
「馬っ鹿じゃないの?」
 みれば階段の真下に、腕を組んで仁王立ちになった陽菜がいる。
「どうせ気を引きたくて逃げてんのよ。安い女。ブラさんもほっときゃいいのに」
 かちんとした。
 何故かこの刹那、今まで我慢に我慢を重ねてきたものがぶちりと切れた気がした。
 成美は氷室の手を振りきって、手すりから身を乗り出した。
「言っときますけど、嫉妬ならするだけ無駄ですから。私とこの人なら、さっき綺麗に別れました。もう本当に、ただの、昔の知り合いです」
「は?」
 おそらく生まれて初めて――成美は感情まかせに、ライバルに言い返していた。
「だいたいこんな情けない男、私の方から願い下げです。私もう帰るんで、そうしたらこの優柔不断の女たらしを、煮るなり焼くなりどうぞ好きにしてください」
 氷室が額に手をあて、微かに嘆息するのが判る。
 なんだか妙にすっきりして、成美はその氷室を置いて、さっさと階段を駆け上がった。
 
 
 
「僕は、食べ物じゃありませんよ」
「ええ、煮ても焼いても食えない男ですからね」
 扉を後ろ手に閉めた氷室が、溜息をつきながら部屋に上がる。
「……君は頭がどうかしたんですか。まるでいつもの君じゃないみたいだ」
「そうですかー? 頭なら、これ以上はないってくらいクリアになってますけど」
 バックに、朝の支度をするために出した櫛や化粧ポーチをつめこむと、成美はさっさと立ちあがった。
「じゃ」
「じゃ、じゃなくて」
 氷室がその前に立ちふさがる。
 近すぎる距離に少しだけドキッとして、成美は一歩後ろに引いた。
 成美の緊張に気付いたのか、氷室もまた気まずげに視線を逸らし、少しだけ距離をとる。
「……とにかく君は性急すぎる。どうして1人で決めて、1人で行こうとするんですか」
「じゃあ誰かと相談でもすればいいんですか。生憎その相手は、もう氷室さんじゃありませんから」
 氷室は黙り、ややあって微かに息を吐いた。
「……君は、思い違いをしている」
「思い違い?」
「いいですか。どういう事情があろうと鍵は僕の部屋にあったんです。君の部屋ではなく」
 成美は黙って氷室を見上げた。
「水南が君に、何かを仕掛けたと思うのは間違いだ。水南は君を……確かに僕の恋人として認識していたんだと思います。でも、だからといって自分の母親の形見である鍵を君に預けるはずがないし、その理由も思いつかない。水南は確かに人を振り回すゲームが好きで、――君はそれを、生前の彼女を知る誰かから耳にしたのだと思いますが――」
 言葉を探して苛立ったように、氷室は首を横に振った。
「仮に――君が言うように、彼女が何かを仕掛けたとしても、相手は僕であって、間違っても君じゃない。今までも――もう何年も前から、水南の相手は僕1人しかいなかったんです。他の誰かであるはずがない」
 少しだけかちんときた。
 なにその自信。
 曲がりなりにも元彼女の私とそこで張り合う?
「じゃあ、聞かせてくれますか」
「なにをですか」
「最初から今まで起きたことを全部。水南さんがあなたに何を仕掛け、あなたは何を知り、どうして私と別れることを決めたのか」
 成美は振り返り、閉じたままの扉を指さした。
 隣の部屋に続く扉は、ここに来て一度も開かれていない。
「その閉じた扉の向こうに、何を隠しているのかを」
「………………」
 強くなった雨が、窓を叩く音が聞こえてくる。
 再び動かなくなった氷室の傍らを、成美はうつむいて通り過ぎた。
 もう――ここにいるだけ時間の無駄だ。
 明日はさすがに仕事に出ないとまずいから、一秒でも早く東京にとんぼ返りをしないといけない。
「……日高さん」
 靴を履いていると、背後から、氷室の思いつめたような声がした。
「それがなんであれ……水南の過去を辿るのはやめた方がいい。その鍵がなんの鍵かを、きっと君は知らない方がいい。いや、知るべきではないと、僕は思う」
 知るべきではない。
 その理由はなんだろう。
 アルカナ――
 ふとそのワードが頭をかすめたが、それはあくまで氷室の父が絡んだ事件のことであり、成美にしても、今口に出すだけの勇気はない。
「……鍵は、氷室さんに返すべきものですか?」
 返事はない。
「じゃあ、私が持っていきます。そして返すべき人のところに返しにいきます」
「日高さん」
「鍵は確かに氷室さんの部屋にありました。でも、巡り巡って――いえ、むしろ必然的な流れで、今は私のところにある。私に言えるのはそれだけです」
  
