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神崎香澄――
心臓が鈍い音を立てるを感じながら、成美はぎこちなく頷いた。
まさか今、このタイミングで、氷室が神崎香澄のことを話しだすとは思わなかった。
一体彼は、何を話すつもりなのだろう。
それが愉快な話ではないことは、氷室の眉に浮かぶ苦渋の色からみてとれる。
「口にすればまるでみっともない言い訳のようで、ずっと僕一人の胸におさめていようと思っていました。……僕は香澄を利用して裏切り、水南を襲わせ、結婚の足がかりにした――以前三条が、君に言ったことですが」
「………はい」
頷いた成美は、けれどすぐに顔をあげて氷室を見た。
「でもそれが嘘だってことは、私にだって判りました。わからないのは、どうして氷室さんが否定しないのかってことだったんです」
「………………」
「なんで、ですか」
氷室は目を伏せ、わずかに唇を噛み締めてから呟いた。
「その方が、楽だったんです」
え……？
「向井さんに責められ、三条に罵られることで、僕はどこか救われた気分になっていたのかもしれない。色々腑に落ちないことはあるにせよ、香澄の死にも、水南の身に起きたことにも、僕に責任がないとは……どうしても思えなかったから」
「………………」
「僕はある意味、そうやって見つけた居心地のいい場所に何年も逃げ込んでいたんです。……現実に何が起きたのかを知るのが怖くて仕方なかった。その気持は、正直今も変わってはいません」
言葉を切り、しばらく迷うように黙ってから、氷室は再び口を開いた。
「以前も言いましたが、僕と香澄は、僕が省庁に入る１年も前に別れました。別れを切りだしたのは僕の方ですが、香澄がそれに異を唱えることはありませんでした。――僕は……この件に関して言えば、決してまぬけではなかったと信じていますが……、香澄が僕を愛していたわけではないことを、以前から知っていたんです」
「………………」
「香澄には、もう――何年も前から愛していた男がいたんです。僕はその身代わりというのか、あてつけとでもいうのか。……そのあたりの女性心理は僕には図りようがない。けれどこれだけは断言できます。……香澄は僕に対してなにひとつ執着していなかった。僕のために水南を襲わせ、そのために死ぬなど……絶対にあり得ないことなんです」
「…………知ってます」
成美は呆然と呟いた。
信じられないけど、本当に言った。
氷室さんが私に――言い訳した。
「……私、その人のことを知ってます。香澄さんが愛していた人のことを、知ってます」
眉を寄せた氷室は、訝しげに成美を見る。
「そ、その人も香澄さんのことが昔から好きでした。でも……色々立場とかあって、親にものすごく反対されて、香澄さんのためにも別れるしかなかったって、……言ってました」
「……………」
「そ、その人は」
はっと感情がこみあげて、成美は思わず目をうるませていた。
「香澄さんが死んだのは、自分のせいだって言ってました。か、香澄さんを守るつもりが、逆に守られたんだとも言ってました。暴力団に追われる香澄さんを匿ったせいで、その人にも危険が迫っていたんです。それから……それから」
「………………」
「か、香澄さんは……、水南さんの事件が起こる少し前、その人の子供を堕ろしたんだって、言ってました」
氷室の眉が、微かに歪んだ。
「香澄さんが馬鹿な真似をしたのは、自分が原因なのかもしれないって――その人、ずっと自分を責めていたんです。でもその罪を、氷室さん一人が被ってしまったから」
思わずこぼれた涙を、成美は急いで手のひらで拭った。
「誰かに責められ、殴られでもすれば、少しは楽になれたかもしれないって言ってました。氷室さんに……責められたかったとも言ってました。頼まれたんです。私、……もし、氷室さんが私に本当のことを話してくれたら」
私に、言い訳してくれたら。
「……氷室さんに、今の話を伝えてくれって、頼まれました。でも氷室さんは……もうとっくに知ってるだろうとも、……言ってました」
眉を寄せたまま、氷室はしばらく無言だった。
彼の反応が怖くて、成美は膝のあたりに視線を据え付けたままでいた。
やがて氷室が、ふっと疲れたような息を吐く。
「僕は……以前君に忠告したと思いますがね。三条のような危険な男と２人きりになるべきではないと」
想定外の責め言葉に、成美はうろたえて顔をあげる。
「ま、待ってください。なにも２人になったわけじゃないです。その……、安藤叶恵さんのところで、氷室さんと安藤さんが話し込んでいた時のことですよ」
