「まさ、どうした」
 眉をあげた長瀬が、驚いたように立ち上がる。
 玄関で靴を派手に脱ぎ散らかした子供――聖人は、歓喜に顔をかがやかせて、出迎えた父親の胸に飛び込んだ。
「ごめん。だって爺ちゃんに会ったんだ。林のおばちゃんの家に行く途中!」
「え……?」
 当惑したように長瀬が顔をあげる。成美もまた、驚いて息を引いていた。
 聖人の祖父にあたる人は、おそらくだが2人いる。
 1人は、その立場や状況からいってこの場に来るはずのない人だから、まさか、まさかと思うけど――宮田の親父、という人が……。
 半ば開いた玄関の向こうに、高級そうなグレーのスーツが見えている。反射的に身をすくめた成美が、思わず氷室を見上げた時だった。
 険しい目でずっと玄関を凝視していた彼の唇が、ありえない人の名前を呟いた。
 ――え……?
「爺ちゃん、早く、入ってきなよ」
 成美は呆然と顔をあげる。
 聖人に手を引かれながらも、恐ろしいほど不機嫌そうな顔で立っているのは、絶対にここに来るはずのない人物――後藤雅晴だった。
「爺ちゃんと散歩して帰ってきた。そしたら部屋の窓が開いてたから、父ちゃんも帰ってると思ったんだ」
 頷いた長瀬が、どこか戸惑った目を氷室に向ける。
 氷室は何も言わず、後藤雅晴もまた、何も言わない。
 数秒――息もできないような、張り詰めた空気が流れた。
「……お久しぶりです」
 最初に、しかも意外なほど冷静な声で、その沈黙を破ったのは氷室だった。
 後藤はただ眉だけをしかめ、視線をあらぬ方に向けて呟いた。
「聖人とは、……金輪際会わないという約束だったと思ったがね」
「申し訳ありません。けれどあなたも、警察に後をつけられるという愚を犯したようですよ」
「っ、そんなはずはない。それは十分気をつけている」
 即座に怒りを露わにして後藤が反論する。
「後藤さん」と、やんわりと2人を制したのは長瀬だった。
「すみません。警察の件は氷室さんの誤解で、もうなんの問題もないんです。――日高さんにはあらためて紹介しますよ。こちらは水南の父親の後藤さんで、さきほど公園で会ったと思いますが、娘の聖人です」
 急いで会釈しようとした成美は、ふと眉を寄せていた。
 え?
 いま、娘って、言った……?
 成美の表情でそれと判ったのか、長瀬は微かに苦笑した。
「すみません、驚かせてしまいましたね。全くそうは見えませんし、名前もどちらかと言えば男の子なのですが、性別は女の子なんですよ。まさ、挨拶しろ」
「………こんにちは」
 猜疑心の強い目が、じっとこちらを見つめている。
 一時胸に渦巻いた様々な感情を飲み込み、成美は優しく微笑んだ。
「こんにちは、成美です。今日はお父さんをとっちゃって、ごめんね」
「いいよ」
 恥ずかしそうに呟いた子供の目から、少しだが警戒心がとけた気がした。
 長瀬が、玄関の後藤に向き直る。
「後藤さん、すみません。ご厚意にもう少し甘えていいなら、あと5分だけ、この子と散歩してやってはくれませんか」
「はァ? なんだと? 貴様が私に頼み事だと?」
 大きな声に成美は身をすくめていた。 
「冗談じゃない、ふざけるな、私は忙しいんだ。しかも貴様のような人間が私に頼み事など――図々しいにもほどがある。少しは立場というものをわきまえたらどうなんだ!」
「申し訳ありません」
「本来なら、私がこんなところにまで来る筋合いはないんだ。私はいつでも、聖人の監護権を主張できるのだからな。聖ちゃん、行くぞ。爺ちゃんともう少し一緒に歩こうか」
「うん!」
 はい?
 後藤の剣幕に凍りついていた成美は、顎を落としそうになっていた。
 え、なに?
 今のセリフ――前半と後半のギャップって何?
