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「すみません。おまたせしました」
「いえ……」
 氷室が食堂から出てきたのは、着替えを済ませた成美が外に出て、5分も経った頃だった。
 氷室は一瞬成美を見下ろし、それから額に手をかざして空を見上げる。
「降りそうですね」
「……そうですね」
 起きた時には晴れていたのに、空には今、重たげな灰色の雲が垂れ込めている。
「待って下さい。今、傘を持ってきますから」
 氷室が上階に続く階段を上り、しばらくしてから降りてきた。手には、傘が2本ある。
 手渡された1本を、どこか寂しい気持ちで受け取って、成美は氷室の後について歩き始めた。
 
 
 
「この辺りは、団地にでもなるんですか」
 暗い雲に覆われた灰色の景色の中、歩く2人の周辺から、次第に人家がなくなって、空き地と造成中の建物ばかりになる。
「ええ、県の都市計画の一環です。住宅の受注がひっきりなしでね。忙しいですよ、毎日」
 雨がぽつりぽつりと降り始める。
 最初に成美が傘を開き、氷室も同じように傘を開いた。
「僕が来たばかりの頃、このあたりはまだ空き地ばかりだったんですけどね。……もう随分買い手がついた。あと数年も経てば、きっと賑やかなコミュニティになるんじゃないかな」
 視界には、どこまでいっても青のビニールシートがかけられた建築途中の住宅が並んでいる。
 人気はない。静かな無人の町に、雨だけが音もなく降っている。
「さっきのは、芝居ですか」
 ひどく静かな気持ちで、成美は訊いた。
「芝居?」
「店で……、もしかして、社長の娘さんに結婚を迫られて、困っているとか」
「ご明察です。そんな気はないと、最初にお断りしたんですけどね」
「しちゃえばいいのに」
「結婚?」
「ええ」
 成美は頷いて、氷室を見ないままで言った。
「そうすれば、別の人生が手に入ったのに」
「…………」
「氷室さんはそうしたくて、今までの人生を捨てたんじゃないんですか」
 傘の影になった氷室の横顔が、わずかに笑んだような気がした。
「この辺りは、昔は林道でね」
 視線を巡らせながら、静かな口調で氷室が言った。
「今は宅地開発で開けていますが、昔は周囲を雑木林に囲まれたひどく寂しい道でした。僕がこの町に越してきたのは小学校低学年の頃でしたが、この道を母に手を引かれて、毎日遠くの学校まで通ったんです」
 成美は、少し驚いて氷室を見上げた。
「どうしました?」
「あ、いえ……」
 氷室さんが、自分のことを話してくれるとは思わなかったから。
 その言葉を飲み込み、成美は少し先を歩く氷室の傘を追った。
 もしかしなくても、彼は今、自身が幼少期を過ごした場所に、成美を連れて行ってくれようとしているのだ。
 彼にとっては、決していい思い出ばかりではなかったはずの場所に。
「母は東京生まれの東京育ちで、僕もまた東京で生まれました。国家公務員の父が転勤族だというのは理解していましたが、それでもいきなりこんな田舎に転校されられたのはショックでしたね。……僕は子供の頃から少し生意気なところがありましたから、おさな心に、それが左遷というものだと理解できていたんです」
 ――それは……。
 それは、もしかして。
「父のことは、どこまで?」
 一瞬口ごもる成美を、氷室は傘ごしに、微かに苦笑して見下ろした。
「気にしないでください。こんな大切なことを今まで話さなかった僕の方が悪いんですから。――でも、隠したかったわけじゃない。むしろ今は、君が全部を知ってくれていると思うと、心の底からほっとしているんです」
 成美は、しばらく無言で氷室を見つめから言った。
「……全部を知っているわけじゃ、ありません」
「そうでしょうね」
 氷室は静かに微笑んだ。
「全部を知っている人なんて誰もいない。父の事件では、僕でも知らないことや、知る努力を放棄したことが沢山有ります。――だから君は、これだけを知っていればいい。僕の父は勤務先の国土交通省で横領を働き、実刑を経た後に妻を伴って自殺した」
「………………」
「それでもう、十分です」
 眉をひそめた成美は、再び歩き出した氷室の後を追った。
 本当にそれで、いいんですか。
 喉元までその言葉が出かけている。
 氷室にとって、それは成美などが計り知れないほど重い過去だろう。様々な葛藤と出来事を経て、彼は今の結論に達したのだ。だから、しょせん第三者である自分が軽々しい言葉で励ましたくはない。
 でも――本当に、そこで終わってしまっていいのだろうか。
 少し歩調をゆるめて氷室は続けた。
「言葉を変えれば、僕らがこの町に引っ越してきたのは、父が逮捕されるほぼ
