「前述しましたが、一哉は当時、自分のマンションで死んだように生きていました。かつて一哉が、ポルノ屋だったを連中を殺した時から、奴には見張りをつけ、絶対にマンションから出さないようにしていたんです」
 ここから先は、おそらく彼が死んだことになった夜の顛末になる。
 成美は緊張し、先ほどから動かない氷室の横顔をそっと見上げた。
 さきほどから氷室はずっと口を開かない。彼は今、どんな思いで長瀬の独白を聞いているのだろうか。
「一哉は、自分と香澄の話を聞いてしました。いつものようになんの反応も示さず、部屋の隅でぼやっと空を見ている一哉に、普段と変わった様子は見られませんでした。けれど一哉の心は、その時静かに覚醒していたんです。そのキーワードが後藤水南。……一哉にとって、最後まで天使だったあの時の少女でした」
 その刹那、ほんの少しだけ、氷室の横顔に暗い影が射した気がした。
「自分は舎弟を運転手役として一人携え、蓮池に指定された工場跡地に向かいました。運転手は連絡役として車に残しました。水南がもし一人で逃げ出すことができたら――その可能性は極めて低いと思いましたが――彼女を連れて逃げる役目だったのですが、彼がその役目を果たすことはありませんでした。荷台に密かに乗り込んでいた一哉に、殺されたのです」
 長瀬は静かな口調で続けた。
「その時の一哉に、敵味方の判別はなかったのでしょう。一哉の頭にあったのは、おそらく天使を助けることだけでした。2人だけで会うという約束に反して、工場内には複数の蓮池組の連中がひそんでいましたが、一人一人、一哉が殺していきました。蓮池にも何が起きているのか判らなかったようで、むやみむたらに拳銃をぶっ放し、現場はあっという間に銃撃戦になりました。自分もやむなく応戦しましたが、とにかく一哉を止めるのが先決でした。一哉と水南を逃がそうとして、その混乱のさなか、2発、胸にくらったことまでは記憶しています。次に気がついた時、自分の目の前には……宮田の親父の顔がありました」
「…………」
「親父は顔をくしゃくしゃにして、馬鹿野郎、馬鹿野郎といって泣いていました。親子で殺しあう奴がいるか、馬鹿野郎、と」
 長瀬の眉が微かに歪み、彼はそっと視線を下げた。
「すみません、と自分は親父に謝りました。アルカナのことを親父に伝えたかったのですが、どうしてだか口が回ってくれませんでした。そこでまた意識が途切れて、次に気がついた時には、自分はタンカのようなものに乗せられていました。視界に映るのは見知った組の連中ばかりで、親父がその場を指揮しているようでしたから、警察はまだ来ていないんだと判りました。血を流して倒れている蓮池の亡骸を見下ろした時、ひどく不思議な気がしたのをよく覚えています。安心とも寂しさとも違う。何か……自分を縛っていた糸が、ふつりと切れたような感覚でした。そうしてふっと顔をあげると、水南が自分を見下ろしていました」
「………………」
「髪は乱れ、手は血だらけで、……蒼白な顔していましたが、目にはしっかりした色がありました。死んだわ、と水南は小さな声で言いました。震えるような声でした。あなたのお友達が、私のために死んじゃったわ、と」
「………………」
「自分は、懸命に首をかたむけて、水南の向こうにあるものを見ようとしました。水南の背後で、鉄柱に背をあずけるようにして、一哉は絶命していました。その白い顔に満足そうな笑みが浮かんでいるのを見て、一哉はきっと自分の妹を救ったんだと思いました。あんたのせいじゃない、と……そう言おうと思いましたが、やはり口がうまく回ってくれませんでした。水南の手にも服にも血がべったりついていて、おそらく彼女が一哉を抱きしめてくれたんだろうと、何故かそう確信しました。それだけで、ひどく幸福な気分でした。あんたは生きてくれ、そう伝えたかったのですが、うまく伝わったかどうかは判りません。自分は再び意識を失い、次に気がついた時は、韓国の病床にいました」
 
 
 
