「どういう、ことなんですか」
「……話を、もっと先に戻さなければいけないですね」
 呟くような氷室の問いに、長瀬は静かに居住まいを正した。
「自分が組詰めになった頃、宮田の親父の周りには、親父を金づるとして利用しようとする芸能人や芸術関係の輩が何人かいました。その中で親父が最も目をかけ、自分の屋敷に自由に度入りを許すほどになった男がいたんです。ひょろりとした色白の優男で、周囲の連中は親父の愛人だなんて噂していましたし、自分もそうだと思っていましたが――真相は謎のままです。あるいは成島襄もまた、親父の隠し子の一人だったのかもしれません」
「…………」
「成島はやがて親父の元を離れて、後藤議員――水南の父親をタニマチにし、金の力で多少は名の知れた画家になりました。話が前後しますが、雪山で出会った少女――後藤水南が宮田組にとっちゃあ決して無縁ではなかったことは、その少し前に知ったことです。ここからの話を、どこまで話していいか判りませんが……」
 長瀬の目が、少し迷うように成美に向けられる。遮ったのは氷室だった。
「必要な話なら構いません。彼女もある程度のことは知っていますから」
「わかりました。後藤議員――水南の父親なので後藤さん、とお呼びしますが、後藤さんは議員になる前、現政府の重要機密に係るある音声データの存在を政府関係者にリークし、その関係者筋が侠生会にデータの抹消と周辺人物の口封じを依頼してきました。侠生会会長の浅川桐吾は、その汚れ仕事を当時若頭補佐だった宮田の親父にやらせたんです。親父は――」
 眉を微かに寄せたまま、長瀬は氷室を見て、そしてその視線を下げた。
「あなたの父親からデータを託された人物を、おそらくですが消したのでしょう。そうしてデータを奪い取り、この世から抹消した。この一件によって、侠生会と現政府の間に切っても切れない黒い鎖が結ばれたのはいうまでもありません。そして、それは今でも続いている。……余談ですがね。本題にもどると、後藤さんは侠生会や宮田組に決して逆らうことのできない立場だったということです。議員になった最初から」
「……………」
「おそらくはそういう縁で、宮田の親父は成島襄を後藤議員に預けたんだろうと思います。ここまで話して推測いただけると思いますか、親父の唯一の弱点はいったん心を許した相手に対する甘さです。親父は、成島にまっとうな画家になって欲しいと思っていたんでしょう。が、その願いもむなしく成島は下っ端組員と組んで贋作をブラックマーケットに流していた。……年下の自分からみても、目先のことしか見えない、どうしようもなく間の抜けた男でした」
 微かに冷笑して、長瀬は続けた。
「その成島が、後藤さんの口利きであるキリスト系の女子大の準講師の職を得た。その大学に水南が進学したのは、偶然というより必然でしょう。後藤さんが娘を進学させるなら自分の支配力が隅々まで及ぶその学校以外にはありえませんでしたから。――そうしてその実力者の娘に、成島のような他人に寄生することに慣れきった下衆が接近するのも、また、必然だったのです」
「………………」
「水南は、自分が今話した程度の知識――いやもしかするとそれ以上の知識を持っていたはずだと思いますが、それはおそらく成島から聞かされたものでしょう。後年、これは自分と水南が共に生活するようになってからですが、当時のことを振り返って水南が言ったことがあります。自分の父親が――後藤さんのことですが――後藤さんがあなたにしてしまったことは許されることではない。自分自身が身を持ってそれを贖わなければいけないと思ったのだと」
「……それは、水南自身が、という意味ですか」
 呆然と呟く氷室に、長瀬は小さく頷いた。
「……氷室さん。あなたは少なくとも父親が犯した罪とは無関係だ。なのに両親を同時に奪われ、未来さえも後藤さんに奪われようとしている。水南はね、その全てを自分の力で取り戻そうとしたんです」
「………………」
「水南と成島の主従関係がどうやって逆転したのかは知りませんが、おそらく肉体関係はなかったはずです。水南はその気になれば、どんな男でも口先ひとつで操ることができますからね。――いずれにしても、成島は水南の下僕になった。そうしてある日、成島はおそろししいことをしでかしたんです。宮田の親父の自室から、件のデータを盗みとり、それと引き換えに巨額の金を親父に要求したんですよ」