そこまで口走った成美は、ようやくはっとして氷室を見た。
「やっぱり、三条さんのこと……ご存知だったんですね」
「………………」
氷室は眉をしかめたまま、手にしたグラスを置いて立ち上がった。
「僕が奴を許せないと思う理由はひとつだけです。結婚を控えた婚約者がいながら、奴は香澄と再び関係を持ち、妊娠させ、堕胎させた。――仮に香澄がそれを望んだとしても、絶対に許せない」
「――違うんです！」
成美は、氷室を遮るように立ち上がっていた。
ようやく判った。ここから先のことはまだ氷室も知らないのだ。
「三条さんも同じなんです。氷室さんと同じで、言い訳したくないから自分の胸の中に収めていたんです」
「……収めていた？」
氷室が眉をしかめたままで成美を見る。
「さ、三条さんは、香澄さんと一緒になるつもりでいたんです。もちろん簡単なことじゃないし、周囲を説得するにも時間もかかったと思います。でも――」
（なんつぅかなぁ。もう、この女とは、二度と離れられねえなぁって思っちまったんだよな）
（産めよっつったら、香澄の奴、子どもみたいに声あげて泣いちゃってさ。……もう水商売からは足を洗うって、いい愛人になるってそう言うんだ。いい愛人だぜ？ 香澄らしくて笑ったよ）
「それなのに、ある日香澄さんは、三条さんに何も言わずに、病院にいって子供を堕ろしたそうなんです。その後、どれだけ三条さんが連絡を取ろうと試みても、香澄さんは逃げまわるだけだったって……。理由はいまでも判らない、判らないから腹が立つし悔しいんだって……、三条さん、言ってました」
「………………」
「……し、真偽を確かめる方法はないですけど、三条さんはそんなに……氷室さんが言うほど、悪い人でもないと思います」
しばらく氷室は黙っていた。黙って、窓の外の景色を見ているようだった。
成美はいたたまれない気持ちで、そんな氷室の影に覆われた横顔を窺った。
どう考えても私では役不足だった。しかも、いきなりで――心の準備が何もできていなかったから、ますます下手な説明になってしまった。
昼間聞いた三条の話を、上手く氷室に伝えられた自信がない。
彼が三条との禍根を水に流す、もしかしたらこれが唯一無二のチャンスだったのかもしれないのに。――
「知っていますよ」
「え……」
「三条が本当の意味での悪人ではないことだけは知っています。馬鹿は悪人にはなりきれない。三条が馬鹿なのは、今にはじまったことじゃないですからかね」
「………………」
「――今の話を、完全に信じたわけではないですが」
少しだけ微笑し、氷室は静かに成美を見た。
「三条が君に嘘をつく理由もまた見当たらない。まぁ―― 一応ですが、その前提で受け入れます」
え、じゃあ――
「あの、じゃあ」
今の、あまりに素直な氷室の言葉が信じられなくて、成美は何度も瞬きをしながら氷室を見上げた。
「じゃあ三条さんと仲直りするって、……そういうことでいいんですか」
「ただ、ますます謎が深まりはしましたけどね」
成美の質問には答えずにそう言って、氷室は微かに息をついた。
「……当時の香澄の行動は、今の話をもってみても、全く彼女らしくない。――僕はまだ、肝心なことを何も掴めていない気がする」
「……………」
「明日が、ますます怖くなりましたよ」
明日。
そういえば明日って――さっきも明日になればわかると氷室さんは言ったけど、明日、私たちは一体どこにいく予定になっているんだろう。
立ったままの成美を見下ろして苦笑すると、氷室は手でテーブルに戻るように示した。
「ひどく癪な気持ちですが、三条に感謝しないといけないんでしょうね」
「……え？」
椅子に座り直そうとした成美は、思わず氷室を見上げている。
そして、距離の近さにどきりとした。
最初と同じで椅子を引いてくれるつもりなのか、氷室は、成美のすぐ背後に歩み寄る。
「君は、今の話を伝えたくて僕を待っていてくれた。そうでなければ灰谷市に戻っていた。……違いますか？」
「………………」
戸惑って視線を下げ、成美は少し迷いながら口を開いた。
「……わかりません」
それが今の、正直な気持だった。
自分でも、どうして今夜灰谷市に戻らなかったのか判らない。
灰谷市に帰ろうかどうか、ぎりぎりのところで迷っていた時、かかってきた電話は氷室からではなく、雪村からだった。
（おい、ふざけんなよ。一体何日休めば気が済むんだ。まさか今週いっぱいとかほざくつもりじゃないだろうな）
いつも通りの雪村の声を耳にした時、灰谷市に戻ろう、と確かに成美は決心していた。それなのに。
どこかもどかしく、成美は立ったままの氷室を見つめた。
「あの……」
「ん？」
「……いえ……」
