「……蓮池を初めて見た時、背筋にぞくぞくと寒いものが走りました。一哉と再会した時に少しだけ似ていますが、まるで異なる感覚でした。蓮池は人を傷つけたり殺したりすることに一切の躊躇をもたない、思考は恐ろしいほど自己中心的で、共感能力というものが完全に欠落しているんです。いってみりゃ蓮池という男は、人の皮を被った怪物です。その怪物は、自分を認知もせずに放置した父親を憎み、憎みながらもその父親に寄生するという矛盾に身勝手な憤りを覚えているようでした。蓮池はいずれ父親を殺して全てを奪うつもりでしょうし、宮田の親父もそれをどこかで覚悟しているように……自分には見えました」
 静かな口調で、長瀬は語り続ける。
「自分の不安は、それからほどなくして的中しました。当時宮田の親父とシマを巡って対立していた関東信和会の連中が、親父の別宅を襲撃したんです。タイミング的に内部に内通者がいたとしか思えなかった。自分は、直感的に蓮池の野郎だと思いました。そして、どうにかしてその証拠をつかもうと思ったんです。16歳になったばかりの、まだてんでガキだった。後先なんて考えずに、関東親和会幹部の自宅前に張り込みました。その男と蓮池とのつながりを押さえようとしたんです」
「………………」
「ひどい雪が降る夕暮れのことでした。仲間からの電話で、蓮池が自宅を出てこちらに向かっているのは判っていました。けれど蓮池が到着する前に、関東親和会の連中に見つかっちまいましてね。隠れ場所から引きずり出され、――自分は無我夢中で腹に隠し持っていたマカロフを構えました。情けねぇほど指が震えて、頭の中は真っ白ですよ。銃声が何発か鳴り響き、なにかものすごい力にふっとばされたように自分は地面に転がっていました。肩の付け根辺りが火に焼けたようで、撃たれたんだと思いましたね。でもそんなことは全く気にならなかった。自分の指は1ミリも引き金を動かせなかったのに、目の前で、信和会の1人が頭を撃ちぬかれて倒れているんです。……撃ったのは、駆けつけてくれた一哉でした」
 長瀬はそこで言葉を切り、短く息を吐いた。
「一哉が人を殺したのは、施設を出てからそれが初めてでした。自分がそうさせたということに激しいショックを覚えながら、自分は一哉を引きずるようにして近くの山に逃げ込みました。雪で足取りこそ誤魔化せましたが、山中には警察や親和会の連中がいたるところにうろうろしている。怪我をした自分が一哉の足手まといになっているのは明らかでしたが、なんと言っても一哉は自分から離れねぇ。……逃げ場はもうどこにもなく、凍死するか捕まるか、そのどちらかを選ぶしかない中、いよいよ意識が朦朧としてきたので、自分は捕まるのを覚悟で、山頂近くにあった廃屋に逃げ込んだんです。思えばそれが自分にも一哉にも運命の転機になった。……そこに、12歳の水南がいました」
 
 
 
「おかしなことを言うようですが、自分は何年も、その夜のできごとが夢か何か――現実ではないもののように思えてならなかった。そのくらい、その夜出会った少女には現実感がなかったんです。吹雪の夜、まるで幽霊屋敷のような廃屋に、あやかしみたいな美少女がいて、理由もきかずに自分ら2人を助けてくれた。まるでお伽話でしょう」
 苦笑した長瀬は、冷めた茶を一口のんだ。
「水南が、その時負った傷は」
 かすれた声で、初めて氷室が口を開いた。
「あなたがつけたものだったのですか」
「いいえ、一哉です。いいわけじゃねぇですが、止める間もなかった。身を翻して逃げようとした水南の背中に、一哉が持っていたナイフで斬りつけたんです」
「…………」
「自分も必死でしたし、正直、幽霊か雪女に遭遇したような恐怖もあった。きっと一哉も同じだったんでしょう。自分が手当をしている間、水南に怯えた様子はひとつもなく、むしろ恐ろしいほど落ち着き払っていました。……怖い女の子だと思いましたよ。幽霊じゃなく、生身の人間だってことは判りましたが」
「…………」
「正直言えば、自分の記憶がはっきりしているのはそこまでです。うすぼんやりとした意識の中、一哉に背負われ、雪道を降りているのだけは判りましたがね。後で水南に聞きましたが、あの山はひどく複雑な作りになっていて、彼女は警察が立ち入れないような場所を通って、自分ら2人を逃がしてくれたようなんです。……なんでそんなことをしたのか、理由はさっぱり判りませんが」
「………………」
「後年、彼女にその時のことを尋ねたことがありますが、何も答えてはもらなえなかった。実際あの夜、何故幼い水南が一人きりであんな場所にいたのか、それすら自分は知りません。けれどもしあの夜、彼女が自分らを逃がしてくれなかったら、……自分も一哉も死んでいたでしょう」
 当時のことを懐かしむように、長瀬は少し目元を優しくさせた。
「でも自分と一哉は、あの夜のことを二度と振り返りませんでしたし、親父や兄貴たちに問い詰められても一言も話したりしませんでした。はっきり約束したわけじゃありませんが、生涯の秘密にしようと暗黙のうちに誓い合ったんです。あの天使みたいなお嬢さんにだけは、絶対に迷惑をかけちゃあいけねぇってね」
「…………天使」
 氷室が呆然と呟いた。
 長瀬は苦笑してその氷室に視線を向ける。
「自分らみたいな極道がそんな言い方をしたらおかしいですかい? 一哉は最後まで彼女のことを、天使と呼んでいましたよ。本人は認めやしませんでしたが、きっと一哉はあの夜、天使に恋しちまったんですね」
 天使に、恋をした……。
 成美は視線を下げて瞬きをした。
 もうこの世にはいない人。一体どんな人だったんだろう。長瀬一哉という人は。――
 
