16
 
               
 ――氷室さん……大丈夫かな……。
 時計を見た成美はため息をついて、ベッドの上で所在なく寝返りを打った。
 午後10時少し過ぎ。堺マキの家を後にしてから、もう2時間は過ぎている。
 帰りの車の中で、氷室はずっと無言だったし、成美も何も言えなかった。
 氷室の心が水南との思い出で埋め尽くされているのは明らかだったし、彼が今、何より1人になりたいのも判っていた。
 水南の真実が徐々に明らかになっていく中で、成美は、自分が少しずつ不要な存在なっていくのを感じていた。
 今日も、動揺する氷室に、成美は声ひとつかけてあげることができなかった。
 ただ彼の腕に手を添えることしか――できなかった。
(答えを知りたければ私にできる助言はひとつだ。水南に、会いに行きたまえ)
 最後に堺が言い残した謎のメッセージの意味も、成美にはまるでわからない。
 後藤水南はもう死んだのだ。堺はそれを認識しているものだとばかり思っていたが、実はそうではなかったのかもしれない。
 堺は、――娘のマキの言うとおり、ずっと夢と現実の狭間を行き来していたのだろうか。
 だとしたら彼が語ってくれたことは、どこまでが現実のものだったのだろうか。
 車中で黙り続ける氷室は、憔悴しているというよりは、何かを一心不乱に考えているようでもあり、成美の存在そのものを忘れきってしまったようでもあった。
 なのに彼は、ふと思い立ったように電話でホテルをリザーブすると、成美をそこに送りつけたのだ。
(僕の名前で部屋をとっています。夕食までには戻りますから、少しの間1人で待っていてください)
 そして今、時計の針は10時半に近づこうとしている。
「……何が夕食の時間までにはよ」
 ぼやきながら再び寝返りを打った成美は、明日の仕事どうしよう、と、ふと思った。
 雪村には、明日は必ず出勤しますと言ってある。仕事だってさすがに溜まっているだろう。今から飛び出してタクシーを拾えば、ぎりぎり終電には間に合う時間だ。
 が――
 戻りますと言って出て行った人を待っている以上、勝手に部屋を出て行くわけにもいかない。氷室が戻ってくるやいなや、じゃあ、と出て行くわけにもいかないだろう。
 ――明日の午前中も休ませてくださいって……、雪村さんにお願いしてみようか。
「……………」
 気乗りしないまま持ち上げた携帯を見つめ、成美は長い息を吐いてそれを投げ出した。
 なんだろう、……辛い
 よく判らないけど、今、雪村さんの声を聞くと、泣いてしまいそうな予感がする。
 今回のことで、雪村さんにはとんでもない迷惑をかけてしまった。これ以上余計な心配をかけたくないし、かけるべきじゃない。……
 起き上がってメールだけ送信すると、成美はぼんやりとベッドに横臥し、窓から見える都会の灯りが少しずつ闇に飲まれていくのを、見つめていた。
 自分はこれから、どこに向かおうとしているのだろう。
 今日、氷室は、彼自身が閉ざしていた過去に続く扉をあけた。
 その先に何があるのかはまだ判らない。けれど彼は、もう逃げたりはしないだろう。
 なのに私は――どうだろう。
 彼は知っているのだろうか。私にもひとつだけ、開けない扉があることを。
 再会してからずっと、意図的に逸し続けている話があることを。
 でもその扉は、もしかすると――もう、開ける必要さえないのかもしれないのだ……。
「……帰ろっかな」
 ぽつりと呟いた途端、目尻にじわっと涙が滲んだ。
 帰ろうかな。灰谷市に。
 もうここに、自分がいる意味などないような気がする。
 身を起こしかけた時、ふと、今日の昼間別れた三条の言葉が脳裏に蘇った。
(今の話だけどな、……できれば、あんたの口から天に伝えてもらえねぇかな)
(ただ、それには絶対に譲れない条件がある。天があんたに言い訳したら、だ。あいつがみっともなく香澄のことでああだこうだと言い訳したら、……今の話、あんたの口から奴に伝えてやってほしいんだ)
 一方的に頼んでおいて、そんなややこしい条件を出すなんて、なんなんだろう。
 三条から聞いた話は、絶対に氷室が知るべきものだ。
 でも――神崎香澄の件で、氷室が成美に「言い訳」するなんて、まずあり得ないことのように思われた。
 そもそも言い訳する前提がない。2人はもう他人だし――なにより氷室は、もう成美を必要としてはいないのだ。
