「本当にもう帰られるんですか。なんでしたら、夕食をご一緒にと思っていたのですが」
「彼女が、明日仕事なので」
 立ちあがった氷室は丁寧に言って、微笑んだ。
「その楽しみは、別の機会にぜひお願いします。また近いうちに、おうかがいすることになると思いますから」
「……そうですね。まさのために、色々片をつけなけりゃあいけないことがある。自分も今まで、まさをあなたや後藤さんにとられると思って、逃げ回っていましたから」
 苦笑して言った長瀬が、優しい目を成美に向けた。
「その時はあなたもぜひ、氷室さんと一緒に来てください」
 頷きながら、成美は胸にもやもやと残る何かの感情がまだ消化しきれずにいた。
 確かに色んな謎が明らかになった。改めて思い知らされた水南の愛情の深さには、正直今でも動揺している。成美がそうなら、氷室はなおそうだろう。
 氷室は終始感情を乱さなかったし、今も普段通りの表情で微笑しているが、その内奥では一時嵐のような激情が荒れ狂っていたはずだ。
 最後まですれ違ったまま、逝ってしまった最愛の人。こうして今、亡き人の真実が詳らかになったとして、それが彼の今後にどう影響していくのだろう。まだ成美には、自分を含めた氷室との未来が見えてこない。
 そしてもうひとつ。
 ここが、本当にゴールだったのだろうか。
 結局水南が残した青い本とはなんだったのだろう。
 DNA鑑定の結果にしても、長瀬は何も語ろうとしない。
 いや……もう、これ以上、踏み込むべきではないのかもしれない。
 氷室もそれが判っているから、あえて深入りせずに、ここで帰ることにしたのかもしれない。
「あの……」
 それでも成美は、つい口を開いていた。
「本当に、水南さんは何も遺さなかったんでしょうか」
 長瀬が微かに首をかしげて成美を見る。「と、いうと?」
「あ、その、長瀬さんが隠しているという意味じゃなくて……。もしかしたら、聖人ちゃんに何か、遺されているんじゃないかと……」
 母と娘。もしかすると父親には秘密で、何かが手渡されているかもしれない。
 というより、何も遺さない方が不自然すぎる。いくら水南が人とは著しく違った思考の持ち主だったとしても――命がけで産んだ我が子に、自分の生きた証を残そうと思わないはずがない。
「まさに、ですか」
「日高さん、もういいんですよ」
 考えこむように眉を寄せた長瀬を見て、やんわりと口を挟んだのは氷室だった。
「長瀬さん、もしそういったものがあれば、の話です。聖人がもし、それを私たちに見せてもいいと思う時がきたら、その時はぜひご連絡ください。――僕らには、君ら家族の思い出にまで踏み込む権利はない。それはよく判っていますから」
「……まさに聞いてみますよ。ちょっとむずかしい子なので、今まで自分に打ち明けなかったものを、簡単に話してくれるとは思えませんが」
「急がれなくても大丈夫です。ありがとうございます」
 背中にそっと手を添えられ、成美は自分が余計なことを言ったことに改めて気付かされた。そうだ。もちろん氷室もその可能性に気がついていただろう。けれど長瀬の立場を慮って――彼はあえて、水南に言い残されたことを口にしなかっのだ。
「たっだいまぁ。爺ちゃん、もう帰っちまったよ」
 聖人の元気な声が、開け放たれた玄関から響き渡った。
「帰ります」
 再度言って、氷室が丁寧に頭を下げた。
「今日は本当に――ありがとうございました」
 
 
 
「……私、余計なことを言いましたね」
「そんなことはないですよ」
 アパートの階段を降りながら、気落ちしてそう言う成美に、氷室は思いの外あっさりとした笑顔を向けた。
「本当のことを言えば、君があの時言わなければ、僕が口にするところだった。僕が言うより、君が言ってくれた方が、あの場合角が立たないでしょう。いいタイミングだったと感謝しています」
「……本当ですか?」
 絶対嘘だと思ったけれど、氷室は成美を慰めるように楽しそうな笑みを浮かべた。
「ただ、これで志都さんに責められることだけは間違いないですね。絶対に本を探すと約束しましたから」
「そ、そうですね。でも――もしかしたら他の場所にあるってことも……」
 言いかけた成美はあっと声をあげていた。
「氷室さん、鍵! 鍵のことは長瀬さんに聞かなくてよかったんですか」
 氷室の部屋に残されていた、魚の文様が刻まれていた奇妙な鍵。
 あの鍵は、結局何を開けるためのものだったのか。
「ああ……」
 丁度、道路に降り立った2人の前を乗用車が通り過ぎる。氷室はそれをやり過ごしてから歩き出した。
「忘れていました」
「……え?」
「まぁ、もういいんじゃないですか、鍵のことは。あれは僕と君の2人を共に行動させるキーだった、ということで」
「…………」
 え……?