「自分が本国で死んだことになっているのは、自分の世話役としてつけられた宮田組の幹部から聞かされました。蓮池組の残党に報復をさせないためには、確かに自分が消える他ないのは判っていましたが、……だったら本当に殺してくれればよかった、とも思いました。親父はつくづく身内に甘い。親父は警察と裏取引をしたんです。当時警察がやっきになって追っていた麻薬ルートをひとつ潰させるのを条件にね。結果、親父は侠生会内での立場を失い、引退しました」
 苦く笑い、長瀬は膝の上で拳を握りしめた。
「自分に用意されていたのは、全く別人になった顔と、闇戸籍と偽造パスポート、それから預金通帳とクレジットカードでした。組に戻る道もあると言われましたが、自分は今後一切組には関わらないという誓約書を書き、預金通帳とカードは返しました。退院後は、現地で日雇い仕事をして、船賃がたまった時点で帰国しました。それが危険な行為だということは判っていましたが、一哉の墓に、参ってやりたかったんです」
「………………」
「帰国して一哉の墓――なんとも皮肉なことに、それは自分の名前が刻まれた墓なのですが、墓に参ると、自分は本当に空っぽになりました。何日も飲まず食わずでしたので、一哉の墓の前で、なけなしの金で買ったビールを飲み干した時、泥のような眠りに落ちるのを感じました。仰向けになり、自分は目をつむりました。降りだした雪が冷たくて心地よかった……。きっと、このまま自分は死ぬんだろうと思いました。その時ふと、子供の頃に一哉と見た景色を思い出したんです」
 少しだけ、長瀬の目元が優しくなった。
「あれは――まだ一哉の妹が生きていた頃の話です。母親が客をとっている間、ベランダに追いやられた時ですね。真冬で……寒くてね……。その時ばかりは3人で抱きしめ合うようにして夜を過ごしました。で、ふと夜空をみあげると、羽虫のようなものが白く輝きながらふわふわと頭上に降りてきた。きっと子供向けアニメの影響でしょうが、一哉がその時、天使が助けにきてくれたって叫んだんですよ」
「…………」
「一哉は、こっちだよ、と叫びました。早く僕を見つけて、ってね。……ずっと忘れていたその時のことがなぜだか鮮明に蘇ってきて、なんだか涙が出てきちまって……自分はふと目をあけたんです。水南が、自分を見下ろしていました」
 言葉を切り、長瀬はわずかに微笑んだ。
「よう、と自分は言いました。声をかけてから、この女が今の自分を知るはずがないと思いました。けれど水南は特段驚くことなく、すっかり元気になったのね、とだけ言ったんです。それだけで、水南が今日までの全てを知っていることが判りました。――思えば水南は、被弾した自分が運ばれるあの最中、現場に居合わせていたんです。いや、もっとはっきり言えば、この世でただ一人、最初から最後まであの工場で起きた全てを見ていたのが水南なのです。宮田の親父が水南の口封じをしなかったことが不思議ではありましたが、その疑問はすぐにとけました。水南の、腹を見た時です。それは同時に、自分にとっては身の毛のよだつような衝撃でした」
「……………」
「蓮池の叔父貴の子か、と自分はそう聞きました。私の子よ。水南はそれだけを答えました。腹の大きさからいって、いや、事件からすでに半年以上が経過していることからして、もう堕ろせる時期はとうに過ぎていることは判りました。もしそれが蓮池の子なら、宮田の親父は、何と引き換えにしたって水南にその子を産んで欲しいと望んだでしょう。……つまり水南は、それを条件に侠生会の手を逃れて生き延びたといってもいいんです」
「……水南は……」
 水南が襲われた話になってからずっと黙っていた氷室が、初めて口を開いた。
「では水南は、生きるために……そんな男の子を産むことにしたというんですか」
 掠れた、辛そうな声ではあったが、隠し切れない不審がそこにはこめられていた。
 疑問に思ったのは成美も同じだった。その妊娠で、結果として水南は自身の命を落としているのだ。
「いえ……きっとそれだけではないでしょう。いや、自分も後で知ったことですが、出産を決めた時から、水南に、その先の人生を生きる気力はもうなかったんです」