 後藤さんって、もしかして強烈なツンデレキャラなんじゃ……。
 扉が閉まり、最初に咳払いをしたのは、氷室だった。
「正直言って驚きました。後藤氏の扱いを、よく心得ておられるんですね」
「あの人とは何度もやりあいましたからね。……それでも、ごく最近のことですよ。今のように話せるようになったのは」
「頻繁に、来られるんですか」
「本人にそう言えば違うと激怒されますがね。……まさか今日来られるとは、こちらも想定していませんでした」
 そう言って、テーブルの上を片付けだした長瀬は、キッチンからもどってきて、立ったままで言った。
「お二人に、見ていただきたいものが、あります」
 氷室が黙って居住まいを正す。長瀬もまた何も言わず、そのまま自分が着ていたシャツを脱ぎ始めた。
 驚いて視線を下げようとした成美は、長瀬の身体に刻まれたものをみて、そのまま動きを止めていた。
 それは刺青などより、もっと醜悪な無数の傷跡だった。
「ここに」
 呟くように言った長瀬は、幾筋もの縫合の後が残る左胸に手をあてた。
「まだ、蓮池の叔父貴に撃たれた弾が、残っています」
 氷室が黙って眉を寄せる。
「日本でも診てもらいましたが、手術で取り出すには危険すぎる箇所なんだそうです。というより、ここで弾が止まったのが奇跡で、一ミリでも動けば、たちまち動脈がやられて死んじまいます。そしてこの弾が未来永劫この位置にとどまっているかといえば、それは誰にも、神様にだって保証できねぇことなんだそうです」
「………………」
「自分には腎臓がひとつしかなく、他にも欠けている臓器があります。水南に手術を受けさせる時、自分で売っちまいました。水南は激しく怒りましたが、馬鹿な真似をしたとは思っちゃいません。自分は今までそうやって他人から金をまきあげてきたんです。人にやらせておいて、自分ができねぇとは言いたくねぇ。とはいえ、聖人の将来を思うと、浅はかなことをしたのは確かです。自分はどうあがいても、長くは生きられねぇでしょう。それはいい、自分はそれでいいのですが」
 唇を噛み締め、長瀬はその場に膝をついた。
「聖人は女です。そして水南の血を引いている。水南と同じ病気になる確率は、決してゼロじゃあありません」
「………………」
「もし自分に何かあれば、その時は聖人のことをお二人にお願いしたいんです。図々しい話なのは百も承知していますが、これは水南の最後の願いでもあるんです。――あなた方二人に、聖人のことを頼みたいんです」
 一瞬息を引いた成美は、ようやく不確かだった何かが鮮明に見えてくるのを感じた。
 生前の水南が、成美のことを調べさせていた理由。
 氷室の部屋に残されていた鍵と格言。
 安治谷駅に残されていたメッセージ。
 今、ようやく全ての疑問が解けた気がした
 水南は最初から、氷室と成美の2人に謎を遺したのだ。
 それはきっと、後藤水南という人の辿った道を探させながら――ここに2人を導くためだったのだ。
 気づけば成美は、両手で口を覆うようにして泣いていた。
 氷室が気遣うように、そっと背に手をあててくれる。
「ご、ごめんなさい。う、うれしいんです、私」
 しゃくりあげながら、成美は言った。
「み、……水南さんが、私を選んでくれたことが、嬉しいんです。今、私がいうこと……きっと意味がわかんないと思いますけど」
 聖人は、目の前で頭をさげる長瀬であり、母に捨てられた成美でもある。そして水南であり、氷室でもあるのだ。
「ぜ、絶対に大切に、育てます。も、もちろんそんなことにならないことが前提ですけど。長瀬さんがずっと生きていることが前提ですけど」
 あとはもう言葉にならなくて、氷室の胸に顔を埋めるようにして成美は泣いた。
 水南さん。
 本当は私、ずっとあなたが怖かった。
 でもここまでの道中で、あなたは私にとって、すごく大切な人になりました。
 なんだか、まるで昔からの友達みたいに、あなたのことが愛しくて、……大好きになったんです……。
「……僕の答えは、言うまでもないと思います」
 成美の肩をなだめるように抱きながら、氷室が静かな口調で言った。
「そうですね」
 静かにそう答えた長瀬が、ふと苦笑するのがわかった。
「すみません。水南が亡くなった時のことを思い出してしまって。……あの時は、自分も少し感情的になっていた。氷室さんには、随分と失礼なことを言ったと思います」
「いえ、お気持ちは理解していたつもりですから」
 2人の会話を聞きながら、成美は涙を拭って顔を上げた。
 氷室はおそらく、その時、聖人を引き取ることを申し出たのだろう。けれどそれは、真実から逃げ続けていた氷室にとっても、妻を亡くしたばかりの長瀬にとっても、時期尚早すぎたのだ。
