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18
山間部を走る電車の音が、規則正しいリズムを刻んでいる。
少しのつもりで目を閉じていた成美は、気づけば深いまどろみの中にいて、ふとその目をあけていた。
ここはどこだろう。
もしかして、また夢の中にいるのだろうか。
子供の頃の夢。それが現実の記憶か、夢で見た架空の記憶か、今となっては判別がつかない夢――
(あじゃが駅)
(ちがうぞ、成美。あじがや駅っていうんだ)
(もうすぐおじいちゃんの家に着くわよ。成美、ほら、こっちにおいで)
お父さんがいて、お母さんがいた。
自分が愛されていたと信じられる、唯一の記憶。二度と触れることの叶わない過去の断片。夢でしか会えない人の声と笑顔。
切なくて苦しい、そして寂しい。自分自身を俯瞰してみているようなもどかしさ。手を伸ばしてもそれは決して現実にはならず、目覚める度にやるせない気持ちになる。
でも、もしかするとこの一瞬の記憶が、思春期までの成美を支え続けてくれたのかもしれない。
それが、自身で作り上げた架空の記憶にすぎなかったとしても。
思えばこの夢を破られるのが怖くて、成美は自分の過去――早くに死んだ父親や母親のことを一切知ろうとしなかったのだ。
「もうすぐですよ」
優しい声が耳もとで聞こえた。
氷室さんの声だ。
「でも、まだ寝ていても大丈夫です。――着いたら、僕が起こしますから」
夢じゃない。
頬に感じる肩の温みも、重なった手の暖かさも夢じゃない。
成美は安堵して、薄く開けた目を再び閉じた。
なぜだか、もう二度とこの夢は見ないような気がした。
「寒いですね」
プラットホームに降り立った成美が思わず呟くと、氷室は少し微笑して自分の上着を脱いでくれた。
「い、いいですよ。氷室さんが風邪を引いたらどうするんですか」
「鍛えてるから平気ですよ」
氷室の上着を肩に羽織って、成美は人気のない駅構内を見回した。もう上りの電車の終電が終わっているせいか、反対側のホームは電気が半ば消えている。
ホームから階段を上がり、小さな跨線橋の中央にさしかかると、2人は自然に足をとめた。
暗い線路上に夜の闇が、微かな鈴虫の音と共に広がっている。
「こんな時間になりましたが、ご実家の方は大丈夫なんですか」
「ええ。急に泊まりたいって電話したので、随分驚かれましたけど」
言葉を切り、成美は曖昧に微笑した。実際それは、どこか曖昧な会話だった。
今夜、成美自身がどこに行くのか、まだ2人はそのことについて、まともな話をしていない。
「もしよければ、明日は、僕が車で灰谷市まで送りますよ」
「え?」
「7時にそちらを出れば、定時までには役所に着くでしょう。ご実家まで迎えに行きます」
え、でも。
成美は戸惑って瞬きをした。
「でも氷室さんも、明日は仕事ですよね」
「ちょっと行くところがあるので、仕事の方はお休みします。ついでだから気にされなくていいですよ」
「…………」
もしかして、宮原さんに会いに行くのだろうか。
この件に関しては、さすがに心配していないと言ったら嘘になる。成美は何か言おうとしたが、氷室の横顔が質問を拒んでいるように見えたので、何も口にすることができなかった。
そうだ。ここから先は成美には立ち入れない。いや、もう立ち入るまいと決めたのだ。
氷室が動かないので、成美もその横に立って、しばらく夜を見つめていた。
「静かですね」
「そうですね」
そう答えた氷室の横顔をそっと見上げ、成美は小さく息を吐いた。
こんなところにまで来ても、そして明日の予定をごく自然に語り合っても、私たちはまだ、肝心なことを何ひとつ決めてはいない。
それは今――きっと、この場所で決めなければならないのだ。
「……この街で、氷室さんは育ったんですよね」
「ええ」
あっさりと答え、氷室は欄干に背を預けた。
