「母が後藤の家で働くようになったのは、それまで身を寄せていた親戚の家にもマスコミが来るようになったからだと記憶しています。家政婦という職業には、正直受け入れがたいものを感じはしましたが、窮屈な親戚の家から出て、母と2人で生活できることは単純に嬉しかった。そしてまたひとつ、父から離れることができると感じました。――新しい土地には、僕らの過去を知るひとなど誰もいないと思ったからです」
 微かに目を細め、氷室は過去のそんな一幕を思い出すような目になった。
「僕があの時、もう少し大人でもう少し周囲を見ることができていたなら、――何故母があんな奇妙な屋敷で、家政婦などという仕事を選んだのか、少しは考えることができたのかもしれない。最初から母が気乗りでなかった理由も、ほどなくして後藤氏と関係を持つようになった理由も――わかったのかもしれない。でも当時の僕は、自分のことだけで精一杯でした。自分というちっぽけな世界を守ることだけが、あの頃の僕の全てだったんです」
「そんなの、当たり前じゃないですか」
 たまらなくなって、成美は初めて口を挟んでいた。
「氷室さんはまだ子供だったんです。そんなの――そんなの当たり前じゃないですか」
 氷室の横顔がわずかに笑んだ気がしたが、動かない目は陰ったままで、成美の言葉が彼の心に届いていないのは明らかだった。
「水南は……その後藤家の1人娘で、僕より2歳年上でした。そしてこの町にいた頃の僕と同じで、閉塞された小さな町の女王でした」
 静かに前を見つめたままで、氷室は再び口を開いた。
「水南はその気質だけでなく、名実ともに町を構成するカーストのトップに君臨していました。彼女の家に仕える立場だった僕は、その最下層に否応なしに組みこまれた。僕は精神的な孤高を保つことで自我を守ろうとしましたが、無駄でした。あらゆる手で彼女は僕を安寧の場所から引きずり出し、現実を、立場を思い知らせてくれた。僕は彼女に屈服しました。……それだけでなく、その権力下に与していみじくも生き残ろうとした。いや、そうじゃない」
 彼は自分の言葉を否定するように苦笑した。
「出会った瞬間から、僕は彼女の存在に怯え、強い畏れを抱いたんです。自分より圧倒的に優位に立つものへの反発と焦り。それだけじゃない、他の大人たちは騙せても、彼女だけには見ぬかれているような気がしたからです。僕の抱くどうしようもない劣等感とそれを暴露されることへの耐え難い恐怖、――父のことです。僕は出会ったその瞬間から、全てを見通すような彼女の目を畏れ、ただ逃げることしかできない存在だったんです」
「………………」
 成美は、三条から聞かされた氷室と水南の出逢いの場面を思い出していた。
 母親に手を引かれ、屋敷の勝手口に立っていた氷室。それを見つめる水南の目には、彼はやがて父親を奪う女の息子として映っていたのだろうか。
 ふと義母の美和と、義理の姉俊子のことが頭に浮かんだ。
 2人が仲睦まじくじゃれあっている時に感じた、なんともいえない疎外感――胸の底に微かに灯る、決して表に出してはいけない感情。
 はっとして、成美は急いで自身の思い出を頭の中から追い出した。
 今は自分の過去は関係ない。それと氷室の話は無関係だ。
「やがて僕らは後藤家に住み込むようになり、母が、名実ともに後藤雅晴の妾として扱われるようになった頃から、僕と水南の立場は決定的になりました。昔の言葉で言えば、お嬢様と下僕でしょうか。何かと便利に使われていた僕は彼女の専属執事のような役目をおおせつかり、傍目には嬉々としてその立場に甘んじていたように見えたと思います。それでも僕にかろうじて保っていた叛骨があるとしたなら、――いずれこの立場を必ず逆転させてやるという陰湿な野心だったのかもしれません」
「………………」
「僕は圧倒的に不利な状況から、とにかく這い上がろうとした。――後藤家に、母を含め僕の将来全てを握られている限り、その方法はひとつしかない。僕が握られている弱みと同じだけの弱みを、水南から勝ち取ることです。――僕はある時点で彼女に勝った気がしたけれど、それは束の間の錯覚にすぎなかった。僕にできずに、彼女に苦もなくできたことがひとつだけあったからです。それが分かった時、僕は完全に白旗を揚げるしかないと理解しました」
「……なんですか、それは」
 しばらく黙っていた氷室は、やがてぽつりと呟いた。
「彼女は、愛を駆け引きに使う。愛さえも利用して、僕を貶め、利用することができる」
「…………」
