「あなたのせいじゃないですよ」
 静かな声が不意に響いた。成美は強張った気持のまま、声の方に顔を向ける。
「彼がここに来たのは、あなたや氷室さんのせいじゃない。自分のミスです。――だから、気にしないでください」
 ――長瀬さん……。
 背後で宮原が失笑する。
「おいおい、犯罪者を通報するのは市民の義務なんだぞ。気にするもなにもないっつーのに、何上から目線でものいってんだよ」
「ひとつ、お願いがあります」
 長瀬の静かな口調と眼差しに、宮原の表情が変わるのが分った。
「……見逃せって願いならきけねぇな。ガキに会わせろって時間稼ぎも駄目だ」
「そんなことじゃない」
 淡々と否定し、長瀬は口元を引き締めた。
「いずれこの日がくるのは端から覚悟していました。準備なら、とっくの昔にできています。時間稼ぎとかそういうんじゃねぇ。ただ、――あと一時間、30分でいいから自分に時間をいただきたいんです」
「……時間だと?」
「妻の遺言を、果たすためです」
 どこまでも静かな眼差しに怯んだように、宮原はわずかに眉をひそめた。
「遺言……?」
「はい」
 しばらく眉をひそめていた宮原は、「駄目だ」と首を横に振りながら言った。
「ガキと離れたお前をここで見逃せば、もう二度と捕まえられないことくらい、俺にだってわかる。悪いが一分だって時間はやれない」
「逃げる気はもとよりないし、聖人と離れる気もありません」
 切々とした口調で言って、長瀬は深く頭を下げた。
「ただ、ほんの少しだけ、少しでいいから猶予がほしいだけなんです。なんなら同席いただいてもいい。――お願いします」
 妻の遺言――
 水南さんの、遺言。
「あの……っ、私からも、お願いします」
 成美は咄嗟に口を挟んでいた。
 状況はいまだよく飲み込めないが、これだけは成美にも判る。
 まだ到着しない氷室は今日、長瀬と聖人の2人に会うつもりだったのだ。
「か、勝手な推測ですけど、この人に逃げる気はないと思います。お願いします。私と雪村さんを騙したことは水に流しますから、あと少しだけ待ってあげてください」
「駄目だ」
 目を冷たくすがめて、宮原は即答した。
「この男には、多少手荒な手をつかってでも、至急吐かせたいことがある。悪いがこっちにもこっちの事情というのがあるんでね。今だって時間を無駄にしすぎた。そろそろ行くぞ、烏堂」
「っ、その烏堂って人は――死んでるんですよね。7年も前に」
「は……?」
 胸が激しく脈打つのを感じながら、成美は宮原から目を逸らさずに続けた。
「だったらお聞きするんですけど、この人物が烏堂誠司と同一人物だという証明は、何をもってなされるんでしょうか。指紋やDNAをとるにも、本人の許可がいり……ますよね?」
「………………」
「な、なんの証拠があるか知りませんけど、この人は私と話していただけです。現行犯でもないのに、人一人を任意なく同行できるものなんですか。で――できないと思いますし、どうしてもというなら、私の方で弁護士を手配させてもらいます」
 言った――。
 冷や汗がつーっと背中を伝う。
 弁護士の知り合いなんて紀里谷さんくらいしかいないし、実際役に立つのかどうかも判らないけど言ってしまった。
 怖いし、自分がしていることが正しいかどうかもわからないけど、少なくとも氷室さんが来るまでは、時間を稼がなければならない。
 しばらく睨むように成美を見ていた宮原は、やがて呆れたような息を吐いた。
「やれやれ。――市役所の法規担当ってのは、色々無駄な知識があって、面倒だな」
 ぼりぼりとうなじのあたりを掻く。
「言っとくが、拒否なんてこの男にはできない。そして俺と一緒に来たほうが、この男にとってもあのガキにとっても安全なんだ。万が一、この男の正体がしれてみろ。何人もの鉄砲玉がこぞって命を狙いにやってくる。あんたは何も知らないだろうが、この男はな、そういう危ない業を背負っているんだよ」
「それを聞いて、安心しました」
 穏やかな声が、不意に響いた。
 成美もそうだが、宮原も長瀬も、驚いて声の方を振り返る。
「それがあなたの本心なら、少しは話も通じそうだ。宮原警部補、あなたの目的は判っている。どうですか。僕と取引しませんか」
 今度こそ、成美は言葉を失っていた。
 立っていたのは氷室だった。
 
 
 