  
                

 なにやってんだろ。私。
 勢いとはいえ、そして実質別れていたとはいえ、まさか再会した直後に、自分から決定的な三行半をつきつけてしまうとは。
 灰谷市に向かう列車の中で、成美はぼんやりと薄く曇った窓を見上げた。
 この2日間の――いや、5月から始まった約2ヶ月間の旅はなんだったのか。
 判っている。それは氷室を探す旅であると同時に、別れた理由を探す旅でもあったのだ。
 心のどこかで覚悟していたことを、ずっと気づかないふりでやり過ごしてきた。
 氷室を見つけたとして――それが別れの再確認になるだけかもしれないということを。
 そして実際……その通りになった。
「あー、馬鹿。なんであんな言い方しちゃったんだろ」
 優柔不断とか、女たらしとか、煮ても焼いても食えないとか。
 最後なら、もっと言いようもあったんじゃない? なんかもう、ロマンティックな思い出も何も、全部台無しにしちゃったみたいな――
 まぁ、すっきりしたっちゃあ、相当すっきりしたんだけど。
「あっれぇ、あんた、ブラさんの彼女じゃね?」
 頭を抱える成美の頭上から、不意にそんな声がした。
 顔をあげた成美はぎょっとする。派手なブリン頭に、紫のド派手なニッカポッカーズ。今朝、食堂で見かけた氷室の同僚――?
「なになに、もしかして帰るとこ? なぁんか、終電まで一緒にいるとか、ラブラブなこといってなかった?」
 男はずかずかと近寄ってきて、遠慮なく成美の隣に腰掛ける。
 車内は人が少ないが、それでも大声を出す派手な男は、周囲の注目を集めている。
 あまりの居心地の悪さから成美は肩を縮こませたが、男は無遠慮に成美をじろじろと見回した。
「ふぅん」
「な、なんですか」
「いや、ブラさんの好みってマジわかんねぇなぁって思ってさ」
「はぁ……」
 なにそれ。
 今、堪忍袋の緒が非常に短めになってるから、それ以上の暴言は控えて欲しいんですけど。
「あ、俺ケンイチ、ケンちゃんって呼んで。ブラさんとは仲良くさせてもらってまーす」
「……どうも」
 色んな意味で、今すぐここから消えて欲しい。
 だいたいこんな時間に1人で上りの列車に乗ってる時点で、何があったかくらい察して欲しいんですが。
 もちろんそんなデリカシーは持ちあわせていないらしく、ケンちゃん――ケンは腕を組み、うんうんとひとりごちるように頷いた。
「しっかし、あのブラさんがねぇ。案外ハードル低いっつーか。マニアっつーか。あ、全然悪い意味じゃないんだけどさぁ」
 …………他にどういう意味でとればいいのか。
 何か適当に言い繕って席をかわろうとした成美は、ふと思いついて、座り直した。
「氷室…………ブ、ブラさんは」
 成美は軽く咳払いをした。
 めっちゃ抵抗あるんですが、その呼び方。
「その……彼は、いつ頃浦島に入社したんですか」
「んー、いつなんだろうね。気づいたら現場にいたっつうか。俺は月雇いだけど、ブラさんは契約だったのかな? まぁ、雇用形態は人それぞれなんで、はっきりしたことはわかんないけど」
「……契約っていうことは、派遣、とか?」
 一体氷室は、どういう理由であの会社を選んだのだろう。正直、自棄になったか場当たり的になっているとしか思えない。
 別に氷室がどこで何をしようがもう関係はないけれど――この機会を逃したら、そのあたりのことを確認するのはもう難しくなりそうだ。
「いんや。確かそうじゃなくて――社長の昔の知り合いだとかなんとか、誰かが言ってたな」
「え……?」
 ケンは天井を見上げて頭を掻いた。
「ブラさん、元々こっちの人なんだろ? ブラさんの親父さんが、昔うちの会社で働いてたみたいでさ。その縁で社長に拾ってもらった的な感じじゃねぇのかな」
