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「よーう、やっとお前に会えたな」
宮原は楽しそうに言うと、その目を成美の背後に向けた。背後――ベンチに座ったままの、ナガセと名乗った男だ。
「おいおい、少しは驚けよ」
宮原が呆れたように言ったので、成美もようやく、背後に座る人を振り返った。
男は――ナガセは、成美を見つめたその時のままの、静かな目をしている。
「俺はな」
陽気だった宮原の声に、ゆっくりと凄みが滲んだ。
「お前が死んだなんて、これっぽっちも信じてなかったさ。別の部署に飛ばされはしたが、この6年、ずっとお前の行方を探していた。上手く顔を変えて逃げ延びたつもりだろうが、内縁の女房が死んで、東京に舞い戻ったのが運の尽きだったな」
なにこれ、これ一体……どういうこと?
ナガセ――長瀬?
ようやくその名前の意味が成美の中に落ちくる。
金森和明が教えてくれた男の名前。烏堂誠治の義兄弟で、現在行方不明になっている男。
その時、不意に目の前を何かがよぎり、宮原の腹のあたりでゴンっと重い音をたてて弾けた。
「うわっ」
不意をつかれたのか、宮原が眉をあげて後退する。
その肩には重たげなショルダーバック。見れば、バックの表面が砂まみれになっている。
「父ちゃんから離れろ!」
右手に砂の塊を握りしめた子供が、砂場で仁王立ちになっていた。
被っていたキャップは、足元に落ちている。男の子にしては少し長い髪。人形のような白い顔が、怒りで薄朱く染まっていた。
「今のは威嚇だ、わざと鞄を狙ったんだ。次は、急所を狙うからな」
「聖人!」
長瀬が怒声と共に立ち上がった。
その声の、宮原のそれとは比べ物にならない凄みに、成美は腰が抜けそうになっている。
びくっと子供が肩を震わせる。長瀬はゆっくりとした大股でその傍に歩み寄ると、手から砂のつぶてを取り上げた。
それを、無造作に足元に投げる。重い音がして中から割合大きな石が転がりでる。それが幼い子供の仕業だということに驚いて、成美は息をひいていた。
顔をそむけたままの子供は、不服そうに頰をふくらませている。
「聖人、このおじさんに謝れ」
「でも」
「でもじゃねぇ、とっとと謝れ!」
「でも」
「でもじゃねぇ!」
長瀬が腕をふりあげる。てっきり子供を殴るのだと思った成美は咄嗟に足を踏み出した。が、長瀬の日焼けした大きな手は、柔らかく押えるように、小さなおとがいに置かれただけだった。
「……謝れ」
「…………」
うつむいて唇を噛んでいた聖人が、目を逸らしたままで頭を下げた。
「……ごめんなさい」
「ちゃんと謝れ。おじさんの目を見て謝れ」
聖人は一瞬顔を歪ませたものの、素直にそのとおりにした。
「おっそろしいガキだなぁ」
バックの砂を払いながら、宮原が呆れたように呟いた。
長瀬は、そんな宮原を一瞥してから、再び聖人に向き直る。
「聖人、これから一人で、林のおばちゃんの家にいっとけるか」
なんで、と言わんばかりの不服そうな目で聖人は父親の顔を見る。
「お父さんは、このおじさんと大切な話があるんだ。ちょっとしたら迎えに行く。夕飯は聖人の好きなものを作るよ」
「嘘だ」
「嘘じゃねぇ。父ちゃんは嘘つかねぇだろ」
肩を抱こうとした父親の手を払いのけ、聖人は弾けるように顔をあげた。
「だってあいつは、父ちゃんの敵じゃねぇか」
その憎悪に満ちた目は、まっすぐ宮原に向けられている。
「じいちゃんが言ってた。悪い奴らが父ちゃんを探してる。だから父ちゃんは居場所を転々と変えてるんだ。み、見つかったら、父ちゃんは殺されるかもしれない」
一瞬言葉に詰まった聖人の顔が大きく歪んだ。
「あいつがそうなんだろ? あいつが父ちゃんを殺しに来た悪い奴だろ? そいで、父ちゃんをどっか遠くに連れてこうとしてるんだろ?」
「まさ」
「そんなの嫌だ。そしたら俺、どうしたらいいんだ。母ちゃんいなくなって、父ちゃんまでいなくなったら」
大きな双眸から、ほとばしるように涙があふれた。
「俺、ひとりぼっちになっちまうじゃねぇか!」
成美は胸を衝かれたようになって、そのまま息をとめていた。
顔をそむけた途端、涙が目頭から鼻に伝った。