「……取引、だと?」
 さすがに驚いたのか、宮原の唇から煙草が落ちる。
「と、いうより、なんだってお前……いつの間に?」
 唖然とした表情の宮原が、呆然とつぶやく。氷室はゆっくりと歩み寄ってきた。
 黒っぽいスーツに黒のネクタイ。その姿はまるで、背後の灰色の景色の中に溶け込んでいるようにも見える。
 砂場の手前で足をとめ、氷室はその視線を一時砂山に向け――そして、戻した。
「今、彼女が口にしたことがある意味全てで、あなたに彼を拘束する理由がないのがそもそもの話になりますが、――7年も前に死んだはずの男の身柄を確保することが、実際、あなた方警察にとってなんの利益になるのでしょうか」
「何を言ってやがる」
 我に返ったように毒づくと、宮原は新しい煙草を取り出した。
「警察じゃなくて市民の利益だ。いいか。俺ら警察は正義の味方だ。悪いやつらを捕まえるのは当然の仕事だろうが」
「その警察が、そもそも7年前、故意に身代わりを見逃したのに、ですか」
 煙草に火をつける宮原の横顔が、目に見えて凶悪になるのを成美は感じた。
「……なんだと?」
「面倒なので、そのあたりをとぼけるのは、もうなしにしましょう。宮原警部補」
 氷室は楽しそうに微笑した。
「警察と、烏堂誠司の後見人であった宮田組長との間にどんな取引があったのかは知りません。――その後、宮田組長が引退したことから、まぁ、だいたいの推測はつきますけどね。ひとつ確実なのは、現代の検死技術で死体の身元を間違えるなんて、まずあり得ないだろうということです。誰かが故意にデータをすり替えたのでなければ」
「…………」
「あなたはそれを知っていた。当時、警視庁公安部にいたのあなたの立場でどうそれを知り得たのかは……これもまた推測でしかないですが、烏堂誠治というヤクザになみなみならぬ関心を持っていたあなただからこそ、あらゆる情報網を駆使して知り得ることができたんでしょう。とにもかくにも、烏堂誠治が生きている可能性があることをあなたは知った。つまり知っていたからこそ、消えた烏堂誠治を再び探しだすことに決めたんです。違うでしょうか」
「…………」
「ちなみにですが、そこには6年に及ぶタイムラグがある。あなたは6年前にその事実を掴みつつも、昨年まであえてその情報を放置していた。理由は簡単です。死んだはずの烏堂誠司が万が一生きていると知れれば、ヤクザと取引した警察の不正が明るみにでるからです。そんなことは絶対に――あなたの立場では絶対に許されない。そしてその事情は今でも基本的に変わってはいないはずなんです。あなたが警察機構の転覆でも目論んでいない限り」
「………………」
「つまりあなたには、最初からそこまで――烏堂誠治を公に逮捕する気はまでないということですよ」
 ――氷室さん……。
 成美は息をつめるようにして、突然現れた氷室の横顔をうかがった。
 一体今まで何をしていたのか。それともずっと様子を伺っていたのか、氷室の表情は落ち着き払って、少しも慌てた風には見えない。
 相対する宮原にも、ようやく余裕が戻ってきたのか、ようやく薄い笑いが口元に浮かび出た。
「なぁ、あんた、何が言いたいのかしらないが、あんま警察を甘くみんなよ?」
「というと?」
「あんたの親父のことをもう忘れたのか。どんな罪をでっちあげてたってな、警察ってのは狙った獲物を逮捕することができるんだよ」
「それは驚いたな」
 氷室は大げさに眉をあげた。
「だったら僕は、あなたが今灰谷市で何をしているのか、それをしかるべき筋に詳らかにするだけですけどね」
「………………」
 宮原が黙る。今度口元に余裕を滲ませたのは氷室の方だった。
「話をもどさせてもらっても? 烏堂誠治とは、警察組織にとって過去の亡霊であると同時に、決して出てきてはならない地雷のような存在なのではないですか? だから7年もの間誰にも追われることなく、彼は今日まで生き延びてきた」
「………………」
「宮原さん。この状況は非常に何かと似ていると思いませんか」
 長い息を吐き、顔をしかめた宮原は髪をかきむしった。
「あんた、何が言いたいんだ?」
「彼は知りませんよ」
「あ?」
「彼は、水南が遺したものを知らないと言っているんです。彼だけでなく、この世界の誰も知らない。水南は誰にもそれを言い遺さず、また書き残しもしなかった」
 凄みを帯びた目になり、宮原は氷室を見る。
「……で?」
「彼女の遺した謎を解けるのはこの世に1人しかいない―――僕です」
 静かに断言する氷室を、成美は微かな胸の高揚を覚えながら、見上げた。
 今日まで、何度その言葉にかちんときただろう。でも、同じセリフに、今、初めて爽快な気分になっている。
 今の言葉を、三条と向井志都にも聞かせてあげたい。彼等もきっと、成美と同じ気分になったはずだ。
 まるで目の前のハエでも追い払うように、うるさげに宮原は片手を振った。
「わかったよ。もうわかった。取引の内容を聞いてやる。言ってみろ、一体何が条件だ」
 どういうことなんだろう。
 めまぐるしく変わる情勢に、成美はだた驚くばかりだった。
 よく判らないが、今の会話の勝者は氷室だ。
 そして、彼が取引の材料に使おうとしているのは、多分―――アルカナだ。
「条件はひとつです。今日のことを含め、この男の存在そのものを忘れること」
「………狂気の沙汰だな」
 宮原ははぁっと溜息をつくと、帽子をとって頭を掻いた。
「あんた、この男の正体を本当に知っているんだろうな。こいつが今まで何をしてきたか、本当に理解してるんだろうな」
「あなたほどではないですが、ひと通りは」
「判ってるのか。あんたは凶暴な獣を一般社会に解き放とうとしているんだぞ!」
「では聞きますが、あなたが6年間この秘密を自身の胸ひとつに収めてきたのは何故ですか。本当に警察組織のためだけだったのですか」
「………………」
 再度ついたため息と共に、宮原は項のあたりを掻いた。
「いつ渡すつもりだ」
「明日、現地まで僕が案内します」
「わかった」
 主語が完全に欠落した会話にあっさりと頷くと、宮原はバックを肩にかけなおしてきびすを返した。
 成美はまだ信じられなかった。
 まるでヘビのようだった宮原が退散しようとしている。しかも氷室と交わした短い会話だけで。目の前に座る長瀬――烏堂誠治に見向きもせずに。
 その宮原の足が、烏堂――長瀬が座るベンチを通り過ぎたあたりでふと止まった。
「お前と、もう一度会えてよかった」
「…………」
「まぁ、せっかくもらった命だ。せいぜい大事にして、少しでも長く生きるんだな」
 