 水南に深く愛されていたという過去と記憶が、きっとこれからも、彼を支え続けていくだろう。
「……………」
 ぐっと唇を噛み締めた途端、こらえていた涙が頬に零れた。
 なんのことはない。今日がまるでとどめのように、私は水南さんに負けたのだ。
 完全に、最後に残っていたちっぽけな欠片さえあまさずに、彼の心を持って行かれてしまったのだ……。
 零れた涙を手のひらで拭った時、枕元に投げていた携帯が震えた。成美ははっとして起き上がると、携帯に手を伸ばしかけて、そこで止めた。
 ――誰……。
 心臓が、不意に高く鳴り始めた。
 氷室さんだろうか。いや、メールを送ったばかりだから雪村さんかもしれない。
「………………」
 もし雪村さんからだったら。
 その瞬間、気持ちの糸が切れて、わんわん泣いてしまうような気がする。
 もしかすると私は、氷室さんに会うことなく、このまま灰谷市に戻る道を選ぶかもしれない。
 もし、この電話が――雪村さんからだったら。
 
 
 

 ノックの音が微かに聞こえる。
 鏡の前に座っていた成美は、急いで立ち上がると扉に向かった。
 扉の前で胸をおさえ、深呼吸してからおずおずと扉を開ける。
 そこに立っていた人は、普段通りの微笑みを成美に向けた。
「すみません、遅くなりました」
「……いえ」
 互いに正装だという気恥ずかしさから、自然に成美は視線を下げる。
 しばらくそのままの姿勢で成美を見つめていた氷室は、扉を後手にしめると、あっさりと成美の横をすり抜けた。
「準備は?」
「あ、ついさっき、ホテルの人が用意してくれて」
 窓際に置かれた円卓には、上階のレストランから取り寄せたディナーの皿が並んでいる。
 ルームサービスの時間はとうに終わっているのだが、氷室が無理を言って注文してくれたのだ。
 テーブルに添えられた一輪挿しの薔薇に指で触れ、氷室はおもむろに成美に視線を向けた。 
「何も説明せずに消えて、すみませんでした」
「……いえ」
「話は……、食事をしながらにしましょうか」
 顔を上げた途端、テーブルの向こうのベッドが否応なしに目にはいる。
 成美はばっと顔をそむけていた。
 いやいやいやいや。
 やっぱりこの状況っておかしいでしょ!
 私たち別れて――もう他人なのに――この状況ってなんなのよ。
 まぁ、そもそもおかしいことが判ってて、受け入れちゃったのは私なんだけど……。
 ぎくしゃくとテーブルに歩み寄ると、氷室が椅子を引いてくれた。
 背後に立つ、彼の香りとほのかな体温を感じる。椅子から離れた手が軽く成美の背に触れただけで、成美は耳が熱を帯びるのを感じた。
「……さん?」
 なんだろう。自分の心臓の音が煩くて周りの音が聞こえない。
 ていうかよく判らない。私ったらなんでこうも、ガチガチに緊張してるんだろう。まるで、初めて彼とデートしたときみたいだ。
「……日高さん?」
「え?」
「グラスには何も入ってませんよ」
「………!」
 はっとした成美は、自分が、空のグラスに口をつけていたことに初めて気がついた。
「ワインでいいですか」
 氷室が笑いを噛み殺しながら、ワインボトルをとりあげた。
「そんなに緊張しなくても、食事が終わったら自分の部屋に戻りますよ」
「わ、わかってます。だいたい緊張なんて、してませんし」
「そうかな」
 笑いを帯びた目で、氷室が成美を見下ろした。
「そんな顔をされると、正直、期待されているのか警戒されているのか、判らなくなります」
「………………」
 一瞬、頰を熱くした成美は、すぐにうつむいて「服のせいですよ」と言い訳のように呟いた。
 そうだ、何もかもこの恥ずかしいドレスのせいだ。
(どうせなら、今日買った服を着て食事をしませんか?)
 氷室のリクエストに素直に応じた自分も馬鹿だと思ったが、昼間買ってもらったパーティドレス。やたら露出が高く、腕や背中がほとんどむき出しになっている非日常なドレス。こんなものを着ているから、普段の何倍も警戒――もとい緊張してしまっているのだ。
 ダンスパーティで身に付けるのならまだしも、ホテルの部屋で、テーブルの隣にクィーンサイズのベッドが置かれているような密室で、男性と2人きりで身につけるようなものでは絶対にない。
 だいたい食事なら外でとればいいのに、なんだって氷室さんは――こんな時間にこんな密室で――期待してるとかそんなんじゃないけど、そんなんじゃないけど、なんか――意識するなってほうが無理じゃない!
