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「わけがわからないまま、その晩、私はタクシーで後藤家に向かった。屋敷は通夜のように静まり返っていた。向井さんが目を真っ赤にして私を出迎え、リビングでは雅晴が頭を抱えるようにして泣いていた」
「…………」
「雅晴から事情を聞き、私もまた動揺と衝撃を抑えきれなかった。水南は屋敷に押し入った暴漢に一ヶ月も拉致されていた挙句、誰の子とも判らぬ子を妊娠しているというのだ。雅晴はその相手に心当たりがあるようだったが、関わらない方がいいと言うばかりで、私に詳細は知らされなかった。――水南は、寝室で仰臥していたよ。あの夜、誰が一番落ち着いているといって水南ほど冷静だった者はいなかったろう。その決然とした目を見た時、私は彼女を説得することを半ば諦めなければならないと理解した。――水南は、産むつもりなのだ。たとえ自分の命を犠牲にしても。いや……」
目頭をおさえ、堺は苦しげに首を横にふった。
「もう何年も前から、水南は自分の人生になんの希望も抱いてはいなかった。幼いころ母の醜い死に様を目の当たりにしたせいだろう。潜在的に美しい死を渇望していた。水南は自分の哲学に沿って生き、その哲学によって死のうとしている。ようやく自分にふさわしい死に場所を見つけたと――私を見て微笑む目はそう言っているように、見えたのだ」
時計の音だけが、鎮まりかえった部屋に響いている。
何故水南は、愛してもいない――それどころか意に沿わない妊娠を受け入れ、命をかけてまで出産に挑んたのか。
ある意味それは、後藤水南という人物の生き様の、最大の謎の部分だ。
「それでも、今すぐ全摘すれば発病だけ抑えられるかもしれない。残酷なようだが子供が育ちきらない内にそうできさえすればいい。私は何度も説得をこころみたし、雅晴も同じ真似をしただろう。が、水南の意志は固かった。思うに水南の決意の強さは、後藤家の女性特有のものなのだと思う。何世代にもわたって祖先の命と引き換えにつないできた命をここで断つことはできないという、悲壮なまでの使命感だ。いいかえれば水那江も水南も、その定めの連鎖から逃げることができなかったのだ。――彼女らの心情は、我々他者には絶対に理解できるものではないのかもしれない」
氷室が辛そうに目を閉じるのが、成美には判った。
「そして、そんな水南を翻意させるため、ついに雅晴は最後の手段に出た。……それが君なんだ、天君」
「待ってください」
苦しげな口調で、氷室が堺を遮った。
うつむいたまま、彼はしばらく言葉に迷っているようにも見えた。
「……後藤氏は……当然、知っていたんですよね。僕と水南に、血のつながりがあったということを」
「…………」
「僕にはそこが、今でも、どうしても理解できない。――何故、後藤氏は、そんな僕と水南をあえて結婚させるような残酷な真似をしたんですか!」
激情を懸命にかみころした、血を吐くような声だった。
成美ははじめて、氷室が胸の奥深くに隠していた懊悩を垣間見た気がした。
「……どうしてだと思うね」
ひどく静かな目で、堺は氷室をじっと見つめた。
「それがわからないから訊いているんです。――実際、真実を知ってから、僕は何度も後藤氏にそれを確認しようと思いました。でもできなかった。返答次第では、――あの男を殺してしまうかもしれないと思ったからです」
「……天君」
やはり静かな口調で、堺は続けた。
「君は今日、私の話を最初からきいて、一体どう思ったかね。後藤雅晴という人物の不思議さについて、……どういう感想を抱いたかね?」
「………?」
「雅晴もまた、人の子であり人の親なのだとは、思わなかったかね?」
氷室は、虚をつかれたように堺を見る。
「君の質問に答えよう。それは、雅晴自身も、本当のことを知らないからなのだ」
「……本当の、こと?」
「水南が本当は、誰の子だったのか、ということだよ」
「………………」
「本当のことを言えば、私は最初から疑念に思っていた。確かに水那江と君の父親の間には肉体の関係があったのだろう。雅晴と水那江の間にそれがなかった以上、生まれた子は間違いなく君の父親の血を引いているということになる。だがね、天君。その根拠となるものは、しょせん水那江の口から語られたことにすぎないのだよ」
「………………」
「私は何度もこう言ったね。当時の水那江は夢と妄想の世界に住んでいたと。奇しくも雅晴と佐伯涼の血液型は全くの同一型だ。証拠など何もないのだ。そうして私はこう思っている。いや、時と共に思うようになったと言い換えるべきだろう。雅晴は……最初から、水南が自分の子かもしれないと、そう思っていたのではないだろうか」
「………………」
「そうでなければ、理屈がつかないのだよ。天君。私は雅晴の酷薄な性格を誰よりよく知っている。他人の子を育て、あろうことかそのために涙を流し、またパニックになるような男では決して無いのだ。逆に、そうだとしたら説明がつくこともある。生まれたばかりの水南を、水那江から強引に奪いとった理由だ。おそらくだが、雅晴には心当たりがあったのだ。水南が自分の子である可能性――それが決してゼロではないことを、雅晴だけは知っていたのだ」
「………………」
「それでも最初は、自分を裏切った妻への報復のつもりで水南を奪ったのかもしれない。が、それがいつしか、複雑な愛情にとってかわった。……自分の分身かもしれない存在を知って、雅晴の心に初めて人らしい変化が生まれたのだ。我が子を愛おしいと思うが故に、もし裏切られたら――もし自分の子ではなかったら――という畏れと憎しみが募っていく。周囲にとって、それは決していい変化ではなかったろう。現に雅晴は、君の父親とその妻に、身の毛もよだつほど残酷な復讐をしている。……私にいわせれば、当時の雅晴が過去に執着したのは、思うようにならない娘との関係が原因なのだ」