 そのデータとは、アルカナのことだ。
 成美は思わず自分の膝の上で拳を握りしめている。
「データは、消去されたのではなかったのですか」
 氷室の問いに、長瀬は苦い目になって首を横に振った。
「だったら話は簡単だったのですが、されていなかったことが親父の読みの甘さであり……トップにたてない器であることの証明なんでしょうね。いずれにしても親父はデータを残していたんです。しかも侠生会の浅川桐吾にも内密に。将来、何かの切り札に使えるとでも思ったのか――浅はかなことです。浅川桐吾に万が一このことが知れたら指詰め程度じゃあ済まされない。親父は成島の要求を全てのみました。そうして大金を手に入れた成島は海外に高飛びし、その後行方はようとして知れないままだったのです」
「………………」
「ちなみにこの話は、宮田組の幹部の、ごく一部しか知りません。成島が親父からいくばくかの金をせしめて海外逃亡したっていう噂は当時下っ端だった自分らの耳にも入ってきましたが、詳細は誰も知らなかったし、いわんやその黒幕に
19歳の女子大生がいるとは想像もつかなかったでしょう。――ここまで話せば推察いただけると思いますが、成島にそんな大それた真似をさせたのは水南なんです。この話を自分が知っているのは、もちろん水南の口からそれを打ち明けられたからです」
「水南の……目的は、データですか」
「その通りです」
 氷室は打ちのめされた顔になり、力なくその視線を彷徨わせる。
「水南がその計画を立ててから――それを実行に移すまでには、様々な葛藤があったといいます。計画にわずかでも綻びが生じれば、命に危険が及ぶこともためらいのひとつだったでしょうし、それ以上にあなたに真実を知られ、嫌われてしまうのが怖かったとも言っていました。けれど水南は、恐るべき計画を実行に移しました。そのきっかけは……無礼を承知で申し上げれば、水南が自身の出生の秘密を知ってしまったことにあると思います。どうやってもあなたとの幸福な未来はない。水南はその時、そう思って腹を括ったのでしょう」
「………………」
「水南は、成島を通じて入手したデータを、あなたの父親に手渡そうとしたそうです。けれど、あなたの父親は即答で断った。もう誰も傷つけたくないからと」
「………………」
「その時、あなたの父親はこうも言ったそうです。自分が水南の父親かどうかという点については、今までその可能性を疑ったこともないと。もし自分に言えるのだとしたら、答えはノーでしかないと」
「………………」
「ただし、100パーセントの確証があるわけではないから、鑑定をしたいならやぶさかではないと。その時すでに水南はあなたとの関係に答えを出し、自分で作った結末に向かってひた走っている真っ最中でした。ずっと父親だと信じていた佐伯涼と面会した水南の心は激しく乱れ、どんなにか計画の中止をしようか判らなかったと告白しています」
「水南の、計画とは……データを手にいれることで終ったのではないんですか」
 氷室の問いに、長瀬は視線を下げ、ゆっくりと首を横にふった。
「それは手段にすぎません。水南の本当の目的は、あなたを後藤家の呪縛から解き放つこと」
「………………」
「あなたの母親を、後藤雅晴から開放すること」
「………………」
「それからあなたの父親の立場――決して横領の主犯だったわけではないことを詳らかにし、後藤さんを断罪すること」
「………………」
「3つ目だけは、佐伯涼の説得もあって諦めたようですがね。……実際、あの人物が水南の父親だったとしたら、ですが。娘と邂逅したたった一度のあの時ほど、父親らしい真似をしたこともないでしょう。もし水南が彼女の計画を実行していたら、水南の命はまずなかった。それどころか、もっと大勢の人間が犠牲になっていたかもしれませんから」
 長瀬は厳しくすがめた目を自身の膝の辺りに落とした。
「佐伯涼は、件のデータを公開する件についてだけは頑なに拒絶しましたが、彼の妻とあなたを手元に引き取ることについては同意したそうです。実際、どちらが妻子にとって幸福なのか彼自身迷っていたのでしょう。しかし、そこにも水南の若さがあり欺瞞があったと思います。佐伯涼が後藤さんから妻子を取り戻すために、使える取引材料はひとつだけでした。……アルカナ……水南が手に入れたデータです」
「…………」