「正直に言えば僕は、……後藤氏があなたに聖人を託すと決めた時、それが聖人と水南の強い希望であったにせよ、後藤氏がそれを承知したことを非常に不思議に思いました。けれど今日お会いして、その理由が初めて得心できた気がします」
「自分と聖人は、――もちろん死んだって聖人にいうつもりはありませんが、血のつながりでいえば兄妹なんです」
 淡々と長瀬は言った。
「いや、そんなものでもねぇ。……うまくいえねぇ、自分にとっては生きる希望の、全てです」
「僕がいいたいのは、あなたの人柄が後藤氏をしてそうさせたんだということです」
 氷室が静かに言葉を継ぐ。
「僕は最初から最後まで、彼にとってのいい義息にはなりえませんでしたが、あなたは違う。ちゃんとあの難しい人の心を掴んでいる、という意味です」
「氷室さん。人は、変わるんです。いや、変わることができるんです」
 氷室は無言で、そう語る長瀬を見る。
「あの人が変わったんだとしたら、それは自分なんかのせいじゃねぇ。……あの人自身の、努力だと思います。あの人は、もう一度娘とやり直したいんです。まさは……きっとあの人にとって、最後までうまく愛してやれなかった水南なんでしょう」
「……そうかもしれませんね」
 氷室は呟くように言い、しばらく黙ってから顔を上げた。
「最後にひとつ、……お伺いしたいことがあるのですが」
「なんでしょう」
「見せていただくにしろ、お答えいただくにしろ、差し支えなかったらで構いません。水南はなにか……、遺品のようなものを残していないでしょうか」
「遺品」
 呟くように言った長瀬は、少し申し訳なさそうな目になった。
「水南は、身の回りのものは全部自分で処分しちまったんです。自分の痕跡を残したくないと言って、そりゃあもう、徹底的に何もかも。位牌は、後藤のおやじさんに預けましたし、遺影も嫌がったので残していません。遺影や位牌については、自分も抵抗がありましたが、水南の強い願いだったのと……」
 長瀬は言いよどみ、言葉を継いだ。
「なんとなく、水南の気持ちがわかったので。詳しいことは知りませんが、水南はずっと過去の人たちの思いに囚われて生きてきた。……病気のことなんかもそうでしょう。きっと聖人に、自分と同じ思いをさせたくないと思ったんじゃないでしょうか」
 それは、聖人を後藤家とは切り離して育てて欲しいという、痛烈な願いでもあったのだろう。
 後藤家――つまり、水南自身と。
「もうひとつ、……これは水南の考えが間違っているんで、これだけが原因であれば、自分は到底納得しなかったでしょうが」
 前置いて長瀬は続けた。
「結局水南は、最後まで自分を許せなかったんじゃないかと思うんです」
「許せなかった」
「……水南には、自分以外の他人を、目的到達のための道具としてしか認識できないようなところがありました。――自分以外の他人に、自分と同じような感情が流れていることに無頓着とでもいうんでしょうか。蓮池の叔父貴や一哉もそうですが、そういう気質の人間ってのは、生まれながらにいるもんなんです。……もちろん皆が皆、蓮池の叔父貴や一哉みてぇな人殺しになるわけじゃあないし、育った環境にも左右されるとは思いますが」
「……わかります」
 沈痛に呟く氷室の脳裏には、今、自分の父親の面影が浮かんでいるのかもしれない。そう思った成美はつい氷室の腕に手を添えていた。
「これもまた自分の知る限りですが、そういった人間は、大抵自分と同じくらい大切な人ができたとき、それまでのアイデンティティが揺らぐんじゃねぇでしょうか。一哉には水南がそうでした。……そして水南には、氷室さん、あなたがそうだったんじゃないかと思うんです」
「………………」
「これは水南が1人で墓場にもってった秘密なんで、自分に詳しいことはわかりません。けれどあなたと出会った当初、水南はあなたを……後藤雅晴さんの隠し子じゃないかと疑っていたんじゃないですか」
 氷室は答えず、わずかに目だけをすがめる。
「つまりあなたは、水南にとっては生まれて初めて知った同族だったんです。水南はあなたに随分ひどい真似をしたと言っていましたし、その理由をあれこれ分析していましたが、分析どおりそれは同類嫌悪でしょう。水南はあなたの存在を恐れ、憎み、同時に惹かれた。それは当時の彼女が、世界に存在する唯一のもの――つまり自分自身をあなたに投影していたからなんです」
「………………」
「やがてその誤解が解けた時、あなたは水南にとって、肉親から1人の異性になりました。同時に水南は、自分の父親とあなたの父親の因縁を知ったわけですが……その後の水南の行動の動機は、全てあなたへの贖罪と深すぎる愛情からきています。その愛情の深さは自分には到底理解できねぇ。……でもそのルーツが、肉親に抱くもののそれだとすれば少しばかり納得がいくんです。変な意味じゃあありません。水南はあなたを……もちろん男性として愛していたでしょうが、その根源にはもっと深い、肉親に対する無償の愛があったような気がしてならねぇんです」