1年前のことでした。逮捕時に中央省庁で起こるであろう騒動を、少しでも軽減したいための地方への左遷だったのでしょうね。母はある程度覚悟していたのかしれませんが、もちろん僕にそこまで理解することは出来なかった。――だから単純に不満で、相当ふてくされていましたね。一応世間でも難関と呼ばれる小学校から、ただの公立小学校へいきなり転校しろと言われたんですから」
 子供だったな――
 懐かしそうに呟くと、氷室は少しだけ空を見上げた。
「それともうひとつ、父の生まれ故郷がこんな田舎で、しかも実家が貧乏な兼業農業だったということも、相当なショックでした。父は日本の中枢を担うエリート中のエリートで、地方やブルーカラーとは無縁の存在なんだと――そんな風に偏った誇りを抱いていたものですから。今思い返しても、当時の僕ほどいやな奴はいませんでしたよ」
 氷室が足をとめる。
 そこは山際の行き止まりで、まだ売れ残りの区画に杭が打たれ、白いロープが張られている。
 雑草だけが生い茂るその場所を、少し激しくなった雨が容赦なく叩いていく。
「父の生家があった場所です」
 前を見つめたまま氷室は言った。その目は目の前の土地を見ているようであり、まるで別の場所を見ているようでもある。
「まだ世の中を知らなかった僕が、両親と過ごした場所であり――両親が晩年を過ごした場所でもある。思い出というより、いっそ僕にとってはひどく忌まわしい場所ですがね」
 その自虐的な言い方に、胸がつかえたように苦しくなる。
 成美は氷室に何か言いたかったが――勇気を傘に遮られたようになって、何も言葉がでてこなかった。
 なんで、こんなタイミングで雨なんだろう。
 まるでこの傘が、2人の立ち位置を永遠に別のものにしてしまったみたいだ。
「そんな風にして始まったこの土地での暮らしですが、最初から最後まで、僕は馴染むことができませんでした。低レベルの学校、慣れ合いのコミュニティ、知恵もなく、慢性的な貧困から這い上がる気力もなく、そこでしか生きられない無能な人間。……寒く、灰色で、未来も希望も閉ざされた町」
「…………」
「僕は傲慢にも、この田舎町の帝王にでもなった気分だったのかもしれません。周囲みんなを見下していた。左遷された父も、その父にすがって生きるしかない母も、心の底で見下していた。地域に溶け込もうとした2人が、周囲の田舎者に媚をうってすりよる姿にも幻滅した。自分は1日も早くこの町を出て、父のような生き方だけはしたくないと思うようになった。……君が当時の僕と出会っていたら、きっと頬の一発でもはたいていたでしょうね」
 そんなことない――
 口の中で呟いた言葉とこみあげた感情は、雨音と傘に遮られる。
 そうじゃないです。氷室さん。
 もし、その時私があなたに会っていたら、多分、私は――
「幸いというか不幸というか、僕のこの土地での暮らしは、1年足らずで終息を迎えました。ある日――こんな雨の日だったかな。朝起きたら、いきなり見も知らない人たちがカメラを片手に家を取り囲んでいましてね。僕はびっくりして家に引っ込んだのですが、まるで犯罪者の家を囲むマスコミみたいだ。と思ったんです。――みたいだ、じゃなくその通りでした。僕はその晩から東京の母方の親戚の家に身を寄せることになり、父が逮捕されたというのを翌日になって聞かされました」
 雨が少し激しくなる。
 氷室の大きな肩が、傘に入りきらずに濡れている。
 成美はその傍らに立って傘を傾けたが、まるでそれを拒否するように、氷室は微笑して距離をあけた。
「――僕は……そう、認めたくなかった」
 氷室の口調に、初めて感情のさざなみが揺れた。
「僕の父が、犯罪者になる。僕が犯罪者の子供になる。この先何があろうと生涯消えない負の烙印を押される――他者より優れているということだけが自身の存在意義だと信じていた僕には、絶対に認められることではなかった。それはいっそ、恐怖に近い感情だった。僕は懸命に考えました。どうすればこのみじめな劣等感を永遠に自分から切り離せるのか。そしてこう思いました。自分には父親など最初からいなかったんだと」
「………………」
「そうして僕は――切り捨てたんです。自分の中から、父親の存在も記憶も全て、完全に、跡形もなく」
 成美は黙って、氷室を見つめた。
「父の存在も、罪も、僕にはその日から、一切関わりのない他人ごとになりました。両親の離婚によって名前が変わり、僕自身が別人となって生まれ変わったようでした。僕は再び元のパーソナリティを取り戻した。そんな矢先、僕は――水南に出会ったんです」
 雨脚が強くなる。
 どこか遠くで雷鳴が響く音が聞こえた。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。