子供の、小さな胸いっぱいに詰まった不安が、まるで幼い頃の自分のもののようだった。
自分を守ってくれると信じていた手が、本当は冷たいものだとわかった時。
この世界に、たった一人で取り残されるかもしれないという不安と孤独。――
「……まさ」
嗚咽をもらし、やがて歯を食いしばるようにして泣き始めた聖人を、長瀬は優しく抱きしめた。
「んなことはねぇ。あのおじさんは正義の味方だ」
「……う、う、嘘だ」
「嘘じゃねぇ。なんなら警察手帳を見せてもらえ」
涙を浮かべたまま、聖人は訝しげに父親を見上げる。
「けい、さつ?」
「あのおじさんは、父ちゃんをいじめたりしない。むしろ悪い奴らから父ちゃんを守りに来てくれたんだ。――な、だから心配しなくても大丈夫だ」
「ほんとかよ」
「本当だ。今まで父ちゃんが嘘ついたことがあったか?」
聖人は唇を噛むようにして、首を横に振った。
「……林のおばちゃん家にいってる」
「よし、いい子だ」
ぽんと頭を叩かれた聖人が、うつむいたままで、宮原の傍に歩み寄った。
ちょっと驚いたように眉をあげる宮原の前で、聖人は足をとめて頭をさげる。
「父ちゃんのこと、よろしくおねがいします」
どう返事をしていいかわからないのか、宮原はただ数度瞬きした。
再度ぺこりと頭を下げ、聖人は踵を返して歩き出す。その眼差しが、一瞬成美に向けられたので、成美は思わず微笑んでいた。
大丈夫よ、と伝えたかった。もちろんなんの根拠もないけれど、お父さんなら大丈夫よ、と。
聖人は訝しげに瞬きすると、ぷいっと顔をそむけて歩き出した。
大人への警戒心の強さが透けて見えるその態度に、また成美の心は痛みを覚える。
その小さな背中が公園から消えるのを待って、宮原が口を開いた。
「嘘をついたことがない、か。そいつはけだし名言だ。お前の存在そのものが何もかも嘘だってのに」
長瀬は無言で宮原を見る。
「いずれにしても、今のは明らかに嘘だったな。俺は確かに正義の味方だが、なにもお前を守りに来たわけじゃない。捕まえにきたんだから」
「警察を」
長瀬が静かに口を開いた。
「正義の味方だと言い切った時点で、自分は嘘をついている。けれど子供ってのは、その嘘まみれの世の中を信じて生きていくしかねぇんです。そういう嘘は、人を騙す嘘とは違う」
「おいおい、まさかガキ使って同情買おうとか思ってねぇか。どうしちまったんだよ。そののっぺりした二枚目面もそうだが、全くお前らしくねぇ」
宮原は苦笑して、煙草をポケットから取り出して口にくわえた。
「しかも、お前のガキでもないっつーのによ」
「あの、宮原さん」
成美は初めて口を挟んでいた。
たてつづけに起きた衝撃の中で、今一番信じられないのが、宮原という男の豹変ぶりだった。
雪村をゆきりんと呼び、ふざけていた姿はもうどこにもない。
この男こそ、嘘の塊のような存在だったが――少なくとも根いい人だと、成美はそう信じていたのだ。
「どういう、ことなんですか」
「どういうって?」
とぼけた言いように少しだけむっとして、成美はごくりと唾を飲み込んだ。
「事情がまるで判らないから聞いてるんです。……この人、捕まえるんですか」
「もちろん。そのためにはるばるこんな北陸くんだりまで来たんですから」
宮原はふざけたように言って、煙草の煙を口から吐き出した。
「前科こそついていないが、この男の容疑は数え切れないくらいあるんでね。三件の殺人教唆、暴行、恐喝、詐欺、銃器所持。――こいつはね、人間の幸福に寄生する根っからの屑ですよ。人並みに幸福な人生を送ろうなんて、思っても許してもいけない男だ」
次第に毒々しい口調になり、宮原は目をすがめた。
「こいつは、7年前に死んだ烏堂政治です。もちろん本当に死んだんじゃない。親友を身代わりにして、韓国で整形して生き延びた。こうして見つけた以上、もちろん見逃すわけにはいかない。あの子供には気の毒だが、身寄りがない以上施設にでも入れるしかないでしょうね」
烏堂、誠司……。
呆然とする成美の脳内に、これまで耳にした彼に関する知識が怒涛のように流れこんでくる。
この人が――本当にこの人が、日本で二番目に大きい暴力団組織の、元幹部?
だいたい死んだはずの人が生きてるって……現代でそんなことって有り得るの?