「この時間、まともな食事を出すような店は、もう開いていないんですよ」
 不意に言われ、成美は手にしたグラスを落としそうになっていた。
「は、はい?」
 ついに心の声まで聞こえるようになったのか――顔をあげると、氷室が苦笑して見下ろしている。
「部屋での食事に他意はないです。というより、この状況で女性を口説くほど、僕は脳天気な男ではないですけどね」
 それは――よく、知ってますけど。
 時刻は、あと一時間もすれば日付が変わる。
 ほんの数十分前に戻ってきたばかりの氷室が、なんのために、正装までさせて深夜のディナーを申し出たのか、成美にはまだ判らないままだった。
「正直言えば、……もう、君はいないものだと思っていたな」
 成美のグラスに赤ワインを注ぎながら、氷室は落ち着いた口調で言った。
「ふと気がついたら、もう夜の10時を回っていた。電話して君が出てくれた時は、心からほっとしましたよ」
 テーブルにともされたキャンドルが、氷室の顔をいつも以上に美しく、魅力的にみせている。
 そんな時間まで、今までどこで何をしてきたのか。夕刻、堺医師の前で取り乱していた姿はもうどこにもない。まるで何もかもが、成美1人が見た夢だったかのようだ。
 つまり――そういうことなのだ。
 覚悟はしていたことだけど――彼は成美の手助けなしでも、今日の出来事を消化することができたのだ。
 少しだけ悔しくなって、成美はグラスに唇をつけると、それを一気に飲み干した。
「ほっとしたって、本当ですか」
「ん?」
「そのわりには、自信満々だったじゃないですか」
「……僕が?」
 差し出したグラスに、氷室が再びワインを注いでくれる。
「だって、当然のように深夜近くに戻ってきて、当然のように私を食事に誘ったじゃないですか」
「では大慌てで戻ってきて、君に平謝りしながら、食事に誘えばよかったですか」
 再び空になったグラスを、氷室は成美の手から取り上げた。
「この状況で酔っ払うのだけは勘弁してください。そんな僕らしくない姿を君に見せるのは、正直昼間でこりごりですよ」
 新しいグラスにデカンタから水を注いだものが、成美の前に差し出される。 
 なんなんだろう。彼の、この冷静さは。
 この数時間、私がどんな思いで、この人の帰りを待っていたと思ってるんだろうか。
「……電話がありました」
 横を向いたまま、ふてくされたように成美は言った。
「雪村さんから……。私がメールしたから、その折り返しなんですけど」
「……それで?」
 それで。
 それで――私は、何を言うつもりだったんだろう。
「今夜こっちに泊まる以上、明日もお休みをとるしかないから、一応、簡単な状況だけ説明しました。なんだか係内がバタバタしてるみたいで、明日一日が限界だからなって怒鳴られましたけど」
「そうですか」
 そうです。
 氷室はそれきり黙って、アミューズを口に運ぶ。
 成美も黙ったまま、スープ皿に手をのばした。
 そして――雪村からかかってきた電話を切った後、自問した思いに再度囚われていた。
 私は何故、ここに残っているのだろう、と。
 何故いますぐこの部屋を飛び出して、灰谷市に帰らないのだろうか、と――
「……食欲が、ないようですね」
「そりゃ……、こんな時間ですし」
 お腹は空いているはずなのに、喉に、何かつかえたみたいな感覚がある。
「太ったら、雪村君に嫌われますか」
「……、もうさんざん、デブだのブスだの言われてます」
「……………」
「……………」
 てか、なんの会話をしてるんだろう。私たち。
 もしかすると――もしかしなくても――これが私たちの、最後の夜になるのかもしれないのに。
 成美は迷いながら氷室を見上げる。氷室もつられるように視線を向け、一時2人の――互いの気持を推し量るような眼差しが絡み合った。
 少し眩しそうに目を細め、先に視線をそらしたのは氷室だった。
「君と別れた後、終末の家に行ってきました」
 ぽつり、と呟くように氷室は言った。
「………え」
 終末の家。
 しばらく考えた成美は、驚いて眉をあげた。
「まさか、こんな時間までですか」
「ええ」
「……1人で?」
 氷室は短く頷いた。
「もう一度あの場所で、頭を整理してみたいことがあったんです。色々考えたり計算したりしていたら、随分時間がたってしまった。本当は、もっと早く戻るつもりでいたんですが」
 計算……?