「しかし、佐伯涼はアルカナを手にすることを頑なに拒絶しました。だから水南は、自分の名前を出すよう佐伯涼に言ったんです。つまり水南がデータを宮田組から盗み出したことを知っていると――それを材料に、後藤さんと取引するようすすめたのです。佐伯涼は快諾しました。そこでも愚かにも水南は見落としている。……佐伯涼の中に、その時、水南が自分の娘なのかもしれないという意識がわずかでも働いてしまったことに。佐伯涼は水南の名前を最後まで出しませんでした。かわりに自分が成島襄をそそのかしてデータを手に入れさせたのだと後藤さんに話してしまったのです」
「………………」
「データは成島が持っているとでも言ったのでしょう。その時成島は海外にいて、誰も行方が掴めない状況でしたし、実際後藤さんを脅すには本物のデータを持っている必要などなかったのですから。あのデータが存在していて、誰かがそれを持ちだしたことを知っている。――その事実だけで十分だったのです」
 長瀬は言葉を切り、微かに息をついた。
「その後の顛末は、自分よりあなたの方が詳しいのかもしれません。結果、後藤はあなた方母子を手放すことを承知し、母親は逃げ出しましたが、あなたは後藤家に戻りました。そう、そこまではある意味水南の予想どおりでした。けれど後藤さんは、水南の予測に反してこの件を――佐伯涼に脅迫された件を、宮田の親父に打ち明けてしまったのです」
「…………」
「宮田の親父が、佐伯涼とその妻の居住を何度も荒らし、2人に監視をつけたのはご理解いただけると思います。実際、どこを調べられてもデータなどあるはずがないし、宮田組にもそれを隠し持っていたという弱みがある。なんとか切り抜けられると頭のいい佐伯涼は思ったのでしょう。――が、佐伯涼はそうでも、彼の妻はそうではなかった。監視され、暗に脅される毎日に精神衰弱になり……結果、あのようなことになったのだと思います」
「………………」
「水南がそれを知ったのは、あなたと別れ、海外に住処を移した後のことです。自分の予測と計算が狂ったことに、水南は激しく動揺し、また後悔したと言っていました。水南が変容しはじめたのは、おそらくその頃からでしょう。生まれて初めて、自分がただの、平凡な、どこにでもいる愚かな女なのだと知ったのだと、――当時のことをこう述懐していたのを覚えています。つまるところ水南は、自分以外の他者を見下しすぎていた。その人物に様々な感情が――時には水南自身が思いもよらない感情があることに、それまで気がつかないでいたのです」
「………………」
「水南の誤算はもうひとつあります。ようやく自分から切り離したはずのあなたに、今度は神崎香澄が接近してしまったことです。あなたは他人に容易に心を奪われないタイプの方ですが、神崎香澄には不思議なノスタルジィを覚えたのではありませんか。実は自分も同じです。そもそも女と組まない自分が、初めてパートナーに選んだ女が香澄だというのがその理由だとお察しください。お恥ずかしい話ですが、自分は香澄に……かつて自分の命を救ってくれた少女の面影を見出していたのです」
 氷室の目が、微かな動揺を浮かべて長瀬に向けられる。
「水南と香澄。2人の容貌はさほど似てはいませんから、不審に思われたことでしょうね。けれど不審に思うと同時に、胸の奥の痛い部分を指摘されたような不愉快な気持ちになりはしませんでしたか。香澄は生涯の天敵として水南を憎んでいましたが、それには彼女なりの理由があるのです。香澄の、家系を調べたことは?」
「……いえ」
「香澄の家は、代々後藤家の使用人の家なんです。その内何人かは、後藤家当主の私生児を産んでいる。全て戸籍上神崎家の実子として処理されていますから、誰が後藤家の血を引いているかを正確に調べるには、鑑定するほかありませんが」
「………………」
「自分にいえるのは、香澄が後藤雅晴の実子だったということだけです。あるいは母親にも後藤家の血が混じっていたのかもしれませんが、それは誰にも判りません。一度、ひどく泥酔した時、自分は実験台なのだと香澄が漏らしたことがあります。呪いがかかっているのは三条家なのか後藤家なのか、それを試すために自分は作られた子供なんだと。姉を生かすための実験体が私で、だから私は絶対に妊娠なんかしないんだと――意味は……後年、水南に打ち明けられた時はじめて判りました」
「………………」
