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17
住宅街のはずれにある古い木造アパートの二階。
部屋は狭く壁紙も天井板も年季がはいった代物だったが、室内は塵ひとつなく、綺麗すぎるほど綺麗に片付けられていた。
――ここ……本当に長瀬さんの部屋?
幼い子供がいるという生活感のなさに疑問を抱いた成美だったが、その疑念は長瀬が隣室に続く襖を開けた時に解消された。
子供用のデスクと、可愛らしい桃色のチェアが見えたからだ。どちらかといえば女の子向けのもののように見えたが、人に譲ってもらったものなのかもしれない。
いずれにしても、この狭い2Kのアパートで、父子2人が裕福な暮らしをしているようには見えなかった。
隣室から座布団を持ってきた長瀬は、それを座卓の脇に並べ、氷室と成美に座るように促した。
「極力無駄な物を買わないようにしているんです。現場を流れ歩いているので、引っ越しが多くてね。――今、お茶でもいれますよ」
慣れた様子でキッチンに立ちながら長瀬は続けた。
「部屋を無駄に片付けてしまうのは、部屋住み時代に身にしみついた癖でしょうね。極道の上下関係はそりゃあ厳しいですから」
極道……。
さらりと長瀬が口にした言葉に、成美は改めて深い衝撃を覚えていた。
もちろん氷室が決めたことなら、信じたいとは思う。
けれどこの物静かな男の正体は、宮原が言ったとおりの獣なのかもしれないのだ。
「なんと、お呼びすれば?」
口を開いたのは氷室だった。
「長瀬」
静かな口調と表情のまま、長瀬は茶菓子を載せた盆を成美と氷室の前に置いた。
ガスコンロでは、火にかけられたケトルがカタカタと微かな音をたてている。
「以前の名前を持つ人間は、もうこの世から消えました。誤解しないでください。罪まで消えたというわけじゃない。自分の罪はいずれ相応の形で償う時が来るでしょう。――自分が、名前を変えて生きることを決めたのは、罪を逃れるためなんかじゃないんです」
「理解しています」
後をついだのは氷室だった。
「あなたは、闇社会のパワーバランスを保つために死んだんです。仮にあなたが生きていれば、侠生会を二部する泥沼の争いになっていたはずだ。当時の警察上層部と宮田組長は、それを回避するためにあなたを殺し、同時に生かすことにしたのだと理解しています」
「………………」
「最も宮田組長は、相応以上の代償を払ったでしょうが」
長瀬は目を伏せたまま、しばらくの間無言だった。
「……自分の母親は、とても気の毒な境遇で、自分を産んでくれましてね」
折り目正しく正座したまま、長瀬は静かに口を開いた。
「もともとは信州あたりの金持ちの一人娘だった。――それが東京の大学に進学して、一人暮らしを始めたのが運の尽きです。随分と綺麗な人だったそうで、まぁ、……魔を呼びこんだんでしょうね」
成美は眉をひそめて長瀬の横顔を伺った。
綺麗な人間は不幸だ。魔を呼びこむ。――公園でも、確か同じことをいっていた。その根幹は彼の母親にあったのだ。
「友人に頼まれて、ちょっと派手な喫茶店でアルバイトをした。そこで一人の外道に目をつけられた。地元でも有名な不良だったその男は、女性を愛するという手段を暴力でしか表せない――いや、そもそも愛することすらできない人間だった。その畜生は帰宅する母親のあとをつけ、アパートに押し入って彼女を犯した。逆らえば故郷の家族を殺すと脅し、何ヶ月にもわたって関係を強要しつづけた。暴力でしかないセックスといつ殺されるか判らない恐怖。半ば精神を病んだ母親にようやく男が飽きた時」
息もつかず、ひどく事務的に淡々と言い切った長瀬は、初めて長い息をついた。
「まだ19歳だった母親の胎内には、もう自分がいたんです」
「たとえ鬼畜の子であっても命が芽生えたという事実。キリスト教徒の家庭で育ったことも、堕胎に踏み切れない原因だったのかもしれません。自分が物心ついた時には、すでに母親は向精神薬に依存しきっていて、手首にはいくつものリストカットの痕がありましたから、おそらく迷いと後悔と信仰心の中で揺れながら、あの人は自分を産んだのでしょう。――いや、自分の手で命を摘み取る勇気がなかったから、その結実として産むしかなかったのかもしれませんが」
ケトルがけたたましい音をたてる。
呆然と長瀬の話を聞いていた成美は、その音ではっとして我にかえる。
長瀬は無言で立ち上がり、コンロの火をとめると、慣れた手で茶葉を急須に入れた。
「不幸というのは重なるもので、自分が2歳の時、母親の両親が相次いで病死しました。家をついだ兄夫婦は、すぐに一家の腫れ物だった母親と自分を追い払った。……まぁ、仕方ありませんやね。未婚で子を産むっていうのは、田舎じゃ随分な醜聞ですからね。母親は昔のバイト先を頼って上京し、その時親切にも金を貸してくれた人に勧められて、客をとるようになりました。……騙されたんでしょうね。結局、ここでもあの人の美貌が不幸の種になったわけです」
