それは――それは……
 つまり、それは……。
「……死……?」
 蒼白になった成美を見下ろし、氷室は小さく息をついてから、苦笑した。
「僕は死にませんし、君を道連れに心中するつもりもない。安心してください」
「で、でも」
「明日」
 やんわりと遮るように、氷室は自分の唇にたてた指をあてた。
「明日になれば判りますよ。多分……腑に落ちなかった何もかもがね」
 そ、そうなの?
 死ぬつもりがないと聞いて安堵したものの、成美にはまだ氷室の言う意味が判らない。
 堺医師の最後の言葉――答えを知りたければ水南に会いに行きたまえ。
 氷室さんは明日、それを実行しようとしているのだろうか。
 でも水南さんは死んでいる。いや、死んでいると思わされているだけで、実は――本当は生きている?
「……あの」
 眉を寄せてうつむいて、膝の上で拳を握りながら成美は訊いた。
「私が行っても……本当にいいんでしょうか」
 水南さんのところに。
 それがどういう意味を持つかは判らないけど。
「そもそも君が言い出したのに」
 くすり、と氷室が笑うのが判った。
「水南に謎解きを任されたのは自分だと。僕が何度否定しても、そう頑固に言い張ったのに」
「そ、それは……」
 後藤水南が、最後のゲームを仕掛けたのは、氷室ではなく成美である。
 今でもその直感には自信があるものの、正直、無理がある理屈を押し通したのはよく判っている。
「正直、最初は目茶苦茶なことを言っていると思いましたよ」
 氷室は視線を前に向けると、少しだけ唇を引き結んだ。 
「でも今は違う。――実は、あるいは君の推論が正しかったのではないかと、本気でそう思っているんです」
「えっ……」
「キーケースのダミーを、僕の部屋に置いたのは間違いなく水南の仕業です。実行者は志都さんでしょうね。ニーチェの切り抜きを忍ばせるあたり、いかにも水南が好みそうなやり方なんです。なによりページが切り取られた本を、僕は年末、あの書庫で見つけている」
「そうなんですか」
「キーケースは、僕なら一目で偽物だと判る。……悔しいですが、あれは、君にあてたメッセージだとしか言いようがない」
 悔しいは余計だと思ったが、キーケースが偽物だった――のくだりには、成美は内心ショックを受けていた。それを見抜けないどころか、懐かしさに思わず泣きそうになった私って……。
「水南は本当に、僕と君の2人に、謎を残したのかもしれない」
「………………」
 しばらく眉を寄せた成美は、戸惑いながら氷室を見上げた。
「なんの、ためでしょうか」
 氷室一人になら判るが、なんのために、私に。
「さぁ……。それは僕にとっても非常に興味深い謎ですが、正直いって見当もつかない。――むろん明日になれば、全てが判ると思いますが」
「………………」
 なんだろう。いまさらだけど、なんだか怖くなってきた。
 明日、一体どんな結末が私たちを待っているんだろう。
 もしそれが、――あり得ないとは思うけど、もしそれが水南さんの悪意からきたものだったとしたら、どうなるんだろう。
 氷室さんも私も、もう立ち直れないほど深く傷つくことになるのではないだろうか。
「怖く、ないですか」
「僕が?」
 おそるおそる訊いた成美に、氷室は呆れたような苦笑をかえした。
「怖くないはずがない。今も足が震えるほどです」
「…………」
「でもまぁ、君が一緒なら、なんとかなるんじゃないかな」
 そう言った氷室が、おもむろに成美の傍に歩み寄る。
 彼は少しだけ背をかがめて、成美に右手を差し出した。
「踊りませんか」
「…………え?」
 成美はぱちぱちと瞬きした。え? 今氷室さん、何か変なこと言わなかった?
 ぼんやりとする成美の手をとって立たせると、氷室は自分の傍に引き寄せた。
「え、ちょっ……え?」
「丁度、ワルツのナンバーがかかっている。昼間、僕の踊りを見ていたでしょう」
「み、見ていましたけど、そんなんで普通の人は動きを覚えることなんてできません。ちょっ、無理ですって」
 腰に、氷室の手が触れる。薄い衣服ごしに彼の体温を感じた瞬間、成美は真っ赤になって氷室の胸を押し戻していた。
「ほ、ほんと無理……、人いるし、恥ずかしいし、マジで勘弁してくださいっ」
「もう誰もいませんよ」
 くすりと笑って、氷室は少し強引に成美の腰を抱いて引き戻した。
「ちょっ……」
「あと5分で日付が変わる。開園時間もそこまでです。踊るといっても5分だけですから」
 5分だけ……。
 もしかして、これが彼に触れていられる人生最後の時になるかもしれない、5分間。
「僕の肩に手を添えて……そう、反対の手は背中に回して」
「……………」
「綺麗だ」
 まともに目をのぞきこまれるように囁かれ、成美は全身が熱くなるのを感じた。
 ゆっくりと氷室がステップを踏み始める。もう、なにがなんだか判らないが、成美もぎこちなく足を動かす。
 彼の首筋が成美の額のあたりにある。胸と胸が触れ合い、服がこすれる音が響く。冷たい指に包まれた自分の手が、もう火のように熱くなっている。
 てか、これは一体なんの罰ゲームなんでしょう。
 どうしてこの状況で――この人はこんな――私をからかって惑わすような――
「ひ、一言言わせていただいても、よろしいでしょうか」
「なんの意味があっての丁寧語でしょう。 ――どうぞ」
「部屋にいた時です。私が酔うと――全く酔ってはないですけど――氷室さんが大人の男であることを忘れるとかなんとか、そんな皮肉を言われましたよね」
「皮肉というより、事実を言ったまでですが。――それで」
「そもそも氷室さんが、私が大人の女性だってことを忘れてるんじゃないですか。こ、子供じゃないんだから、こんなことされたら、……困ります」
 頰も熱いし、耳も熱い。
 これほど身体を近づけているのだから、成美の心臓の音が、爆発しそうなほどに高鳴っていることなんて、もうとっくに気づかれているはずだ。
 それなのに氷室の指は、まだ冷たいままなのだ。
「忘れたことなんてないですよ」
 笑うような声で、氷室が囁いた。
 その声が、いっそうからかいを帯びた口調だったから、成美は少しむっとして熱くなった顔をそむけている。
「嘘ばっかり」
「嘘じゃないです。なんなら証拠をお見せしましょうか」
 証拠――?