 なに、そのあっさりした態度。
 もういいんじゃないですかって、そんなの――あの鍵には、今まで散々引っ張りまわされてきたのに、そんな結末って。
「聖人は、僕と長瀬さんのことを、どう認識しているんでしょうね」
 成美が唖然としていると、前を歩く氷室がふと呟いた。
「水南の娘なら、ある程度の真実を認識しているような気もしますが、全てを知るにはまだ聖人は幼すぎる。……まぁ、僕らの権限を超えた部分の話ではありますが」
「……です、ね」
 法律上の父親は氷室だが、実の父親は他にいる。養親は長瀬だが、血のつながりでいえば兄でもある。その複雑な関係を――まだ小学校低学年の少女が知るには早過ぎる。
 そして氷室の言うように、その真実を伝えるのは――伝えるか否かの判断をするのも含めて――それは長瀬だけに許された役割なのだ。
 ようやく成美は、氷室が鍵のことをもういいと言った理由を理解できたような気がした。
 つまり、ここが2人の旅のデッドエンドだ。
 ここから先は、時が許した者にだけ真実の扉が開かれる。
 けれど成美が、その真実を知ることは永遠にないように思われた。でもそれでいいのだ。それでいい――自分の役割は、きっとここまでだったのだから。
 小さな足音が背後から響いてきたのはその時だった。
 
 
 
 息を切らした聖人が、無言で差し出したものを見て、成美もそうだが氷室も言葉が出てこないようだった。
 やがて氷室が静かに膝をつき、聖人の顔をのぞきこむようにして言った。
「いいのかい?」
 こくり、と小さな頭を動かしてから、完璧なまでに整った容姿を持つ少女は少しだけ困ったような目になった。
「でも、父ちゃんには秘密にしてほしい」
「お父さんには、何も言わずに出て来たの?」
「……話し声が、聞こえたから。父ちゃんと話してる時の」
 成美は氷室の顔を見ていた。
 それはおそらく、成美が長瀬に訊いた時のことだ。聖人ちゃんに何か遺したものはないでしょうか、と。
「無理に、見せてくれなくてもいいんだよ」
 聖人の肩に、愛おしむように手を置いた氷室が穏やかな声で続けた。
「お父さんに断ってからでもいい。おじさんたちは、そんなに焦っているわけじゃないんだ」
「おじさん。――王子様でしょ?」
 訝しげに片目をすがめながら、少女は少し大人びた目で氷室を見上げた。
「王子様?」
「ひと目見て判ったもん。だから父ちゃんには内緒なんだ。父ちゃん、ああみえて母ちゃんにベッタ惚れだからさ。本当は思い出すだけで泣けてくるから写真なんかも置いてねぇんだ。母ちゃんもそれを知ってたから、父ちゃんには何も残さずに天国にいったんだよ」
「………………」
「いい年した大人のくせに情けねぇよな。だからこれは、俺と母ちゃん、2人だけの秘密なんだ」
「……そう」
 氷室は微笑して聖人の頭をなでると、その手から古いスケッチブックを取り上げた。
 少しくすんだ青い表紙――そこにはもちろん、タイトルも持ち主の名前もない。
 成美はわずかに息を飲んだが、氷室はしばし、何かを懐かしむようにその表紙を見つめ……おもむろにページを開いた。
 鉛筆で描かれた灰色の静物画。
 室内に置かれた花瓶や、窓の外の風景が、どこか寒々しいタッチで描かれている。
 それが後藤家の光景だということは、ほどなくして成美にもわかった。
 居間――温室――庭園――エントランス。
 暗い、陰鬱な時代の匂いが、精緻なデッサンを通して伝わってくる。これが、水南の描いたものなら、この景色こそが、当時の水南を取り巻く世界だったのだろうか。
 ページをめくる氷室の手が、ふと止まる。
 成美は息をとめていた。
 そこには、成美のよく知っている――いや、知っているようで決して知ることのない、氷室の顔があった。
 首と頬の線がまだ細く、前髪が額にかかっている。開襟シャツの襟には紋章。