なんだろう。言葉が何も出てこない。
何か聞きたいはずなのに、何か――伝えたいはずなのに。
束の間絡んだ視線をそらし、氷室が微かに息をついた。
「……最初から躊躇せずに、さっさと渡しておけばよかったな」
「え？」
なに？ なんの話？
「結局一番悪いタイミングになってしまったような気がします。これを」
眉をひそめる成美の前で、氷室はポケットから白いハンカチを取り出した。
「昼に、安藤叶恵さんから預りました。君に返してくれないかと」
――安藤さんが……？
訝しみながらハンカチを手にとった途端、成美は小さな声をあげていた。
上品な光沢を放つ白に、薄っすらとした銀糸でイニシャルが刺繍してある。
S.Y ―― 雪村脩二。
あの時のハンカチだ。
終末の家で足首を怪我した成美に、止血のために巻いてくれたハンカチ。
（泣くなよ）
（もう、貸してやるハンカチもない）
「君の足の手当をした時、足から外してそのまま渡すのを忘れていたと言われましたよ」
「………………」
ハンカチを手にしたまま、成美は睫毛を震わせて氷室を見上げた。
そんな成美を、しばらく静かな目で見つめてから、氷室は続けた。
「僕が言うことでもないし、君も当然理解しているだろとう思いますが、彼は君を、――とても大切に想っている」
目を閉じ、成美はうつむいた。
それが氷室の今夜の目的で、彼の出した最後の結論なのだろうかと思いながら。
「僕が、君の父親か兄なら、迷わずにこう言うと思います。君には、彼のような人がふさわしい」
「………………」
「彼なら、君を絶対に泣かせたりしないし、僕のように黙って君の前から消えたりはしないでしょうからね」
横を向いた氷室が、自嘲気味に苦笑するのが判った。
「君をきっと……幸せにする」
「………………」
でも、氷室さん。
一言反論させてもらえれば、あなたは私の兄でも父でもないでしょう。
あなたは私のなんなんですか？
でも、それが互いに判らないから、私たち――どこかもどかしくすれ違い続けているんですね。
言葉を飲み込んだ成美は、小さく唇を噛み締めてから、呟くように言った。
「……判ってます……」
「よければ、少し外に出てみませんか」
どう取り繕っていいか判らないほど静まりかえった空気を、最初に破ったのは氷室だった。
「え？ 外、ですか」
まだ感情の整理がつかないまま、ぼんやりと立っていた成美は、氷室の思わぬ提案に驚いて顔をあげる。
外って、こんな時間に……？
時刻は、もう１１時を大きく回っている。成美は戸惑いながら氷室を見上げた。
「外といっても屋上ですよ。実はこのホテルには屋上庭園があって、深夜でも散歩できるようになっているんです」
「あ……そうなんですか」
正直、誘われた意図はよく判らないが、この空気をどう収拾していいかも判らない。
仮に氷室の下した最終結論が先ほどの会話だったとしても、まだ確かめておかなければならないことはいくつもあるし――話すなら、この部屋より外の方が何倍も気楽だろう。
「わかりました。あ、でも」
すぐにでも歩き出しそうな氷室を制し、成美は自身のドレスを見下ろした。いくらなんでもこれで外に出るなんて恥ずかしすぎる。
「すぐ服を着替えますから、ちょっと外で待っててもらえます？」
「ん……」
氷室は腕時計にちらりと視線を落とし、「そのままでいいでしょう」とさらりと言った。
むっと、成美は後ずさりする。
「絶対やです」
「どうして」
「だって、恥ずかしいじゃないですか。そもそもちっとも似合ってないし」
「そうかな」
「そうかなって、そうですよ。だいたい氷室さんだって」
「僕だって？」
成美はしばらく黙ってから唇を尖らせた。
「人に無理矢理こんなもの着せといて、似合うの一言もないじゃないですか。嘘でも言ってくれてたら、少しはマシな気分になれたのに」
意外そうに眉をあげた氷室は、次の瞬間楽しそうに喉を鳴らして笑った。
「もうっ、何がおかしいんですか」
「いや、だって」
きっと子供っぽいことを言ってしまったからに違いない。
成美は耳まで熱くなって、氷室の胸に手を当てて押し戻した。
「出てってください。とにかく着替えて、すぐに追いつきますから」
逆らわずに後退し、目に笑いの余韻を残したままで氷室は言った。
「僕が今日、一体何度君に見惚れたのか、君は本当にわかっていないんですか」
…………。
……え？
呆然と氷室を見上げる成美に、彼は苦笑まじりに微笑みかけた。
「僕が、そのままでいてほしいんです。どうかその姿で、今夜は僕につきあってください」
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