「君は、綺麗だ」
 甘く掠れた囁き声に、ドキリと胸が高なった。
「それから、月より美しい……でしたっけ?」
 はっと成美は、氷室の、笑いを堪えるような顔を見上げていた。
 それは――もしかして、そのセリフは。
(そんなの、適当でいいじゃないですか。可愛いとか綺麗だとか)
(君は月より美しいとか、僕の目にはもう君しか映らないとか。――ていうかそういうの、氷室さんの得意技でしょ?)
「ひどい!」
「ははっ、だって君が適当に教えてくれた口説き文句じゃないですか」
 たまりかねたように、氷室が相好を崩して笑う。
「あの適当感には呆れましたよ。絶対本気でアドバイスなんてしていなかったでしょう」
「もうっ、ひどい、ひどいですっ」
 真っ赤になって氷室の胸を叩きながら、成美は泣きそうになっていた。
 そりゃ、本気でアドバイスなんてできるわけがないじゃないですか。本気であの人が氷室さんを好きになったら――すごく嫌じゃないですか。
 笑いながら成美の腕を捉えた氷室は、再びそれを自分の背中にもっていった。
「ちょっと、まだ踊る気ですか」
「あと2分ありますから」
 憮然としながら、成美は再び氷室のリードに身をまかせる。
 少しずつ複雑なステップにも慣れてきて、穏やかで優しいメロディにあわせ、自分と氷室が同じリズムで動いているのが判ってくる。
「初めてにしては上手ですよ」
「……それも嘘でしょ」
「本当に。……すごく上手だ」
 嘘ばっかり……。
 その時、優しい風が2人を包み込むようにして吹き抜ける。ふと肩の力が抜けた成美は、はじめてどこか安堵した気持で氷室の胸に頭を預けていた。
 なんの曲だか判らないけど、緩やかで優しいピアノ曲が流れている。
 人工の森と星々に囲まれた、静かな、2人だけの、最後の時間――
 ねぇ、氷室さん、あなたは本当に判ってますか。
 それとも無自覚に言ったんですか。
(つきあいはじめてからも、予想外の事態の連続で――、僕は全力で君を虜にしたつもりだったのに、君の心はいつもふらふらして掴みどころがなかった)
(僕は案外本気でしたよ)
(もっと言えば、僕は君以外の女性にそこまで尽くしたことがない。だからクリスマスのイベントも知らなければ興味すらなかったんです)
 あなたはさっき、私のことが大好きだって言ったんですよ。
 どんな方法でアプローチされるより、その一言を伝えてくれたら、私なんてあっという間にあなたの虜だったのに。
 でもそういう肝心なところがまるで判っていないのが、私の好きな氷室さんなんですね。――
 目を閉じた時、自分の指を包んでいる温度に、成美はようやく気がついた。
 そっか。
 何を色々欲張りになっていたんだろう、私は。
 明日、2人がどんな結末に辿り着いたとしても、もう、これでいい。
 これ以上、何もいらない。
 私はもう……この旅で一番欲しかったものを、手にいれていたんだ。
「……ん?」
 成美の口元に浮かんだ微笑に気づいたのか、ふと氷室が視線を向ける。
 成美はその視線に、そっと自分の目を合わせた。
「……氷室さんの指が、あったかいから」
「僕の、指?」
「嬉しくなったんです。……それだけ」
「………………」
 黙った氷室の腕が、少しだけ強く成美を抱き寄せた。
 成美は逆らわずに目を閉じて、彼の肩に頰を預ける。
 もう緊張も戸惑いもない。どうしてこんなに優しい気持になれるのか不思議なくらいだった。
 夜を飾るネオンが、少しずつ消えていく。
「……君は、綺麗だ」
「まだ、言ってるんですか」
「せっかくだから、マスターしようと思って」
 くすくす笑って、成美は顔をあげようとした。その耳元で氷室が囁く。
「今夜の月より美しい」
「もう」
 笑いながら視線を向けると、氷室の額が成美の額に重なった。
 影と情熱を帯びた暗い瞳に見つめられ、呼吸がとまる。
「君がいれば、……もう他には、何もいらない――」
「………………」
 周囲の電飾が消え、音楽がフェイドアウトする。
 淡い闇の中で、自分を胸に抱く氷室がどんな顔をしているか成美には判らなかった。
 ただ彼の鼓動と自分の鼓動、彼の温度と溶け合った自分の温度を感じていた。――彼の香りを感じていた。
「……時間です」
「そうです、ね」
 抱き合ったままの互いの声が、少しだけ掠れて聞こえた。
 ゆっくりと腕が緩み、互いの体温が離れていく。
「日高さん」
 どこか苦しそうな声だった。成美は黙って氷室を見上げた。
「君は、この旅が終わったら、どこに行くつもりですか」
 まだ指に、彼の指の温度が残っている。
 成美はうつむいて、目を閉じた。
「もう……答えは決まっています」

 







 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。