「………………」
「幼い頃の水南は、あなたを弟かもしれないと思いこみ、稚拙な愛憎の全てをぶつけたはずです。まるで自己を愛するようにあなたを愛し、自己を憎むようにあなたを憎んだ。それが水南の、あなたに対する感情のルーツなんじゃないかという気がするんです。……そうでなけりゃあ、自分には到底理解できねぇ。20歳かそこらで誓い合った相手に、生涯を捧げるような愛し方は……自分にはとても出来ねぇ」
「……20歳」
「水南はその頃、神様の前で永遠の愛を誓ったんだと言っていましたよ。その誓いは、実際水南が死ぬまで一度ととして破られちゃあいねぇ。それは自分が、保証します」
 氷室が無言で目を閉じる。彼が今、懸命に何かの感情と戦っているのは明らかだった。
「稚拙な才に溺れたのは僕の方だ。つくづく……愚かだったと思います」
「男なんてそんなものです。周りくどい真似をされたところで、女の気持ちなんてさっぱりだ」
 苦く笑い、長瀬は膝に手をついて顔をあげた。
「最後にもうひとつだけ、あなたに話しておかなければならないことがあります。水南はあなたへの贖罪を果たすために、過去の亡霊をこの世に蘇らせてしまいました。それがアルカナで、そのためにあなたのご両親と神崎香澄は死に至りました。香澄の死には多分に自業自得なものがあるとはいえ――水南がそれを知らされた時のショックは……、ご理解いただけると思います」
「……僕が、その知らせを聞いたのは、ドイツに赴任していた時でした」
「水南と結婚していた時ですね。……だったらもうお分かりだと思います。あなたが帰国した時、水南が姿を消していた理由は」
「………………」
「香澄に成島の所在を打ち明けた時点で、水南には、自身と香澄の、双方の破滅が見えていたです。己共々香澄がこの世から消えてしまえば、もうあなたを脅かすものは何もなくなる。水南はそう望んだんです」
「………………」
「けれど水南の予想を裏切り、香澄は水南を助けようと奔走します。香澄の中にあった憎しみの裏の愛情に、水南は愚かにもその時まで気がつかなかったんです。さらに救出された水南には、思わぬ幸福が戻ってきました。――あなたです。期せずして水南には、あなたと夫婦として暮らしていく未来が与えられたんです」
「………………」
「その展開に一番当惑したのは水南自身でしょう。いや最も理解できなかったのは、あれほどひどい目にあわせたはずのあなたと後藤雅晴氏が、この状況に心を痛め、救いの手を差し伸べようとしてくれたことでしょう。水南は、再びあなたに憎まれるために結婚することを決めたといいます。けれど……それは水南の屁理屈であって、本心は違う。そんな理由で結婚ってぇのは理にあわねぇ。話を聞いた自分は……笑っちまいましたよ」
「………………」
「水南は終生変わらずあなたを愛し続けていました。廃屋の地下に花束を持っていった時――自分は意図的にあなたの風貌を真似ましたが、それを皮肉だったと言いましたね。そう、言葉どおり、あれはピエロを演じた自分に対しての皮肉なんです。あの役回りは――廃屋の地下の存在を知っていいのは、後藤家の正式な夫だけだというのはご存知でしたか」
「……いえ。……はっきりとは」
「あの地下に何の秘密が隠されているのか、正直自分にはさっぱりです。地下の存在は、代々父親が娘に告げることになっているんだそうです。……水南自身は、地下の存在を佐伯涼の口から知らされたと言っていました。ただし佐伯涼も自分同様、地下の意味はもちろん……足を踏み入れたことすらないと言っていたようですが」
「………………」
「すみません。話がそれちまいまいたね。水南とあなたが結婚した頃――その時はまだ香澄は生きていて、三条守のところに匿われていました。あるいは水南が出産を決めた理由のひとつは、香澄を侠生会から守る意味もあったのかもしれません……。そこはもう判りませんが、水南にとっては、香澄が生きていることが唯一の救いだったはずなんです。けれど香澄は逃げ出して……自殺した。病気のことが原因だったんじゃねぇかと思いますが、水南にはそうは思えなかった。おそらくですが、自分1人が幸福な道を選ぶことが、耐えられなくなったんじゃないでしょうか」
「………………」
「いずれにしても、水南は香澄の死に強い責任を感じていて、それは自分も最もだと思っています。ただ水南が、自身を許せないと思うあまり、その生きた痕跡すら家族に残そうとしないのは……少しばかり違うと思っていますがね」
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。