「………………」
 氷室さんのお父さん。
 佐伯涼が――あの会社で働いていた。
「まぁ、なんか訳ありな感じだし。身体より頭使う方が得意そうだし。早々にやめちまうんじゃないかとは、みんな噂してたんだけどさぁ」
「………………」
 お父さんが――おそらくは服役後に務めた会社。
 どういうことだろう。氷室さんは一体なんでお父さんと同じ会社に……。 
「そんな心配無用だったっつーか、今じゃすっかり社長の片腕的な存在? 昼間は現場、夜は事務所。ブラさん来てから会社の業績が目茶苦茶あがったって、もう社長なんか大喜びでさ」
 ぼんやりしていた成美は、再び意識を目の前の男に向けた。
「……会社の、業績が?」
「そうそう。株価もあがって、こないだなんか初めて臨時ボーナスっつーのが出たしね。なんかよくわかんねぇけど、目茶苦茶頭いいのな、ブラさんて。将来はハルちゃんと結婚して、会社の跡ついでくれたらなによりだって、上の連中はみんな言ってるよ」
「………………」
 最後までデリカシーのない男は、成美の表情の変化にも気づかず、窓の外を見てあっと声をあげた。
「俺、次で降りるんだったわ。じゃ、また遊びに来なよ。……えーと」
「成美です。あの」
 腰を浮かせようとしたケンを、成美は思わず呼び止めていた。
「あの……最後に。すごく気になってるんですけど、ブラさんって呼び方は、どこから?」
「ああ、ありゃ、タクさんが言い出したんだっけな。だってあれだろ。ブラさん、やたらと偽ブランドもの買うだろ」
「…………え?」
 偽ブランドもの?
「鞄も食器もハンカチもさぁ。本当だったら何万とかするブランドものの偽物ばっか。だから偽ブラ野郎ってタクさんが言い出して、それが皆に広がったんじゃなかったかな」
「……………………」
 じゃ、と手を振って、ケンは来たときと同様、大股で去っていった。
 成美はややぼんやりと、氷室の部屋にあったものを思い出していた。
 そういえば、あまりに自然で気に留めもしなかったが、氷室の部屋は――あれほど狭くて家具さえなくとも、相変わらず彼の部屋だった。
 ティーカップも、タオルも、絨毯も、灰谷市の彼の部屋にあったものとほぼ似た感じのデザインであり、手触りだった。
 え?
 なに? あれってじゃあ偽物だったの?
 偽ブランド……そんなのを、氷室さんが。
 そしてついたアダ名がブラさんだなんて。
 数秒ぽかんとした後、成美はこみあげた笑いを口の中で押し殺した。
 なにそれ、なっさけない。
 あの氷室さんが――灰谷市役所一のイケメンで、全女子職員の憧れのプリンスだった氷室さんが。
 なんかもう、おかしくて――
 成美は目の端に滲んだ涙を指で払って、窓越しの雨空を見上げた。
(そして新しい人を見つけて幸福になってほしい。僕が君に望むのは……それだけです)
 氷室さん。
 私の望みも、それだけなんです。
 どこでもいい、誰とでもいい。あなたが幸せでいてくれたら、私だってそれで十分幸福なんです。
(僕は傲慢にも、この田舎町の帝王にでもなった気分だったのかもしれません。周囲みんなを見下していた。左遷された父も、その父にすがって生きるしかない母も、心の底で見下していた。……君が当時の僕と出会っていたら、きっと頬の一発でもはたいていたでしょうね)
 氷室さん。
 もう伝えることはできないけど、あの時、私はこう言いたかったんです。
 必死に自分を守ろうとして、冷たい棘で心を覆っていた、小さな、可哀想な男の子。
 もし私がその場にいたら、いることができたなら。
 私はあなたを抱きしめていたと思います――


 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。