呆然と目を見開く氷室を、堺は気の毒そうな目で見つめた。
「君にはにわかに信じられないだろうがね。あの男はあの男なりに水南を愛し、また愛するがゆえにひどく恐れていたのだよ。……真実が、詳らかになることを」
「………………」
「思うに雅晴は、最後の賭けに出たのではないだろうか。君との結婚を水南が了承すれば、水南は自分の子に違いない。拒否すれば、佐伯の子だ。なにしろ雅晴は、今でも水那江が水南に真実を言い遺したと信じているのだ。実際、遺したものはあったのだが――それはおそらく、科学的な裏付けにならないはずだ」
「そのとおりです。ですが」
顔を上げた氷室を見つめ、堺は寂しげに微笑した。
「君には、もう判っているはずだ、天君」
はっと目を見開いた氷室が、戸惑ったようにその目を逸らす。
何か2人にしか判らない会話のような気がしたが、成美にそれを聞きただすことはできなかった。
堺は続けた。
「いずれにしても雅晴は、君が水南を説得すること期待した。あるいは水南が君のために、堕胎を決意することを期待した。君らに血のつながりがあろうがなかろうが、もはや雅晴には、それしか思いつかなかったのだろう。そうして水南は、君との結婚を了承した。けれどそれは、雅晴が期待したような動機からではなかったのだと、私は思う……」
「どんな、動機だったのですか」
急くように訊く氷室を見つめ、堺はゆっくりと首を横に振った。
「……それは水南にしか判らんよ。けれど少なくとも水南は、君にとってよい妻ではなかったはずだ。水南が徹頭徹尾君に憎まれようとしていたことは、私がなにより知っている。理由までは判らないが、水南は君と最初から離婚するつもりで結婚したのだ。おそらくだが出産した後に、離婚届けを出す手はずになっていたのではないかね」
「………………」
「けれどな、天君。いかに水南が氷の心を持っていたとしても、生涯をかけて愛した男に尽くされ心が動かぬはずがない。実際、水南は苦しみ、何度も私の前で苦悩の涙を流した。どれだけ本当のことを打ち明けて、君にすがりたかったろう。けれど水南にもまた、その勇気がなかったのだ。雅晴以上に、本当のことを知るのが怖かったのだ……」
「…………ありえない」
呟くように氷室は言うと、額に手をあて、うなだれた。
「……先生のおっしゃることは、多分、前提が違っています。水南が僕を――愛していたことなど、……思うに、一度も、ないんです」
「……本気で、そう思っているのなら、君は本当のでくのぼうだな」
「…………」
成美は自分の目の端に滲んだ涙をぬぐった。
今、堺が、自分が思ったこと全てを代弁してくれた気がした。
「水南は、自分が生涯ただ一度しか恋ができない身体であることを、幼い頃から知っていたのだよ。その水南が操を捧げた人物こそが、生涯かけて愛する人でなくてなんであろう。私だけでなく雅晴ですら気付いていたことに、ある意味水南より聡い君が気づいていないとは……まぬけにもほどがあるというものじゃないのかね」
「……………」
「ある夜――あれは確か、君がひどく混乱した様子で電話をしてきた夜のことだよ。水南が貧血で倒れたとね。――その夜、水南は私の前で、もう限界だといって子供のように泣きじゃくった。水南の神経がぎりぎりだというのは、私にもよく判っていたし、偽装結婚も潮時だろうと思っていた。私は言った。いや、その前からずっと言い続けてきた。今ならまだ間に合うかもしれないと。――天君と姉弟鑑定をした上で、……手術をするかどうか考えてみてはどうかと」
「…………」
「あれほど頑なだった水南が、その時初めて鑑定を了承した。私はそれを、水南の生きたいというメッセージだと受け取った。その意味では、確かに雅晴の賭けはあたったのだ。君と結婚することで、一時的にせよ水南は未来に望みを抱くようになったのだから」
顔を手で覆うようにして、氷室は唇を震わせている。
「君には事後承諾になったが、当時、すでに2人のサンプルはとってあった。帰宅したその翌日、私は専門機関に鑑定を依頼した。結果は水南に直接届くようにした。どんな結果が出ても、それを一番に知るのは水南でなければならないと思ったからだ」
「…………結果、は」
「わからない」
堺は残念そうに首を横に振った。
「君も知ってのとおり、それからほどなくして水南は姿を消したのだ。私も雅晴も懸命に行方を探したが、居所はようとしてしれなかった。結果は――もし封を切っていれば、の話だが、水南だけは知っていたはずだ」
「…………結果を知ったことも、姿を消した一因だった、ということではないですか」
氷室の問いに、堺はしばらく無言だった。
「確かにそう考えるのが妥当だろうがね……、しかしある理由から、私はそうではないと思っているのだよ。いや、今となっては、そんな理由ではなかったと強く確信しているくらいだ」
「………どういう、意味でしょう」
堺は息を吐くようにして微笑むと、ふっと糸が切れたように目を閉じた。
「天君、答えを知りたければ私にできる助言はひとつだ。水南に、会いに行きたまえ」
「…………」
「最後にこの部屋に来た水南の顔を、君に見せてやりたかった……。きっと水南は生きる希望を得たのだ。そして君にも、自分が見つけた希望を見せようとしているのだ……。私に判るのは、もう、それくらいだよ……」
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