淡々と語りながら、長瀬は氷室と成美の前に熱い茶を差し出した。
「いかにもやばい客が、連日連夜、部屋に入ってきては、自分の見ている前で母親と関係を持つんです。中には変態もいて――まぁ、地獄も慣れてしまえば日常になるんでしょうね。その頃はまだ、いうほど辛くはなかったのを薄ぼんやりと記憶しています。やがて母親は入ったお金で次々とあやしい向精神薬――まぁ、ドラッグですね。そんなものに手を出し、薬が切れ始めると、まるで化物か怪物みたいに暴れるようになりました。自分に暴力をふるうようになったのもその頃です」
「………………」
「当時の母親にとって、自分は、過去の亡霊みたいなものだったのかもしれないですね。薬が切れると、あの人は必ず過去に戻ってしまうんです。脅迫され、暴力で犯されたあの頃です。ようやく幻覚から開放されて目が覚めると、そのケダモノの血を引いた自分がいる。まるで際限のない恐怖のループですよ。……あの人にとってはね」
長瀬は少しだけ目を細めた。
「――過去と現実のみさかいがつかなくなったあの人は、自分に憎しみをぶつけるしかなかったんでしょう。そうして我に返り、激しい自己嫌悪からまた薬に走るんです。……どうしようもない。誰にも救えない生地獄です。だから自分は、あの人を恨んじゃあいません。ただ絶え間なく疑問に思い続けてはいました。どうして、自分を産んだのかと」
「………………」
「自分はなんのために産まれたのかと。人を苦しませるためだけに産まれた命なら、いっそ最初に摘み取っておくべきではなかったのかと。それが神の教えなのだとしたら、神とはどれだけ残酷な存在なのだと」
「………………」
「それだけはずっと思い続けてきました。だから自分は、自分のような鬼畜の血を引く人間は、生涯その血を残すよう真似はしてはいけないと思いこんでいたんでしょうね。その頃……8つか9つになった頃だったと記憶していますが、自分は男相手に客をとらされるようになっていましてね。その中に一人、強烈なスナッフフィルムの愛好者がいたんですが、自分の性器を切り落とすよう、自分がその人に依頼したんです」
思わず成美は目をとじ、顔をそむけていた。
その話は、金森からも聞いている。母親がやったという言い方だったが、そうではなかったのだ。
どちらにしても救いはない。――聞くに堪えない残酷な話だ。
「すみません。お若い娘さんにはちょっと刺激の強い話でしたね。でも、すぐに終わりますから」
そう断ってから、長瀬は続けた。
「今思えばひどく馬鹿な真似をしたもので、さすがにその時ばかりは死にかけました。慌てた男が救急車を呼んでくれたおかげで、母親が児童虐待……そこから発覚した薬物使用と所持で逮捕されることになりましてね。――結局最期まで病院から出ることはなかったですが、物理的な生き地獄からは抜け出すことができたんだと思います。……精神的な地獄からは、生涯逃げ出すことはできなかったでしょうが」
「…………」
「母親と離れた自分は、公立の施設に入れられました。そこで初めて、ある程度まっとうな家庭で育った同世代の子供という存在を知ったわけですが、同時に自分が、彼らと著しく異なる存在であることも知りました。知的なものが遅れていたというだけではなく――なんというのか、生きている世界そのものが違っているようにしか思えなかった。今思えば、まるで羊の群れに迷い込んだ猛禽のようなものだったのかもしれませんね。そこに、……半年ほどしてカズヤが入ってきた」
カズヤ―― 一哉。長瀬一哉だ。
「一哉は、母が一時同棲していた男の連れ子でね。――うちは男出入りが激しかったんで、男にくっついてるガキが居ついたことも一度や二度じゃあなかったんですが、一哉のことは強く印象に残っていjました。まるで意思のない人形みたいに、空っぽの目をして、――小せえ妹と一緒でしたが、その妹に俺が近づくと、一転して獣みたいな目で殴りかかってくるんです。……一言でいえば、一哉はひどくアブねぇ奴でした」
「一哉が命がけで守ろうとした妹の身に何が起きたのか、……それを説明するのは勘弁してください。簡単に言えば、なんの罪もない4つか5つの無邪気な女の子は、汚らしい大人たちによってたかって殺されました。そして一哉はなんらためらうことなく、妹を殺した父親を刺しました。背中を刺し、腹を刺し、次に馬乗りになって喉を切り裂きました。奴がまだ7つの時です。自分は……腰を抜かしてその光景を見ていました。思えば一哉の神経は、その時を境に完全にいかれちまったのかもしれません」
成美は黙って視線だけを膝に向けた。一哉の妹が亡くなった経緯は、金森からさらに詳しく聞いている。