「それが、僕にはできなかった。……彼女に対してだけは、どうしても」
「…………」
「愛していたから」
「…………」
 氷室は傘を下ろし、降りしきる雨が容赦なく彼を濡らした。
 成美はただ、黙っていた。
 優しさと苦悩の入り混じった哀しい目で成美を見ながら、氷室は続けた。
「僕は、君の傍には、いられない」
「…………」
「それがわかったから、君の前から、消えた。……僕の心から水南が消えることはない。もう何もいらない。必要ない。僕は――水南と一緒に生きていく」
 
 
 
 自分の身体が、重く暗い地中に沈んでいくような感覚がした。
 そこは果てしなく深く、どこまでいっても底にたどり着くことはない。
 これから自分は、ずっとこの、息もできない地中で、ただ死んだように生きていくのだろうと成美は思った。
 一方的に切り離された心――氷室が棲みついてしまった心が、永遠に空っぽになってしまったのを感じながら。
 雨音だけが、今の成美の全てだった。
 時が止まったような感覚の中、雨に打たれるままに立ち尽くす氷室が、何か喋っている。
 でも、何を言っているのかが判らない。
 彼の言葉が、聞こえない。何一つ耳に入ってこない――
 絶望。
 闇に吸い込まれそうになりながら、成美はかろうじて目を開けた。
 絶望? いや、そうだろうか。
 自分が今いる場所は、本当にそこだろうか。
 違う。ここはまだ分水嶺だ。
 私はまだ、彼から何一つ真実を聞き出してはいない。
 ゲームのゴールは、まだここではないはずなのだ、絶対に。
 懸命に自分をふるいたたせ、成美はようやく、自分の傘を氷室にかざした。
「……氷室さん――それは氷室さんも、死んだように生きていくって意味なんですか」
 成美の問いかけにも、氷室は答えずに黙っている。
「気持ちはわかります。でも――お願いです。現実をみてください。水南さんはもう、この世にはいないんです」
 死んだ人と一緒に生きていくなんて、悲しすぎるし、辛すぎる。
「……これから続く人生を、そうやって、過去を見ながら生きていくつもりなんですか。私は何も、もう一度やり直そうとか言っているわけじゃないんです。私から逃げたかったら逃げてください。でも――」
 表情ひとつ変えない氷室に、言葉が何も届いていないという虚しさが、成美の勇気をみるみる奪いとっていく。
「い……今みたいな氷室さんを置いて灰谷市に1人で帰ることなんてできません。そんな風に閉じこもらないで……お願いだから、帰ってきてください」
「……どこへ?」
 どこへ。
 どこへ――?
 前を見つめたまま、氷室は微かに目をすがめた。
「君の言うことは、全て正しい。それが正論なだけに、僕は自分がひどい男だいうことをいまさらながら思い知らされますよ」
「……わ、私が、あなたを追い詰めている、いうことですか」
「そうでは……、……いや、そうなのかもしれません」
 唇が震えだし、成美はそれを噛み締めた。
 そうか。
 もう何を言っても、この人の心に私の言葉は届かないのだ。
 悔しくて、悲しくて、情けない。
 こんなところにまで来て――それがただ、別れを確認するだけになるなんて。
「――僕は君と一緒には生きられない。それが僕のためであり、同時に君のためでもあると思うから」
 静かな声で氷室は続けた。
「僕のことも、水南のことも忘れて欲しい。そして新しい人を見つけて幸福になってほしい。僕が君に望むのは……それだけです」
 そう。
 そうですか。
 成美はこみ上げる感情をぐっとこらえ、唇を噛んでうつむいた。
 仕方ない。
 もう、彼を説得する言葉が何ひとつ出てこない。
 ようやくわかった。使途不明の鍵は手に入れても、私はまだ、肝心の鍵を手に入れていなかったのだ。
 彼の、閉じた心を開ける鍵。
 きっと、その鍵の在処は――
「………………」
 ふと眉を寄せ、成美は傘越しに氷室を見た。
 もしかして。
「あの、ひとつ教えてください。本当は色々教えて欲しいけど、ひとつだけ」
「なんでしょう」
 まるで引き潮のように、激しい感情が引いていく。成美は不思議なほど冷静な気持ちで、バックの中から鍵の入った巾着袋を取り出した。
 今までふわふわと波間に浮かぶ断片のようだった事実の欠片が、不意にひとつに繋がったようだった。
 もしかして。
 私は最初から、とんでもない勘違いをしていたのではないだろうか。
 袋から出した鍵を掌に乗せて差し出すと、氷室が微かに表情をこわばらせるのが判った。