「といっても、ごく短い間ですけどね。前も話しましたが、父が左遷されて逮捕されるまでの一年足らずの間です」
月光に照らされた彼の横顔は、微かに微笑を浮かべていた。
「今もそうですが、当時は今以上に何もない田舎でね。以前、母に手を引かれて登下校したという話をしましたが、人気のない雑木林にさしかかると、あの人はいつも歌を歌うんです。……音痴でね。子供心にひどく恥ずかしい気がしたけど、今思えば寂しい田舎道が怖かったんでしょう。あの奇妙な音程だけは、今も耳に残っていますよ」
少しだけ、成美は微笑んだ。
「楽しい、思い出だったんですね」
「過去の事象は、その時々でいい思い出にも悪い思い出にもなる。――今は、いい思い出です」
今は――
今はもう、そう思えるってことなんですね。
ご家族との思い出が、いい思い出だって。
こみ上げた嬉しさを噛み締め、成美はいたずらっぽく笑って顔をあげた。
「そういえば、氷室さんの歌って聞いたことがないですね」
「歌?」
「随分、上から目線で言ってますけど、実は氷室さん自身がとんでもない音痴かもしれませんよ」
「そうかな。それは――考えてもみなかった」
「音楽の成績は?」
「悪くはなかったはずですが」
「はずですが?」
「……いったんそこから離れましょう。僕は、音楽の成績は、悪くない」
「離れようって言いながら、すごく拘ってますよね」
成美は笑い、氷室も笑った。
「お父さんの思い出は、何かないんですか?」
「……ありますよ」
観念したように、氷室は肩をわずかにすくめた。
「東京にいた頃は滅多に帰宅しなかった父ですが、こっちに引っ越してきた途端にいつも家にいるようになったんです。最初は互いに避けあっていましたが、避けるといっても限界がある。狭い家でしたからね」
夜を見ながら、やはり楽しそうな口調で氷室は続けた。
「やがて時々、2人で散歩に出るようになりました。僕は嫌だったんですが、母が無理矢理行かせたんです。会話なんてない。ただ黙って歩くだけです。もちろん嫌で仕方なかった。多分父もそうだったんでしょう。でも、不思議なもので、父が亡くなってから、やたらとその時の夢を見るようになったんです」
「………………」
「その時見た夕陽の色とか、風の匂いとか、そんなどうでもいいものを、なぜだかはっきり覚えている。よくわかりませんが、その時の僕は、きっといくばくかの幸福を覚えていたんでしょうね。本当に……よく判りませんが」
「………………」
成美は、氷室の優しい横顔をそっと見上げてから、言った。
「氷室さん、……許してあげたんですね」
「父のことを?」
氷室は苦笑して、視線を再び夜に向けた。
「どうかな。まだ許せないという気もしますが、もう亡くなった人ですからね」
そうじゃなくて。
「……あの、すごく差し出がましいこと言ってるかもしれませんけど、氷室さんが許せなかったのは、お父さんとお母さんじゃないって……、私、そう思ってるんです」
氷室が不思議そうに成美を見下ろす。
「ご両親のことを、氷室さんは本当の意味で怒ったり憎んだりしてなかったんじゃないですか。氷室さんが許せなかったのは――その2人を忘れようとしていた、自分自身なんじゃないですか」
「………………」
「だったら、許してあげて欲しいです。氷室さんは、ただ精一杯生きていただけなんですから」
氷室の顔が見られなくて、成美は迷うように欄干の手すりを握りしめた。
「私……私も、自分を許そうと思ってるんです。私も、自分にとっていい思い出ではない実の父母を、ずっと切り捨てて生きてきましたから」
「………………」
「そういう私が、やっぱりどこかで嫌いでしたから」
遠くで、警笛が鳴っている。
電光掲示板が次の電車が到着することを告げている。
氷室はみじろぎもせず、成美もまた、何も言うことができなかった。
電車を降りた何人かが無人改札を抜けると、駅には再び成美と氷室の2人きりになった。
