「わぁ」
 屋上に足を踏み入れた途端、先ほどまでの疑問も落胆も忘れ、成美は感嘆の声をあげていた。
「すっごい綺麗。なんなんですか、ここ」
 通路に沿って植え付けられた低木に、星を散りばめたような電飾がきらめいている。イルミネーションに彩られた東京の夜を背景に、小さな屋上庭園はまるで異世界に降り立ったような美しさだった。
「知らなかったです。こんな場所が東京にあったなんて」
「去年できたばかりなんですよ」
 振り向いた成美を見つめ、背後に立つ氷室は優しく笑んだ。
「本当は、去年のクリスマスに泊まろうと思ったんですが、生憎予約でいっぱいだったので」
 そうだったんだ。
 少しだけ、過去の幸福な記憶に胸が痛んだ。
 それを悟られないように、成美は先に立って電飾の森を歩き出す。
 青みを帯びた幻想的な森の中には、オルゴールのような優しいメロディが流れている。
「そりゃ、こんな綺麗なスポットがあるなら人気ですよ。だいたい去年のクリスマスは……色々あって、スタートダッシュが遅かったじゃないですか」
「まぁ、そうでしたね」
「氷室さん、自分は無宗派だからクリスマスなんて意味がないし、そもそも特別なことをする必要がないとか言うし」
「そんなことも言いましたね」
 笑いを噛み殺した声で答えながら、氷室が少し離れてついてくる。
「実際、あの頃は仕事が忙しかったんですよ。常々自分が愚かだと思っている行為に身を投じるのも癪だったし」
「そんなに難しく考える必要、あります? ただちょっと会って食事して、プレゼント渡して、それだけのことじゃないですか」
「基本受け身で済む女性には簡単な行程でも、それをプロデュースする男性にとっては、いちいち面倒くさいんですよ。大概毎日役所で顔をあわせるし、週に一度は食事もしている。プレゼントは贈りたくなった時に贈ればいい。――カレンダーにあわせて一斉行動するなんて、かえって気持が悪いでしょう」
「…………だから」
 少しいらっとした成美は、今と殆ど変わらない会話を、当時交わしたことをふと思い出していた。
 そうだった。
 こんな愚にもつかない議論で、ちょっとだけ険悪になって、しばらく氷室さんの部屋に行かないようにしてたんだっけ。
 そしたら――氷室さんが折れてくれて。
「……結局、色々考えてくれましたよね」
「君の元気がないとか、他の男と食事に行く約束をしたらしいとか、周囲にあれこれ言われたのでね」
 ん……? 
 眉を寄せた成美は、訝しみながら氷室を振り仰いだ。
「あの……、一体誰がそんな嘘を?」
「そんな余計なことを僕に吹き込んで楽しむ男は一人しかいないでしょう。今はもう、役所をやめたと聞きましたが」
 はっと成美は目を見開いていた。
「……沢村さん?」
 氷室は、肩をすくめるようにして頷いた。
 沢村烈士。
 成美は、その沢村のことを、今まで氷室になにひとつ話していないことにようやく気がついた。
 何があったのか詳細は不明だが、年が変わってから様子がおかしくなった沢村は、役所を無断欠勤した挙句、気がついたら退職していた。
 なんとなくその理由は、1月から氷室にかわって彼の上司になった柏原明凛にあるのではないかと――そんな気はしていたが、結局今でも沢村が退職した本当の理由は判らないままだ。
 そして、沢村の上司だった柏原明凛も、今年の4月に市役所から本省霞ヶ関に戻ってしまった。
 最後に成美に会った時、彼女は沢村の行方を探していると言った。
 つまり全く理解できないことに、あれだけ柏原明凛にベタ惚れしていた沢村が逃げ、逆に柏原明凛がそれを追っている……ということなのだ。
「あの……氷室さん、実は沢村さんのことなんですけど」
 どこから話していいか迷う成美に、氷室はあっさりと言った。
「彼なら元気そうですよ」
「あ、そうなんですか。――って、えええっ?」
 口に手をあて、唖然として見上げる成美に、氷室はいたずらめいた笑みを返した。
「頻繁に……とはいわないですが、ちょいちょい留守電にメッセージが入るんです。なんのつもりか知りませんが、一方的に相談相手にされているようで」
「…………留守電?」
「ええ」
「氷室さん、沢村さんに新しい携帯の番号、教えてたんですか」
「いいえ」
 しばらく首をかしげてその意味を考えていた成美は、やや険しく眉を寄せた。
「それって、もしかして前の番号……? 私も…… 一時期何度もかけてましたけど」
「まぁ、そうですね」
「はぁ?」
 さすがに成美は顔色を変えていた。
 嘘でしょ? とっくに解約されたか、少なくともどこかに放置されているとばかり思っていたのに!