 間違いない。彼は、この鍵の正体を知っている。
 でも――この鍵を部屋に置いたのは、彼ではないのだ。
「この鍵は、なんですか」
「…………」
「教えてください。この鍵は誰のもので、何を開けるためのものなんですか」
 顔をそむけた氷室は眉を寄せ、しばらく何かと葛藤するように黙っていた。
 彼が、長い間記憶の底に封印していた思い出を、必死にたぐろうとしているのが成美にはわかった。
 それが彼にとって、想像以上の苦痛を伴っていることも――
「……わかりません」
 やがて、諦めたように氷室は言った。 
「僕には、この鍵の用途も、何故僕の部屋にあったのかも判らない。――でも、この鍵を、かつて誰が持っていたのかだけは知っています」
「誰ですか」
「……水南」
「………………」
 苦悩を振り払うように大きく息を吐き、しばらく沈思してから氷室は続けた。
「水南が……一度だけ、首にかけていたのを見たことがあります。彼女はそれを、母親からもらった形見だと言っていました」
「………………」
「見たのはその時が一度きりで、今まで思い出すこともありませんでした。……だから、正直それが本当にそうなのか、自信を持って言い切れるわけではないですが」
 成美は黙って、掌の上に載せた青銅色の鍵を見つめた。
 おそらく、氷室の記憶に間違いはないだろう。
 この鍵を初めて見せた時の向井志都の反応の意味が、今初めてわかった気がする。
 後藤水南と、その母親に仕えてきた彼女にとって、この鍵はなにものにも代えがたい思い出の品だったのだ。
「……わかりました」
 自分に言い聞かせるように成美は言った。
 氷室は、暗い目のままで首を横に振る。
「僕には何も判らない……。なのに君に、一体何が判ったというんですか」
「これからどこへ、行くべきかがです」
 成美はゆっくりと言って、顔を上げた。
「お世話になりました。今から荷物を取りにもどって、すぐに駅に行きます。道は覚えてますから、案内は大丈夫だと思います」
「…………え?」
「じゃ、お元気で」
 ぺこりと頭をさげ、成美はきびすを返して歩き出した。
 氷室はしばらくその場に立ち尽くしていたようだが、数秒遅れて後を追ってくる。
「灰谷市に戻るということですか」
「いいえ。まだ戻りません」
「……どこへ」
「私を振ったあなたに、それをいう必要がありますか?」
「もちろん――必要はないですが」
「だったらここでお別れですね。さよなら。空想の中の水南さんとお幸せに」
「……日高さん」
 一瞬むっとしたように眉を寄せた氷室が、苛立ったように成美の腕をつかむ。
「確かに僕に、君を止める権利はない。――でも心配してもいいでしょう。だいたい悪い兆候なんです。君がそんな風に開き直る時は」
 なにそれ。
 まるで私の保護者みたいな……。あなたには、もう私を心配する権利すらないと思うんですけど。
 成美も少しだけむっとして足をとめ、まっすぐに氷室を見上げた。
「だって私、わかっちゃったんです」
「……なにが、ですか」
 氷室は目をすがめ、少し眩しそうに瞬きをする。
「水南さんがゲームを仕掛けた相手は、氷室さんじゃないってことが」
「………………」
「今回氷室さんは、きっと水南さんに隠された駒なんです。それを探すのがゲームの始まりなのだとしたら、ゲームを挑まれたのは氷室さんじゃない。――私です」
「………………」
 そうだ。だから水南さんは、生前、三条さんと紀里谷さんを使って私の素性や動向を探らせていたのだ。
 ニーチェの本の切り抜きも、あれも水南さんのしたことだと思えば合点がいく。
 はじめから、どこか不自然だと思っていたのだ。成美が知る氷室は、そんな不気味な真似をする人ではない。
 ――私と雪村さんを振り回し、天の高みから見物していたのは氷室さんじゃない。後藤水南だ。
 理由はなんだろう。わからない。目的もよくわからない。でも、だからこそ、諦めたくないし逃げたくない。
 生きていた頃から――そして死んでもなお、彼女は最大のライバルだ。そのライバルに挑まれた戦いなら、絶対に受けてやる。
「私、水南さんの残した謎を必ずときます。いえ、とめられても絶対にそうします。あの鍵がお母様の形見なら、それがなんのためのものか、知っている可能性がある人が1人だけいますよね。――水南さんの主治医だった堺医師に、私、今から会いに行ってきます」

 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。