 そぐわない単語に眉を寄せたが、そもそも絵に描かれた影の角度がなんとか数列に――などと言っていた氷室だ。計算を要することでもあったのかもしれない。
「水南さんの言い残した『青い本』を探していたって……、そういうことですか」
 それには氷室は、少しだけ目を細めた。
「どうなのかな。――それとは少し違うような気がしているのですが」
「え、違うって?」
 微かに笑んで、氷室は首を横に振った。
「青い本とは、実際何を指しているんでしょうね。過去の記憶をたどってみると、思いつく本は確かにある。けれどそれは――タイトルも作者名もない、と言い切れる本ではないんです」
「……水南さんの、人生の秘密を意味しているんじゃなかったんですか」
「僕の1人勝手な推理であって、それが正解とは限らない。むしろ……いや」
 氷室はフォークを置いて、微かに息を吐いた。
「君にそのあたりをきちんと説明できればいいのですが、まだそれだけの材料が僕にはないんですよ。――でもそれも、明日になれば判るかもしれない」
 明日……?
 じゃあ、私たちにはまだ明日があるの……?
「思えば今日一日、とんでもないことの連続で」
 わずかに苦笑すると、氷室は取り上げたグラスに唇につけた。
「人前でびしょ濡れになってみたり、犬に襲われてみたり、正直、僕の人生でこんな馬鹿げた経験をする日がくるとは夢にも思ってもみなかった。君を巻き込んだ――いや、君の悪運に巻き込まれたとも言いますが」
「え、ちょっとひどい」
 氷室は笑いを滲ませた目のまま、成美の反論を遮った。
「そのお詫びもあって、せめて食事くらい美味しいものを食べてもらいと思ったんですよ。だからリラックスしてください」
 成美もようやく、少しだけ笑顔になって頷いた。
 自分の中で堅く張り詰めていたものが、今の彼の言葉で柔らかくほどけてしまったようだった。
 そっか、そういうことだったのか。
 下心がないのは最初から判っていたけど、――嬉しいような拍子抜けしたような、――いや、やっぱり嬉しさが優っている。
 氷室さんが、まるで灰谷市にいた頃の氷室さんみたいに、落ち着いた表情で笑っているから。
 遠目から見るだけでドキドキして、密かに憧れて胸を焦がした、出会った頃の氷室さんみたいに。――
「……なんだか、不思議です」
 素直な気持のまま、成美はふと口にしていた。
「ん?」
「だって、堺先生と別れてから少ししかたっていないのに、氷室さんがすごく冷静になってるから」
「そうかな。僕はずっと冷静でしたよ」
「それは嘘ですよ」
 泣きそうだったくせに――という言葉は喉でおしとどめた。
 でも、泣きたくなったって無理はないと思う。こういう時の、男の人の感情の変遷は判らないけど、多分成美だったら泣いている。
 かつて愛していた人の気持が今判ったとしても――その人はもう、どうしたって手の届かない場所に行ってしまっているのだから。
「確かに随所随所で驚きもしたし、動揺もしましたが、僕はそれなりに冷静でしたよ」
「そうですか? 全くそうは見えませんでしたけど」
 成美はちろっと舌を出す。「そんなに強がらなくてもいいのに」
「別に強がってはいませんよ」 むっとしたように氷室。
「そういうのを、強がっていると言うんです」
「違うと再度否定しておきます。確かに君がいなかったら、途中で逃げ出していたかもしれないですけどね」
「ほら」
 得意になった成美の頭に、後から氷室の言葉が落ちてきた。
 私が、いなかったら……?
 今、氷室さん、私がいなかったら――って言った?
「君は酔うと、少し性質が悪くなる。ワインを頼んだのは失敗だったな」
 氷室はやや不機嫌そうに、ワインボトルを脇に押しやった。
「あ、あの、今なんて言いました?」
「ワインは失敗だったと言いましたが?」
 そうじゃなくて――
「その前」
「君は酔うと、性格がおおざっぱになって、僕が大人の男だということを忘れがちになると言いました」
「……そ、」
 そんなこと、言いましたっけ?
 氷室は、不機嫌さを取り繕うのを諦めたように苦笑した。
「あの時、君が傍にいてくれて、よかった」
「………………」
「そうでなければ、僕は子供みたいに泣いて逃げ出していた。――と、言ったんですよ」
「………………」
 それって。
 ――それって…………
 しばし呆けていた成美は、自分を見つめる氷室の目から微笑が消え、かわりに暗い影が降りるのを感じて、息を引いた。
「……日高さん」
「は、はい」
 眉を寄せ、しばらく黙っていた氷室は、ようやく成美に向き直った。
「君に、聞いて欲しい話がある。――言わなくてもいいことかもしれないし、君が知る必要のない話なのかもしれない。でも、やはり、君にだけは知っていてもらいたい。――香澄のことです」
 
 
 








 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。