 長瀬は視線を下げたままで、再び話し始めた。
「再会した墓場で、水南の馬鹿げた決意を知った自分は、腹をかかえて笑いました。判るでしょう、自分の気持ちは。目の前に、また母親と同じ愚を犯そうとしている女がいる。あんたが産む子供が俺なんだ。俺は笑いながら言いました。あんたは俺の異母妹だか、異母弟だかを生むことになるんだ。なぁ、俺みたいになるんだよ。あんたは怪物を産んで、そうして生涯、過去を忘れられずに苦しむんだ。あんた、馬鹿じゃねぇの、と言いました。水南はそうね、とだけ言って、墓地を掃除するために置いてあったバケツを取り上げ、その中身を思いっきり自分の顔にぶちまけました」
 当時のことを思い出したのか、長瀬はわずかに苦笑した。
「冬ですよ。ただでさえ寒いってのに、薄く氷を張ったような冷水を―ーさすがに頭にきて、てめぇ何しやがるって跳ね起きましたよ。そうしたら水南は、平然とした顔で言うんです。このお腹にいるのはあなたの異母妹だから、あなたには、私を守る義務があるんだと言うんです。――はァ? と思いました。何言ってやがんだ、この女はと」
「…………」
「この子を産もうと決めたおかげで、父親にも夫にも縁を切られたんだと言っていました。貯金も底をついて、生活に困っているんだとも。死ぬ元気があるなら、働いて私たちを養ってくれってね。――それはもう、恐ろしいくらいお姫様然とした表情で」
 目を細め、長瀬は少しの間言葉を切った。
「ぽかん、としましたよ。言っちゃあ悪いがそこまで図々しい女を見たのは初めてでした。なんていうか、まるでいきなり継母になったみたいな態度でしたね。こいつ、頭がおかしいんじゃねぇかとも思いました。だって、あんな目にあった女の吐けるセリフじゃねぇでしょう。正直、二度と関わりあいになりたくねぇと思いましたよ。一哉も、とんだ女を助けたもんだって」
「………………」
「それでも……なんとなく放っておけない気がしましてね。墓地のすぐ傍のアパートに住んでるっていうから、……次の日から仕事を探して、月給が入ると、いくばくかを届けるようになりました。その都度嫌味を言いあってね。なんだかお上品なお嬢様だと思っていましたけど、とにかく辛辣な女でしたよ。自分の一番痛いところをずばずばとえぐってくる。その度に自分は腹を立て、二度とくるものかと思うのですが……結局は水南のところに通っている。気がつけば自分が死のうとしていたことなんて、綺麗さっぱり忘れていました」
「……長瀬、という名前はその頃から?」
 氷室の問いに、長瀬は短く頷いた。
「組に用意してもらった偽造パスポートと戸籍は捨てて、まだこの世に生存していることになっている、長瀬一哉として生きようと決めたんです。……そう思うようになったのは、水南と再会して3ヶ月もたった頃でしたが」
 うつむいて、成美は静かに思っていた。
 きっと水南さんは……この人にもう一度生きて欲しいと思ったんだろう。
 もしかすると彼女はどんな形であれ、自分の思いを真逆な態度でしか伝えられない人なのかもしれない――
「水南は墓地裏の小さなアパートで、名前も変えて、身を隠すようにして暮らしていましたが、決して金に困っていないことは察しがつきました。自分も以前は贅沢な暮らしをしていましたからね。一見質素な暮らしをしているようにみえて、細けぇところに金をかけてることくらいは察しがつくんです。自分が渡した金に手をつけていないこともやがて判りましたが、不思議と腹はたたなかった。だから自分は水南のところに通い続けました。誤解されては困りますが、それは決して愛だの恋だのという浮ついたものじゃあない。そういうんじゃなく……ただ自分は、なぜだか水南を守りたいと思うようになったんです」
 視線を下げ、長瀬は小さく息をついた。
「産み月が近くなった頃です。その頃になると、自分は、痩せていく水南が心配で毎日彼女のところに顔を出していたんですが、その自分に水南は、今まで渡した金の全てを差し出して、……手をついて謝りました」
「………………」