 絵を見るものを優しく見つめる瞳には、情熱と不安と孤独と幸福が複雑に交差している。どこか頼りなくて寂しげで、ふと吸い寄せられるように手を伸ばしてしまいたくなるような――そんな目をしている。
 成美は自分の胸が熱くなるのを感じた。
 それは氷室が――深く、心ごと愛しあった後、額をあわせて成美を見つめる時の表情だった。
 そんな時成美は、彼がどうしようもなく愛おしくなって、この僅かな時間が過ぎてしまうのが泣きたいくらい悲しくなって、つい彼を抱きしめてしまうのだ。
 その時も今も、成美には氷室と自分に幸福な未来があるとは信じてはいなかった。だからこそ、どれだけ、この一瞬を永遠にとどめておきたいと願ったろう。
 ――水南さん………。
 溢れそうな感情を飲み込み、成美は唇を噛み締めた。
 きっと水南は――その一瞬を、永遠に描きとめたのだ。
 やがて来る別れを知っていたからこそ、その一瞬が苦しいほどに愛おしかったのだ……
「おじさんだろ?」
 聖人の言葉に、それまで身動ぎもしなかった氷室の肩が初めて揺れた。
「そう、だね」
 声が微かに掠れている。
「君のお母さんがこの絵を描いた時のことは、よく、覚えているよ。その時はどう頼んでも見せてくれなくてね。……いつか、見せてくれると約束したんだ。その約束を、お母さんは守ってくれたんだね」
 そんな氷室をじっと見つめて、聖人は唇を尖らせるようにして言葉を継いだ。
「おじさんって、頭悪い?」
「お母さんがそう言った?」
 優しく切り返した氷室の問いには答えず、聖人は視線を足元に向けた。
「シンデレラって知ってる? 普通は知ってると思うけど」
「……シンデレラ?」
 呟いたきり、氷室がしばらく言葉を発しなくなったので、成美は、もしかして氷室はあの有名な童話を知らないのだろうかと思った。
 けれどそうではないことはすぐに分かった。彼はその刹那、明らかに動揺していたのだ。
「ああ――童話だね。知っているよ。子供向けに書かれた、一般的な話なら」
 ようやく戸惑うようにそう言った氷室を、聖人は少し訝しげに見てから、続けた。
「シンデレラはガラスの靴を残して消えるんだ。でも母ちゃんは、そういうのはあざといからやめた方がいいって言ってた。そういうあざといやり方は、ちょっと頭のいい男にはすぐ見透かされちゃうんだって」
 苦笑して氷室が頷く。
「それで?」
「母ちゃんも、ガラスの靴を残したんだけど、ちょっと複雑にしすぎたんだね。王子様の頭が悪すぎて、なかなか置き場所に気づいてくれなかったんだって。だからおじさんが、その頭の悪い王子様だったのかなって思ったんだ」
 氷室は何も言わず、ただ聖人の頭を撫でた。
「お母さんは、その本を読んでくれた?」
「うん。死んだばあちゃんが買ってくれた、唯一の本なんだってさ」
「……そう」
 氷室が束の間見せた動揺も、今の、染み入るような眼差しの意味も、成美にはよく判らなかった。でも、それでいいと思った。
 青い本がなんだとしても、答えは、氷室と水南の記憶の中にしかない――きっと、そういうことなのだろう。
「でもおじさん、結局は靴を見つけたから母ちゃんに会いに来たんだよね? だったらいいよ。そう思って絵を見せてあげることにしたんだ」
「ありがとう。……でも、少しばかり遅かったね」
「そんなことないよ。だってガラスの靴はハッピーエンドになるためのマストアイテムなんだから。おじさんの頭が悪かったせいで、父ちゃんと母ちゃんがハッピーエンドになって、おじさんはそこのお姉さんとハッピーエンドになったんだろ?」
 氷室が、虚をつかれたように瞬きをする。
「だからそれでいいんだよ。母ちゃんのすることは、いつも最後は正解なんだ。なんていったら、母ちゃんが悲しい顔するから言わないけどさ」
「………………」
 氷室は微笑して手元のスケッチブックを閉じると、それを聖人に返そうとした。
「あ、待ってよ。最後のところ、見てくれた? そこを見てくれなきゃ、持ってきた意味がないじゃん」
 最後……?