これが最終だろうか、と成美は思った。
そろそろ、2人で過ごすこの時間にも終わりが近づいている。
「駅員さん、いないんですね」
成美が顔をあげて訊くと、氷室は前を見たまま微笑んだ。
「今年から、午後8時以降は無人になったんですよ。きっと経費削減でしょうね。利用者も随分減っているらしいですから」
「じゃあ、もう、昔みたいに駅に泊めてもらうこともできないですね」
「そうですね」
成美は少し黙ってから、氷室を見上げた。
「いつ、それが私だと気がついたんですか」
落ち着いて口にしたつもりでも、語尾がわずかに震えてしまった。
大雪の夜、駅に取り残された成美の手をとり、「君の手は温かいね」と言ってくれた男の人。
あれは――あれは駅員だった樋口ではなかった。
あの日、成美は自分よりもっと寂しい人に出会ったのだ。
その人は真っ黒な服を着て、雪の降りしきる空を見つめ、声をださずに泣いていた。
成美はその人の傍らに立ち、なぜだか手を繋いであげたのだ。
そうしないと、あの日の吹雪の中に、その人がさらわれてしまいそうな気がしたから。
冷たい、氷みたいな手が悲しくて、成美はまるでそれが自分の悲しみのように泣いたのだ。
「はっきりそうだと知ったのは、昨年……君と最後に過ごした日、君から過去を打ち明けられた時です」
静かな声で氷室が答える。
「でも、どこかで君に懐かしさを感じていた。多分、……初めて会った時から」
言葉をきった氷室が、成美を見下ろす。
感慨を飲み込み、わずかに唇を噛んでから、成美はようやく口を開いた。
「私は、……東京で、氷室さんのご両親の話を聞いた時に……気づきました」
「………………」
早朝の人身事故。ここ数十年で初めての事故。
あの日、――あの朝、成美を乗せた灰谷市行の電車は、人身事故のために安治谷駅で長時間停止した。だから成美は、意味が判らないまま、そこが終点だと勘違いしてしまったのだ。
「まるで、長い夢から初めて覚めたようでした。あの夜のことは、私の人生で最も思い出したくない最悪の記憶です。でも氷室さんにとってもそうだった。あの日の――年末に2人でこの駅に向かっていた時の、氷室さんの辛そうな顔や目が、今でも私には忘れられません。氷室さんにとって最も苦痛な瞬間に、その思い出の中に私がいた。それが――どうしても……受け入れられなかったんです」
「………………」
「忘れたままでいた方がいいのか、正直に打ち明けてしまったほうがいいのか、ずっと私には判らなかった。でも、そのどちらも氷室さんにとって苦痛でしかないと分かった時、私も………」
成美は唇を噛み締めた。
「氷室さんと別れないといけないんじゃないかと、……初めて、そう、思いました」
「それで?」
それで。
「わ、わかりません。答えは……1人で決めることじゃないと思いますし、私1人じゃ、どう考えてもでてきません。ただ」
氷室は黙って、言葉を途切れさせた成美を待っている。
「私は、乗り越えられると思いました。たとえ氷室さんが私といることで苦痛を感じているとしても」
「………………」
「いずれは……乗り越えられるんじゃないかと思いました」
しばらく黙っていた氷室が、ふっと息を吐いた。
「君の言うとおりです」
「………え」
「この旅の中で、いつの間にか僕は、自分自身を許していた。母を侮辱し、父の手を振り払った自分を許せるようになっていた。……僕はもう過去の記憶を乗り越えたのかもしれない。だから今夜、君とこの駅に立っているんだとは思いませんか」
「………………」
「でも僕にはまだ判らない。君とここからどこに行くべきなのか。僕の根源的な問題はこの駅じゃないし、過去の記憶でもない。僕は……そう、怖いんです」
怖い?
成美は氷室の陰った横顔を見上げた。
彼の目は暗い闇を見つめたままだった。
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