「驚く自分に、もう二度とこないで欲しいと水南は言いました。あなたは元ヤクザで正体が知れればいつ殺されるか判らない。だから――生まれてくるこの子に害が及んで困るというのが、水南の言い分でしたが、自分はそれは水南の本心ではないと思いました。だったら最初から水南が自分に接近してきたりはしない。その時には自分と水南の再会が、決して偶然ではないことも判っていました。水南は当時、宮田の親父の庇護下にいたんです。だから自分が帰国したことも、いつか必ず一哉の墓参りにくることも、……予め知っていたんです。そうして何もかもなくした自分が、死を望むであろうということも――知っていたんです」
 長瀬の目が、少し辛そうに細められる。
「あの時、生きろと言われたから、自分は生きることにした、……そう水南は言いました。運ばれる間際に自分が伝えたかったことは、ちゃんと水南に届いていたんでしょう。けれどそれは、決していい意味で届いちゃあいなかった。水南は言いました。自分のために今まで沢山の人が死んできた。それはあなた……氷室さんの両親であり、結果的に死を選んだ香澄であり、一哉であり、あの事件で落命した自分の同輩です。だから罰を受けなければならないんだと、水南はそう言うんです。人生で最も苦しいことは生きることだと――だから死ぬまで苦しんで生きることにしたと言うんです。いってみれば、それが水南が出産を決めた本当の動機だったんです」
 氷室は無言で視線を下げる。
「怒らないでください。自分はその時、水南を平手で張り飛ばしてやりました。言い訳じゃあねぇですが、女に手をあげたのはその時が初めてでした」
 軽く唇を噛んで、長瀬は続けた。
「それじゃあ、自分の母親と同じだろうがと言いました。苦しむために産むくれぇなら、最初から産むなんて言うな、と言いました。俺みたいな子供を二度と作るな、と言いました。それから土下座して言いました。……どうか最後まで見守らせてくれと」
「………………」
「自分はいつの間にか、水南に自分の救いを見ていたのかもしれません。水南の何もかもが、まるで運命の皮肉のように自分の母親とそっくりなんです。それでも幸福になれる、生まれてきた子供は絶対に幸福になれる、自分はいつしかそう信じたいと思うようになっていたんだと思います。そうすれば……」
 長瀬は言葉を切って、しばらくの間無言だった。
「自分がこの世に生まれてよかったと、初めてそう思えるような気がしたんです」
 
 
「気づけば、水南も自分も泣いていました。怖くなるんだ、と水南は泣きながら言いました。せっかく一人で生きていく覚悟ができたのに、他人にすがることに慣れてしまうのが怖いんだと言いました。その時水南の病気のことを知っていたら……もっとマシな言い方ができたんじゃないかと思います。今なら判ります。水南は、いずれ必ずくる別れが怖かったんです。だから必要以上に他人と関わらないようにしていたんです。自分はそんなことまで知らなかった。だからただ――ずっと傍にいさせてくれ、といいました。何があっても、俺にあんたと子供を守らせてくれと言いました」
 成美は自分の目元が潤み出すのを感じて、急いで視線を下げた。
「水南が納得したかどうかまで知りません。自分は他人の思惑なんてお構いなしの元ヤクザで、しかも水南に恋愛感情を抱いていたわけでもない。まぁ、惚れたはれたでもあれば、多少は女の気持ちがつかめなくて悩んだりもしたんでしょうし、水南も決して自分を受け入れはしなかったでしょう。正直いえば、あまり水南の気持ちに頓着することもなく、翌日から水南の部屋で生活するようになりました。どうやったって恋人になれねぇのは、自分の身体を知るものなら誰しも納得したでしょう。自分らは最後まで夫婦ではありませんでしたが、ひとつの運命共同体でした。その関係は――水南が出産し、彼女が死ぬまで続きました」
「父ちゃん!」
 その時、扉が勢いよく開いて、甲高い子供の声がした。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。