「水南が、あなたと香澄の関係を知ったのは、海外に居を移していた頃でしょう。水南の居所をつきとめた香澄から連絡がいったものと推測しています。ロンドンの田舎で静かに暮らしていた彼女が急ぎ帰国したのは、あなたと香澄を引き離すためだったはずです。水南がどれほど動揺していたかお分かりでしょう。せっかくあなたを――水南の言葉でいうなら後藤家の呪縛から解き放ったのに、そこに後藤家の血を引く香澄が入り込んではなんの意味もない。いえ、それはとってつけた言い訳で、香澄の背後にいる者の正体を知っていた水南は……単純にあなたが心配だったんでしょうね」
 苦く笑み、長瀬は少しだけ視線を下げた。
「水南は、香澄に土下座して、あなたと別れてくれと頼んだそうです。きっと香澄はささやかな勝利と満足を覚えたのでしょう。まさにそのためだけに、――水南に屈辱を味合わせるためだけに、香澄はあなたと関係をもったといってもよいのですから」
 
 
 
「水南は、あなたと香澄が再び接近することのないよう、その監視のためだけに国内にとどまりました。一方長年の宿敵に勝利した香澄は、ようやく新しい道に進もうとしていた。――闇社会と縁を切り、彼女の想い人と添い遂げることがそれだったのでしょう。けれどそれは、香澄が思うほど簡単なことじゃあありませんでした」
 少し厳しい目になった長瀬は、まるで自身を断罪でもしているかのようだった。
「男を頼ることを潔しとしない香澄が、今度は水南を頼りました。頼る、というよりは脅したのでしょう。香澄の性格上、水南に頭をさげることなんて絶対にできないはずですからね。再びあなたに接近するかもしれないと言って――いや、それだけでなく、あなたに水南との血のつながりをバラすと言って」
「………………」
「水南は香澄に5千万ほど用立てしたそうですが、もちろんそんな額じゃあ足りるはずもない。そこで水南が――自分を……烏堂誠治のことを思い出していれば、少しはマシな結末になっていたのかもしれない。けれどそれは無理な相談でした。当時自分は名前すら名乗っていない。逮捕されたのは替え玉で、烏堂誠治の名前はどこにも出ちゃあいませんでしたから」
「………………」
「再び香住に金の無心をされた水南は、そんなことよりもっといい方法があると、逆に香澄にもちかけました。そしてアルカナの秘密と――そして成島の居所を香住に打ち明けたのです。もちろんそれは、死に続くしかないパンドラの箱だと水南は理解していましたし、香澄にしてもそれが判らないほど愚かではなかったでしょう。言ってみれば水南は、自分もろとも香澄を葬り去ろうとし、香澄は逆に、そこに一縷の望みを見出し、あえて水南の罠に落ちたんです」
「………………」
「結果、数カ月後に香澄は死ぬことになるのですが――当時の香澄が、死を賭した無謀な賭けに出たのには理由があります。ひとつは――……」
 そこで言葉を切り、長瀬は微かに息をついた。
「自分が、金の取り立ての矛先を、三条守に向けたことにあるのでしょう。大企業の御曹司がヤクザの情婦と関係を持っている。それだけで随分な脅迫材料になることは想像できると思います。香澄から金が入らないことに業を煮やした自分は、実際そのような振る舞いをしてみせたのです。どうしたって逃げられないぞ、と香澄に警告する意味もありました」
「……………」
「もうひとつは――これは……推測にすぎませんが、当時、あるいは香澄が……」
 はっと成美は息を引いていた。
 男2人の視線が、同時に成美に向けられる。
「妊娠していた、……んじゃないですか」
「やはり、そうでしたか」
 長瀬は、暗い息をついた。
「随分後になりますが、香澄の死体検案書を入手して読んだことがあります。子宮が全摘されているという所見があったのに、不審を覚えました。香澄は避妊について細心の注意を払う女でした。つまりそのような処置をするのだとしたら、それは比較的最近のことではなかったかと思ったのです」
「……香澄も、じゃあ」
「水南と同じ運命を辿ったのでしょう……。自分は呪いなんか信じちゃあいませんし、それが遺伝だとしても、香澄がそれを継承する確率はとても低かったんじゃねぇかと思います。ただの偶然か、水商売をしている中で、癌の元になるウィルスをもらっちまったのか――。いずれにしても、背筋が寒くなるような偶然ではありますが」
「………………」
「後藤家の女の死に様を知っていた香澄は、自分がそうなる前に自らの命を断ったのでしょう。 生きている間に、自分のできうることを全てやりつくした後に。……結果として、それが様々な悲劇を生み出すことになるのですが」
 
 
 