「施設でその一哉と一年ぶりに再会した時、自分はこの危険な人物を世に放ってはいなけいと直感的に思いました。実際、後年知ることになった自分の父親の社会病質的性格と一哉のそれは非常によく似通っていたのですが、むろん当時の自分にそんなことがわかるはずもない。ただ、直感的に一哉は危険だと思ったんです。この男を世に放てば、また母親のような悲劇が生まれるかもしれないと」
言葉を切り、長瀬は微かに苦笑した。
「自分は一哉を、……おこがましくも、なんとか更生させようとでも思ったのかもしれませんね。もちろんそんな真似はできやしません。が、不思議なことに一哉が自分に懐くようになりましてね。施設の職員全員が手をやくほど一哉は問題児でしたが、自分のいうことにだけは実に素直に従った。やがて自分は、一哉から生涯目を離すべきではないと思うようになりました。それもまた、自分に課せられた使命のようなものだと、そう思っていたのかもしれません」
長瀬の目が、当時のことを懐かしむように細められた。
「そんな自分たちに変化が起きたのは15歳の時です。ある老人が――60代になったばかりですから老人というには少し語弊がありますが、自分を引き取りたいと申し出てきたんです。裕福そうな紳士だけれど目元に怖いものがある、小柄なのに奇妙に腹の座った感のある老人でした。宮田始――職業はヤクザだと、堂々とその男は名乗りました」
宮田始。
成美ははっと息を飲んでいた。
その名前なら、今まで何度も耳にしている。宮原と金森。そして金森の書いた書籍から。
仁雄会のナンバー2。日本のヤクザにランクがあるとすればだが、そのトップファイブの中にいた男だ。
「スカウトにきたんだと、その老人……宮田の親父は言いました。警察のしめつけが厳しくなったこともあって、最近の若者はなかなかヤクザになりたがらない。だからこうやって、有能な若者をスカウトしているんだというんです」
言葉を切り、長瀬は微かに苦笑した。
「冗談じゃねぇと思いました。というのも、当時の自分にはヤクザに対してアレルギーにも似た拒否反応がありましてね。ガキの頃、自分も母親もそいつらにさんざんな目にあわされましたから、ヤクザになんか殺されてもなるかと啖呵を切ったんです。ヤクザ界の大物中に大物相手に――今思えばとんでもない怖いものしらずですよ」
湯のみの茶を飲み干し、長瀬は再び座り直した。
「そんな自分に宮田の親父はこう言うんです。この世には、社会のどこにも居場所がなく、暴力でしか生きていけねぇ奴らが沢山いる。その全部を否定するのは簡単だが、その全部をこの世からなくすのは神様だってできやしねぇ。生きてる人間の誰かがそいつらの手綱を握って、最低限のルールを与えてやらねぇと、この世は今よりもっと不幸な人で溢れちまう。――その誰かってのが、ヤクザなんだってね」
「………………」
「……そういうのも、ありなんじゃねぇかと思いました。理想やきれい事じゃあ誰一人救えねぇ。警察や行政がまるで役にたたないってのは、身にしみて知ってましたからね。毒をもって毒を制す。――どうせ自分も一哉も、まっとうに生きていけねぇことはわかっていましたから」
「……宮田氏が、あなたの里親になったということですか」
氷室の質問に、長瀬は苦笑して首を横に振った。
「いくらなんでも、ヤクザに里親は任せられないでしょう。宮田の親父は、自分の親戚筋を探しだしてきて、その人物に正式に手続きを踏ませるんです。親父は、同じ手を使って一哉も引き取ってくれました。もちろんスカウトなんて嘘っぱちです。なんで親父がそこまでしてくれたのか……本当の理由がわかったのは随分後になってからでしたがね」
「………………」
「宮田組での部屋住み期間は、夢みたいに楽しい時間でした。宮田の親父と組の兄貴たちは、初めて自分らを対等な人として扱ってくれた。学校にはいけなかったけど、勉強も兄貴の一人から教えてもらいました。最近の極道ってのは高学歴の輩がごまんといるのでね。家庭教師にはことかかなかった。やがて自分は、親父のためならなんでもできると思うようになりました。他人に対してそんな風に思えたのは、自分には親父が初めてでした」
長瀬は微かな微笑を口元に滲ませた。
「当時の親父は、宮田組のトップであると同時に、上位組織侠生会の若頭でもありました。どういうことかといいますと、侠生会で二番目にえらいということです。五万の構成員を持つ巨大組織の、次期会長候補です。自分らみたいな子供には、宮田の親父は無敵のスーパーマンに見えました。けれど人である以上、親父にも当然弱みがあります。それが――若い頃に親父が産ませた息子、蓮池庸(はすいけ よう)という男でした」
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