 
 
「っひ、ひ、氷室さん」
 聞きたいことがありすぎて、言葉がすぐに出てこない。
 口をぱくぱくさせる成美を見下ろし、氷室は拳を口元にあてて、くすりと笑った。
「全く期待していなかったのですが、なかなか上手い時間稼ぎでしたよ」
 ――え……
「少し東京での調べ物に手間取ってしまって。といっても、宮原警部補が姿を見せた時には、もうこの公園に着いていましたけどね」
「え、じゃあ」
「僕は宮原警部補の本音が聞きたかったんです。君から話を聞いた時にある程度の確信はありましたが――それでも、わずかな不安を払拭しきれなかった。時間稼ぎにしてはお粗末でしたが、君はいいインタビュアーだったと思います。きっとあまりに無知すぎて、相手からみると気の毒にすら思えてくるんでしょうね。つい手の内を自慢気に話してしまいたくなるんでしょう」
「………………」
 ん?
 それ、褒められてるの? けなされてるの?
 成美が首をかしげている間に、氷室は立ちあがった長瀬と向かい合っていた。
 長瀬が、深く頭をさげる。
 顔をあげたその表情は、相変わらず静かなままだったが、少しだけ戸惑っているようにも見えた。
「ありがとうございます。――正直、予想外の展開すぎて、まだ頭がついていかないのですが、あなたに迷惑をかけるつもりは毛ほどもない。宮原さんと何か取引をされたのなら」
 遮るように、氷室は片手を目のあたりにまであげた。
「もう僕にしても、あそこまで喋った以上後には退けない。あなたは今まで通りの生活を送ってください。そうすることが、最早僕にとっても一番の安全策なんです」
「でも」
「それに」
 言葉を切った氷室は少しだけ微笑すると、視線を下げた。
「……それに?」
「いえ……。あなたにもそうだったように、むろん僕にも今日のことは予想できなかった。でもこうなることは最初から計算されていたような気がして」
「………………」
「そうは、思いませんか」
 ゆっくりと眉をあげた長瀬の表情から、初めてつくりものめいた仮面がとれた気がした。
「そうかもしれません」
 控えめに微笑むと、長瀬はあらためて氷室に向き直った。
「ようやくお会いできましたね」
「そうですね」
 氷室もまた微笑する。2人は向き合ったまま、しばらく互いに無言だった。
「水南に、会いにきました」
「はい」
 静かに頷いた長瀬の目は、何故か少しだけ寂しそうに見えた。
「ずっと、……お待ちしていました」




 
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