「ちょっと、いくらなんでもひどすぎます。じゃあ、こっちから何度もかけてたのに、一切無視してたわけですか」
「出たら消えた意味がないでしょう。たまにですが、重要な情報が入ってくることがあるんです。解約するにできなかっただけですよ」
 ひ……、ひどい。
 なんて冷血漢なんだろう。私が涙ながらに残したメッセージなんかも、じゃあこの人はちゃんと聴いてたんだ。
 最低………………。
 が、怒りをぶつけるのはとりあえず先延ばしにして、今は急ぎ確認しておきたいことがある。
「沢村さん、元気なんですか」
「元気といえば元気ですが、毒気を抜かれたといえば完全に抜かれている。そんなところですかね」
 はい?
 言葉の意味が判らずに一瞬首をかしげてから、成美は続けた。
「てか、沢村さん、今どこにいるんですか。話せば長くなるんですけど、柏原課長が彼の行方を探してるんです。知ってるんなら、教えてあげなきゃ!」
「柏原さんが?」
 氷室は少しいぶかしげに眉を寄せた。
「それはどういうスパンでの質問ですか。もし沢村が、今現在どこにいるのかという意味の質問なら当然僕には判らない。でも彼がどこで寝起きしているのかだけは知っていますよ。柏原さんのマンションです」
「………………は?」
「先月あたりから、一緒に暮らし始めたようですね。その過程は全くの謎ですが」
 ………………は?
 成美は、ぽかんと開けた口を閉じるのも忘れていた。
 なに、じゃあもしかして、2人は両思いになっちゃったんですか?
 てか、そもそも沢村さんの逃亡劇はなんのため……?
 あの柏原課長に追いかけさせるような真似をするなんて。で、今はその課長の部屋に転がりこんでいるなんて。どこまでもずうずうしいというか、なんというか……。
(いつか4人でまた会える日がくるわ。じゃあ)
 最後に会った日の柏原明凛の笑顔が、成美の脳裏に蘇った。
 課長は、沢村さんを見つけたんだ。
 逃げる沢村さんをどこまでも追いかけて、……多分だけど、相当の覚悟をもって消えたはずの沢村さんの心を取り戻した。
「………………」
 はぁ……と、成美は一人感嘆の息を漏らした。
 やっぱりすごい。
 敵わない。
 柏原課長は――私にとっては、永遠に手の届かない憧れの人だ。
 そんな課長の選んだ相手が、よりにもよってあの沢村だということだけが、全く腑に落ちないけれど。
「なんだか色々釈然としませんけど……とりあえずは、よかったです」
 自分に言い聞かせるように言って、成美は傍らの氷室を見上げた。
 少しぼんやりとしていたように見えた氷室は、成美と目があって、戸惑ったように瞬きをする。
「会いたいですね」
「ん?」
「沢村さんと、……柏原さんに」
 答えず、氷室は視線を夜景に向けて微笑する。
 成美も、それ以上は何も言えずに氷室と同じ方向に目を向けた。
 初夏の夜風が、肩にかかった髪を涼やかに揺らしていく。
 色々言いたいことはあったけど、もういいか、と、ふと成美は思っていた。
 こんな綺麗な場所で、すごくいい話を聞かせてもらった。なんだかそれだけで、氷室の全てが許せるような気がする。
「君は、変わらないな」
 隣の氷室が不意に呟いた。
「え?」
「今、もういいかと思ったでしょう」
「えっ」
 今感じた幸福も吹き飛び、成美は、血の引く思いで氷室を見上げた。
「も、もしかしてついに――能力が開眼したんですか!」
 超人的な聴力に加え、ついに人の心を読める能力が。
 氷室はあきれたように眉をあげた。
「当たり前ですが人の気持なんて読めませんよ。でも今の君の心の変遷だけは手にとるように判る。色々僕を責めたいことがあったくせに、あっさり忘れてしまったでしょう。柏原さんのことが嬉しくて」
「う……」
 まぁ、殆どが図星ですが。
「そうやって、君の関心が僕からあっさり離れていくのを、実際僕は、何度も腹立たしく思いながら見ていたものですよ」
「…………え?」
 なに、それ。
 なんの話?
 自分の告白を恥じるように、氷室は眉を寄せて視線を逸らした。
「……まぁ、それが君の持つ美点でもあるわけですが」
「美点、ですか」
 まだ話の意味が読めず、成美は戸惑って瞬きをする。
 美点、というからには褒められているんだろうけど……
「すみません。不機嫌そうな顔で、褒められてる意味がわからないんですが」
 思い切ってした質問だが、氷室はますますむっとしたように眉をあげた。
「わからなくていいですよ。君は僕以外の誰に対しても、均等に愛情を注げる人だという意味です。場合によってはそこらに転がっている石ころにでも」
「は?」
 石? 石って何? なんのたとえ?