 訝しむ成美の目の前で、聖人はせわしない手つきでページをめくった。
「ほら!」
 見開かれたページには、麦わら帽子を両手で押さえている女性の姿が描かれていた。
 長い髪が、風に舞い上げられて踊っている。女性はその髪には構わず、まっすぐに前を見つめて笑っている。
 その隣には、額に手をかざした男性の姿。男の顔もまた、満面の笑顔だ。
 背景も色もないその絵から、眩しいほどの夏の日差しと、波の音が聞こえてくる。
「一回だけ、みんなで海に行ったんだ」
 鼻をふくらませて、それが自分の勲章でもあるように聖人は言った。
「父ちゃんも母ちゃんも写真とか絶対に撮らねぇ人だから、俺が家に帰ってから、思い出して描いたんだ。でも母ちゃん、なんでか俺が絵を描くのを嫌がるから、ずっと内緒にしてたんだよ。不思議だろ。俺、絵は結構得意なんだけど」
「……そうだね。上手だ」
 実際それは、大人が描いたと言っても過言ではないほど見事なものだった。
 むしろ小学2年生のタッチにしては巧みすぎて、怖くなるくらいだ。
 その年不相応の上手さが、水南には恐ろしかったのかもしれない。
 きっと水南はどこまでも、自分の影が娘に及ぶことを恐れていたのだ。
「見せたのは、母ちゃんが最後の入院をした時。手術の前の日に見せたんだ。父ちゃんから、その手術をしたら、もう俺のことを忘れてしまうかもしれないって聞いたから。すっごい喜んでくれたけど、多分、絵のことは前から知ってたと思う。そもそも、母ちゃんに隠し事とか無理な話だからね。――その時母ちゃんが言ったんだ。もし王子様がガラスの靴を見つけて探しにきてくれたら、その絵を見せてこう言ってって」
「………………」
「お馬鹿さん。もう、手遅れよ」
 その瞬間の氷室の顔は、影になってみえなかった。でも彼は、きっと笑ったのだと成美は思った。
 そして思った。
 もしかすると水南は、その笑顔が見たかったのかもしれないと。
「そう――その通りだね」
 立ちあがった氷室の横顔から、小さな雫がきらめいて落ちたような気がした。
 この旅の最初で、そして多分最後の涙は、まるでそれ自体が幻だったように消え、顔をあげた氷室は、いつも通りの彼になって、優しく聖人を見下ろした。
「ひとつ、お願いがあるんだけどいいかな」
「うん、いいよ」
「お母さんを昔から知っている人で、向井さん、というおばさん――いや、君からみればおばあちゃんだね。おばあちゃんがいる。その人がいずれここを訪ねてきたら、さっきの絵を見せてあげて欲しいんだ」
「うん、わかった」
「ありがとう」
 青のスケッチブックを胸に抱いた子供は、大きく手を振ってから、元きた道を駆けていった。 
 終わった――
 気づけば、自分の頬に涙がこぼれている。
 成美はどこか放心した気持ちでその涙を拭い、暮れていく空を見上げた。
 これで、本当になにもかも終わった――
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。