「香澄が生きていた頃に話を戻します。水南から成島の居所を聞き出した香澄は、早速香港に飛び、彼とアクセスを試みました。自分の推測になりますが、実際成島はデータなんぞ持っていなかったのだと思いますね。あの阿呆がそんなものを持っていたら、今まで隠し通せていたはずがない。なんらかの取引をしようとして失敗し、殺されていたのが関の山ですから」
 冷たく言い捨て、長瀬は微かに眉を寄せた。
「……けれど香澄にとっては、成島と会った、という事実だけで十分でした。帰国した香澄がそれらの情報で自分と取引しようとしていたらまた話は違っていたかもしれません。けれど香澄はそうしなかった。香澄の目的は、取引ではなく自分を潰すことにあったんです。香澄はそれらの情報を、……よりにもよって、蓮池庸に売ることにしたのです」
「…………」
「香澄の誤算は、蓮池庸の残忍さを全く理解していないことにあったのでしょう。前述しましたが、蓮池の叔父貴は人当たりのひどくいい、見た目は申し分のない紳士ですから。――案の定香澄は捉えられ、残酷な拷問にかけられました。死を覚悟していた香澄でさえそれには耐え切れず、情報の出所を白状しました。……水南の名前が、そこで初めてヤクザ連中の間に出てきたのです」
 氷室の横顔が、微かに歪むのが成美には分かった。
「さびれた工場町の、人里離れた屋敷で老女と2人暮らしをしていた水南は、蓮池には格好の獲物に見えたでしょう。……連中があの屋敷に不法侵入した夜、水南がどんな目にあわされたのか――それを自分は、いまだ冷静に語る自信はありません。救いは水南自身が、香澄に成島の存在を打ち明けたその時から、あの夜の破滅を覚悟していたことだけでした」
 さすがに耐えかね、成美は視線を伏せていた。
 淡々と話す長瀬の言葉からも、抑えた感情が見え隠れしている。
「水南は拉致され、蓮池のマンションに監禁されました。それは水南に真実を吐かせるためというより――単に、蓮池が水南を気に入ったからだと思います。ようやく開放された香澄が、自分のところに泣きついてきたのはその頃でした。香澄はそれまでの全てを打ち明け、水南を助けてくれと泣き崩れました」
「………………」
「水南と香澄の関係は、自分にもいまだよくわかりません。けれどあの刹那、二人は確かに姉妹でした。一方自分は、ことの大きさに愕然としました。蓮池の目的が、宮田の親父を潰すことにあることは明らかです。親父がそんな重要な秘密を上部組織に黙って隠し持っていた……。組が取り潰されるのはむろんのこと、場合によっては宮田の親父は命までも奪われます。正直に申し上げれば、蓮池に囚われていた後藤水南という女性が、かつて自分を助けてくれた少女だという事実は、その時の自分には瑣末な事柄にすぎなかったのです」
 眉を寄せたまま、長瀬は一時言葉を切った。
「……自分は慎重に、宮田の親父には絶対悟られなうように、内密に蓮池に取引をもちかけました。自分が持っている韓国ルートは、年にして数十億程度のシノギになります。その利権を全て手渡すことで女の開放と手打ちを持ちかけたんです。蓮池がそれに対して出してきた条件はひとつでした。自分が一人で、蓮池の前でこれまでの非礼を詫びることです」
「………………」
「指定された場所を見た時、蓮池は自分を殺す気なんだろうとはっきり理解しました。自分も同時に覚悟を決めました。あの野郎とは刺し違えるしかないと。本音をいえば、それは水南を助けるためじゃあない……、宮田の親父を守るため、でした」
 言葉を切り、長瀬はまっすぐに氷室を見つめた。
「これまでの話をお聞きいただいてご理解いただいたと思いますが、当時の自分にとって、水南はその程度の存在にすぎなかったのです。かつて命を助けてくれた恩人ではありますが、自分にとって宮田の親父を守ることより重要なことなど他にはなかった。憐れにも思ったし、できれば助けてやりたいとは思いましたが、元を正せば水南がそそのかしさえしなければ成島みたいな馬鹿があんな真似をすることもなかった。……いわば火種を作った張本人である以上、この状況では殺されてもやむを得ないとすら思っていたのです。けれどそうは思わなかった男が一人いました。……一哉です」

 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。