「まぁ――いいです。あまり深く考えないでください。いちいち説明するこっちが恥ずかしくなる」
「…………?」
 大きく息をつき、氷室は傍らのベンチにおもむろに腰を降ろした。
「なんとなく思い出しましたよ。君とまだ――恋愛的緊張感を楽しんでいた頃のことを」
「……なんですか、それ」
 氷室の不機嫌さの意味がわからないまま、成美もその隣におずおずと腰を降ろす。
「君とつきあうと決める前、……何度か君を、自宅まで送っていた頃の話です」
 氷室の声が、少しだけ柔らかくなる。とくん、と成美の鼓動が小さく鳴った。
「……君は新人職員で、軽い気持ちで手を出すには真面目すぎる人だった。僕には戸籍上の妻がいて、さらにいえば君の上司は、僕の正体を唯一知っていた柏原さんだ」
 言葉を切り、氷室は微かに苦笑した。
「結論からいえば、君には関わらない方が賢明だと。――そう思っていたんですけどね」
「…………」
「けれど、つい君を目で追ってしまう僕がいる。それが恋かといえば違ったろうし、かといって友情を抱いていたわけでもない。手を出す気もない女性をついつい構ってしまうという状況は自分にも初めてで、そんな自分に驚くとともに、その新鮮な状況を……多分だけど、楽しんでいた」
「…………」
 当時を懐かしむように、氷室の目が優しくなる。
「つきあいはじめてからも、予想外の事態の連続で――、僕は全力で君を虜にしたつもりだったのに、君の心はいつもふらふらして掴みどころがなかった。さすがに自信喪失しそうになりましたよ」
「はい?」
 それには成美は、全力で否定したいと思った。
「ちょ……それは、あんまりな誤解じゃないですか? むしろ私が、いつも氷室さんを追いかけていたのに」
「そうかな」
 うつむいて、氷室は少しだけ寂しげに笑った。
「よく思い返してみてください。追われるように仕向けながら結局追いかけていたのは、いつも僕だったような気がしますよ」
「……………」
「今も、結局は僕が、君を追いかけてここにいる」
「……………」
 氷室は立ち上がって成美に背を向けた。
「無自覚なら教えてあげますが、君はまるで蝶みたいにふんわりと移り気で、今みたいに、ちょっとしたことが原因で、簡単に僕の呪縛をといては逃げてしまう人なんです。僕は案外本気でしたよ。もっと言えば、僕は君以外の女性にそこまで尽くしたことがない。だからクリスマスのイベントも知らなければ興味すらなかったんです」
「…………」
 なんですか、それ。
 ぼんやりする成美を振り返り、氷室は肩をすくめるようにして微笑した。
「すみません。余談が長くなりましたね。つまり君は――僕のような傲慢な男に小気味よい一発をくれてやった稀有な女性、という意味です」
 なんなんですか、それ。
 氷室さん、さっきの言葉って自覚して言ってます?
 それは――つまり…………。
 氷室は少しだけ目を細めて、その視線を腕時計に向けた。
「もうあまり時間もないので、本題に入りましょうか。明日のことです」
 明日。
「今夜、――僕はこれから、車で安治谷の社員寮に戻ります」
「えっ?」
 それにはさすがに驚きを隠せず、成美は氷室を見上げていた。
「君はこのホテルに一泊して、明日の朝一番の新幹線で灰谷市のご自宅に戻ってください。そして時間的にはぎりぎりになりますが、通常どおり出勤して欲しいんです」
「あの、それは」
 つまり今日で氷室の過去探しの旅は終わり、ということなのだろうか。
 まだ水南の残した青い本が何かも判っていないのに。
「最後まで聴いてください」
 成美の戸惑いを察したように、淡々と氷室は続けた。
「君は通常どおり出勤し、そしてその足で裏口から役所を出て、タクシーを拾って灰谷空港に向かってください。後のことは全てメールで指示します」
 ――え……?
「あの……それって、どういう」
「君は全く気づいていないと思いますが、僕らは今日一日、ずっと監視されていたんですよ」
 数秒その意味を考えた成美は、しだいに顔がこわばっていくのを感じた。
「な、なな、なんでですか」
 というより誰に? なんのために?
「……何故なんでしょうね。君から聞いた話に全部のヒントがありますが、頭のいい雪村君でさえわからないのだから、君に判るはずがない」
 私の話?
 それって、昨夜氷室さんに話した、私と雪村さんが見聞きした話のこと?
「今日はどうでもいいですが、明日だけは、その人物に後をつけられたくないんです。――少しばかり面倒ですが、……そして君が灰谷市にそのまま残ることも、当然選択肢のひとつなのですが」
「待ってください」
 成美は氷室を遮っていた。
 もちろん色々聞きたいことはあるけれど。
「その前にちゃんと教えてください。明日、一体、どこに行くつもりなんですか」
「水南に会いに行きます」
 決然とした声に、成美ははっと息を呑んでいた。 
「そして明日が、僕らの最後の旅になる」
「………………」
「今は、それしか言えません」
 
 
 







 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。