 
 
「あなたが、花束を持って地下に入ったのは何故ですか」
 静かに訊いたのは氷室だった。
 長瀬は少しだけ目を細めて、首を横に降った。
「あの廃屋に地下があることは、水南が亡くなる少し前に聞きました。――正直言えば、あの部屋にあるもの全てが、自分には謎のままです。水南は何も説明せず、ただ母親の命日に百合の花を供えてくれとだけ自分に言い遺したんです」
 そこで言葉を切ると、長瀬は深く頭を下げた。
「意図的にあなたのふりをしたことを許してください。――もちろん自分の素性を隠すためではありましたが、あれは……少しばかり皮肉もまじっていた」
「皮肉、ですか」
 訝しげに問う氷室には答えず、長瀬は頭をあげ、しばらく黙ってから続けた。
「話を戻します。関東親和会との抗争は、実質原因を作った自分1人が守られる形で終わりました。全部の罪を被らされた一哉は、山で行方をくらましたことにして、親父がこっそり高飛びさせたんです。自分は――自分だけが守られたことが不服でね。自首するといってガキみてぇに駄々をこねました。その時ようやく親父が打ち明けてくれたんです。自分を引き取ってくれた本当の理由を」
「……本当の理由」
「……自分は、宮田の親父の孫だった。つまるところ、あの蓮池庸が自分の父親だったんです。自分の母親を暴力で犯して地獄につき落とした男、そいつが蓮池庸だったんです」
 
 
 
「不思議なもので、自分が極道として腹を据えてやっていく覚悟ができたのは、その話を聞いてからです。宮田の親父は、然るべき時に自分と蓮池の叔父貴が父子であることを公表するつもりだったそうですが、それだけはきっぱりと断りました。だから蓮池の叔父貴は、死ぬまで自分と血のつながりがあったことを知らなかったと思います」
「……では」
 ふと口を開いた氷室が、続きを言わずにそのまま眉を寄せた。
「――いえ、申し訳ありません。続けてください」
 頷いて、長瀬は続ける。
「その日から自分は、がむしゃらに上を目指して働きました。現代の極道社会で上に登るには、組織も腕力も必要ない、金さえあればいいんです。新しいシノギを自分の手でどれだけ生み出せるか。それさえできりゃあ、自分みたいな三下だって天下を取ることができるんです」
 言葉を切り、長瀬は自嘲気味に口角をあげた。
「自分は運良く韓国売春ツアーの開発で巨額のシノギを手に入れましたが、そこに至るまでは随分ひでぇ真似もしました。追い詰められて、命を断った連中もいたでしょう。そういう意味では自分は宮原さんの言うとおり、他人様の幸福に寄生するダニですよ」
 淡々と言うと、長瀬はわずかに目を細めた。
「10年ほどして、自分が組持ちになった時、一哉がふらりと戻ってきました。一哉は高飛びした後に姿をくらませて、それきり行方不明になっていたんです。……ひでぇ格好で、それまでどこで何をしていたのか、ものもいわねぇ、目もあわせねぇ。……一哉が元々持っていた心の病気みたいなものがひどくなっていたのは明らかでした。自分は一哉を自分と同じマンションに住まわせ、……いや、閉じ込めて、舎弟に世話をさせました。……結局一哉は、奴が殺されることになったあの日まで、一歩も外に出ることはなかったと思います」
「……それは、違うのではないですか」
 氷室が静かに口を挟んだ。
「長瀬一哉は、少なくとも殺人の罪をおかしている。――あなたに容疑がかけられた三件の殺人事件がそうなのではないですか」
「………………」
「これは僕の推測ですが、長瀬一哉は戻ってきたのではなく、あなたが行方を探し当てたのではないですか。あなたは彼を見つけたことを宮田組長にも告げなかった。――つまり長瀬一哉は、放置しておけば社会の害になり、かといって正式に構成員にすれば宮田組に害が及ぶ。あなたは、そう判断したのではないですか」
 長瀬は目を伏せ、膝の上に置いた手を一瞬強く握りしめた。
「証拠はねぇ。……いや、一哉でしょうね。頸動脈をナイフでかききっている。かつて、一哉がおやじさんを殺したやり口です。けれど一哉にその時の記憶がない以上、自分には一哉をサツに突き出すことなんてできませんでした」
 生々しいやりとりに、成美は声も出なかった。
 それはおそらく、金森和明が語ってくれた、かつて烏堂誠治を撮影したA∨製作者3人が行方不明になったという事件のことだ。
「その時の記憶がない、とは」
「……一種のトランス状態、とでもいうんですかね。自分のおふくろと一緒で、別の何かが一哉を支配しちまうんです。よく怒りで我を忘れるというでしょう。一哉の場合その時の記憶ごと忘れちまうんですよ。多分……ガキの頃の自分に戻っちまうんでしょう。妹を助けようとした頃の自分に」
「………………」
「だから一哉が殺したのは、いつだって妹を犯していた義理の親父さんなんです。何度殺しても生き返るんだと言っていた。……そういう意味では一哉は生涯8歳の記憶の中で生きていたのかもしれません」
 