まだ半分も飲み込めないが、それでもひとつだけ、腑に落ちたことがある。
フリーライターの金森が、無駄に長く烏堂の話をしてくれた意味だ。
そして自分と氷室が監視されていた意味。
「最初から……」
呟くように成美は言った。
「最初から、私が……烏堂誠司のところに行くのを、待っていたんですか」
「君というより、あの時君が探していた男がね」
はっと成美は息を引いた。
それは氷室さんのことだ。
「わ、わかりません。どうして氷室さんがそんな――死んだはずの人の居所なんて、知っていると思ったんですか」
「どうして? そりゃ、自分の女房と逃げた男だからに決まってるじゃないか」
「………………」
「お嬢ちゃんもその程度はわかって、ここに来たんだと思ってたがね」
水南さん。
妊娠中に行方をくらませた水南さんが、最後まで一緒にいた男。
成美は目を見開いたまま、拳を強く握りしめた。
そういうことだったんだ――
おそらく氷室さんは、私の話を聞いた時から宮原さんの目的を察していたに違いない。
それを私は何も気付かず――氷室さんが他人に知られたくなかったことまで――打ち明けてしまっただなんて……。
「まぁ、簡単に種明かしをすると、こういうことだな」
2本目の煙草を取り出して火をつけると、宮原はそれを深く吸い込んだ。
「最初、……あれは去年の夏ごろだったかな。僕は、どうにかしてお嬢ちゃんに接触しようと、周辺人物に少しずつ接近を試みていた。理由は説明するまでもない。君が、後藤水南の戸籍上の亭主と懇意な仲だったからだ」
「…………」
「が、媒介に選んだ人物がまずかったせいか、お嬢ちゃんとのファーストコンタクトは非常にまずい形で終わった」
媒介にした人物とは紀里谷のことだ。
思えば、紀里谷を通じて、成美はこの男と知り合ったのだ。
しかしその紀里谷には、当時、すでに水南の息がかかっていた。この場合、水南と宮原、どちらが上手だったのだろうか。
「僕はお嬢ちゃんにこれ以上接近するのは危険だと判断した。お嬢ちゃんの背後には、危機察知能力が半端ない人物がついているからね。同時にその人物が僕の真のターゲットだったわけだが――。だから僕は、対象を別の人物にシフトすることにした」
「………それが、雪村さんですか」
「ご名答。けれどそのきっかけをくれたのは、他ならぬ君なんだよ」
その通りだ。
全く無関係だった雪村を、成美が紀里谷と宮原に引きあわせた。それがきっかけで、雪村は宮原につきまとわれるようになったのだ――
悔しさと情けなさから、成美は唇をかみしめた。
「雪村さんのことは……、それも全部お芝居ですか」
「お芝居とは?」
成美が黙っていると、宮原は笑うように息を吐いた。
「僕はそもそも、人間という生き物に恋愛感情を抱くことができない。職業柄裏の顔ばかり見ているからね。まぁ、ああいうキャラを演じるのはそれなりに面白くはあったが」
ひどい――
こんな人に雪村さんは、ずっと振り回されていた。でもこの男に雪村さんを引きあわせたのは、他ならぬ自分なのだ。
悔しさを紛らわすように、成美はくっと下唇を噛んだ。
「……少なくとも雪村さんは、宮原さんのことを信じていたと思います」
それには宮原は答えず、少し眉をあげただけだった。
「……話を戻そう。いずれにしても、僕はお嬢ちゃんの媒介人物の一人として、雪村君に接触を図った。警戒心の強い雪村君から信頼を得るのは大変だったが、偶然にも僕が過去に関わったある事件がそれを後押ししてくれた。――そうして気長に張り巡らせた糸に、ようやく僕が本当に欲しかった情報がひっかかってきたんだ」
成美は眉をひそめていた。
「……氷室さん、ですか……」
「その通り。雪村君から相談を受けた僕はこう考えた。佐伯涼も神崎香澄も、氷室という男にとってはひどく重大な――決して触れられたくない過去に続くキーマンだ。しかも両事件とも、真相は闇に包まれている。つまり君を過去の事件に――ぎりぎり危険水域まで近寄らせることができれば、氷室天は必ず姿を現すに違いない」
表情を強張らせる成美を見下ろし、宮原は少し気の毒そうな微笑を浮かべた。
「だっていつだって彼は、君を助けに来てくれただろう?」
「………………」
「君等が、僕の思う通りに動いてくれたかというと、必ずしもそうじゃなかった。金森以外にも烏堂誠治につながるヒントは用意していたんだが、なにしろ雪村君が慎重だったからね。が――結果的に君は氷室天の居所に辿り着き、彼をここまで導いてくれた」
「………………」
「納得したかい。そういう意味では、僕は確かに君と雪村君を欺いていたんだろう。まぁ、だからって謝る気はない。これも職務の内だからね」
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