 
 
「香澄……神崎香澄が自分の前に現れたのは、彼女が亡くなる3年ほど前のことでした」
 話が、少しずつ真相に近づいていく。
 成美は息を詰めたまま、長瀬の声を一言も聞き漏らすまいと、眉根に微かに力を入れた。
「当時の香澄は、自分が所有する店の一ホステスに過ぎませんでしたが、並外れた度胸と野心の持ち主で、店を持たせてくれとしつこく持ちかけてきた。自分は女と組んだことは一度もありませんでしたが、香澄にはどこか心惹かれるものを感じましてね……。店を任せ、やがては会社をひとつ任せるようになりました。取り分は3、7。悪い商売じゃなかったと思いますが、2年ほど過ぎた時、いきなり足を洗いたいと言い出してきた」
 氷室の暗い眼差しは、テーブルの隅に注がれたまま、香澄の話が出て以来長瀬に一度も向けられていない。
「外道なことを言うようですが、はいそうですか、と簡単に飲むわけにはいかなかったことはご理解いただければと思います。ヤクザってのは昔も今もメンツを何より重んじる生き物です。非合法で儲けている店や会社を任せた以上、香澄は準構成員も同然の立場だった。堅気に戻りたいと言い出されたところで、簡単に許せるようなことじゃあありません。仁義を通す必要がある――そして、現代極道社会では、それは金の額で決まるんです」
 長瀬の双眸が、少しだけ険しくなった。
「自分は香澄に、2億用意しろと言いました。香澄1人じゃあ逆立ちしたって用意できないことは知っていましたが、決して作れない額じゃないことことも判っていました。理由は二つあります。香澄の愛人の1人に三光重工の御曹司がいたこと。かつて香澄が一緒に暮らしていた男に相当の資産があったこと。それを自分は知っていたからです」
 氷室が少し辛そうに眉根を寄せる。
「けれど香澄は、男たちを頼ることはしなかった。そのかわり、途方もない真似をしでかしました。行方を絶って香港へ飛び、そこでかつての宮田組の準構成員だった男に接触をはかったんです。その男の名は成島襄、宮田組では何年もその男の方を探していて、――見つけ次第、殺すように指示が出されていた男でした」
 その瞬間だった。
 がばっと氷室が身を乗り出すようにしてテーブルに手を置いた。
「……成島、襄……?」
 呆然と呟く氷室を見つめ、長瀬は少しだけ目をすがめた。
「あなたはその人の存在を、きっと別の形でご存知だったでしょう。成島襄は画家であり、大学時代の水南の教師でもありました。話が前後しますが、先に結論だけを申し上げます。成島襄を海外に逃したのは後藤水南です。だから香澄は、宮田組が血眼になって探していた成島の所在をいとも簡単に知り得ることができたのです。つまり」
「………………」
「……香澄と成島を接触させたのは、水南なんです。香澄に、アルカナという死の切り札の存在を教えたのは、水南だったんです」
 
 
 
 
 
 
 >next  >back >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。