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「君が僕を追いかけてくるなんて、想像してもいなかった。――僕はあの日、二度と君と会わないつもりで灰谷市を出た」
嘘でしょ……。
「そうでなければ、仕事も人生も、全てを捨てたりはしない」
そんな、じゃあ。
「日高さん。僕と君は、もう単なる昔の知り合いです」
じゃあ私たち――もう本当に終わりなの?
1
「ちょっと、いつまで寝てるのよっ」
ドンドンッ、と扉が激しく叩かれる。
成美はガバッと跳ね起きた。
心臓が嫌な風に高鳴っている。
夢――いや、この光景は夢じゃない。
殺風景な6畳間、マスタード色のカーテン。ここは――氷室が暮らしている部屋なのだ。
成美は薄手の掛け布団をはねのけると、慌てて髪を整え、立ちあがった。
扉はまだ叩かれている。扉の向こうから聞こえてきた声は女のものだ。
「す、すみません、今」
なにがなんだか判らないまま、急かされるように扉を開けた。
成美より、頭ひとつくらい背が高い女が立っている。スレンダーで整った顔だち。髪は金色混じりの茶髪で、ミニのデニムにヒョウ柄のホルダートップ。年の頃は20歳前後だろうか。
「……もう8時半なんですけど」
飛び出してきた成美を見て眉を寄せた女は、すぐに不機嫌丸出しの声になった。
「す、すみません」
わけがわからず、成美は謝る。よく判らないが、ここは氷室の社員寮だ。起床時間でも定められているのかもしれない。
そんな成美を上から下まで、まるで値踏みするかのように見回した女は、ふいっと長い髪を振り回して背を向けた。
「顔洗ってとっとと降りてきてよ。でないと、いつまでも片付かないでしょ」
はい?
「あの、それって一体なんの……」
「ご飯! 注文した以上は食べるんでしょ?」
は……?
なんのことだかさっぱりだが、とりあえず下に降りてみるしかない。
扉を閉めて急いで部屋に戻る成美の視界に、洗面台の鏡がよぎった。ふと足をとめ、成美はその前に駆け寄ってみる。
「…………うっそ」
なんて顔だろう。
肌は乾いて粉を吹き、カサカサになっている。しかも泣きながら寝たから、目は腫れて充血気味だ。髪も、寝癖でばっさばさになっている。
自分史上、最低のブス。
そういえば、最後にお風呂に入ったのって……
「さ、最低」
呆然としながら、成美はバックの中からブラシを取り出し、慌てて髪をとかしはじめた。ていうか、お風呂。まずお風呂を借りないと。
よくよく思い返してみれば、さっきの金髪美女は、昨夜、氷室さんの腕にからみついて甘えていた女だ。
つまり、ライバル。
信じられない。こんなみっともない姿で、ライバルの前に出てしまったなんて。
「…………」
はた、と成美は我に返った。
――って、私、何考えてんだろ。
非日常の中で、何をおかしな日常に囚われているのか。
ライバルがいるとかいないとか以前に、今はもう、自分と氷室の関係がどうだかさえ判らなくなっているというのに……。
この部屋に、もう氷室はいない。
昨夜、成美を泊めることにして、彼は部屋を出て行ったのだ。
そして彼は誰かの部屋で一夜を明かし、成美はそれを止めることもできず、ただなすすべもなく泣いていた。
それが今の、自分と氷室の現実なのだ。
そして、雪村までも巻き込んでしまった旅の結末。
「………………」
ぼんやりと手を下ろした成美の指から、ブラシが滑り落ちた。
なにやってんだろ、私。
ただめそめそ泣くためだけに、ここまで来たのだろうか。ただ泣いて、諦めるためだけに。
氷室が全てを拒否し、そして再び逃げることは、そもそも想定内ではなかったのか。
そうはさせないために、自分と雪村は、氷室の過去を探したのではなかったのか――
「あの……ごちそうさまでした」
成美はおずおずと礼を言ってから、朝食のトレーをカウンターに置いた。
カウンターの向こうには、ちょっときつい面差しをした中年女性が立っている。
髪はやはり派手な金髪。冷たい目で成美を見て、何も言わずにトレーをつかんでカウンター内に引っ込める。
「陽菜、とっととこれ、洗っちゃって」
「はぁい、ママ」
と、その傍らには、成美を起こしに来た若い女。陽菜と書いてハルナと読むのだろう。店内の壁にプリクラみたいな写真がいくつか貼り付けてあって、そこに女の顔写真と名前が書いてある。
で、カウンターの中にいるのは、おそらく陽菜の母親だ。顔の雰囲気がそっくりだし、服のセンスもよく似ている。
そして勘違いでなければ2人とも、どうやら成美を嫌っている。つまり2人とも、まさか、――氷室に懸想している?
成美は咳き込みかけていた。
ちょっとちょっと、勘弁してよ、氷室さん。
いくらなんでも手を広げすぎ。相手は私の母さんくらいの年頃だよ?
「ちょっとあんた」
そのお母さんに声をかけられ、背をむけてむせるように咳き込んでいた成美はぎょっとして顔をあげた。
「す、すみません、お勘定ですね」
「いいよ、それはブラさんの給料引きになってるから。座って。今コーヒーでも淹れるから」
「……は、はい」
そういや、昨日の夜もそんな呼び方をされていた。
ブラさん?
なんだろう。……めっちゃめちゃセンス悪いぞ、そのアダ名。
成美は居心地悪く、元のテーブルに座り直した。
氷室の部屋がある社員寮――3階建ての古い住宅だが、その1階部分が、今成美がいる社員食堂のようだった。
社員食堂といっても全品有料で、壁には居酒屋メニューなんかも張り出してある。どうやら、大衆食堂がそのまま社員食堂を兼ねているようだ。
金髪の母子が、2人で経営しているらしい。母子共々結構な美人で、勝手に推測すれば、元々水商売でもやっていそうな華やかな容姿をしている。
引き戸が開いて、ベルが鳴る。大柄で日焼けした男2人が、いかにも大義そうに入ってきた。
1人はタンクトップにケミカルウォッシュデニム。白に近い金髪で、天辺が黒の、いわゆるプリン髪である。
もう1人は、黒のプリントシャツに綿の半ズボン。金髪と茶髪が奇妙に交じり合っている。言っては悪いがブリーチに失敗したに違いない。
成美が店内に入ってからの、初めての客である。2人は慣れた様子でカウンターに席をとり、成美はますます居心地悪く視線を伏せた。ていうかこの会社、金髪率異様に高すぎじゃない?
「ハルちゃん、水くれ」
「夕べ飲み過ぎて起きられなくてさ。今からモーニング頼んでいい?」
はっと、カウンター内の母親が呆れた声をあげた。
「何がモーニングだよ、気取っちゃって。どうせブラさんの影響だろ」
「休みの日の朝食は9時まで。こっちも昼の準備があるんだから」
陽菜が唇を尖らせながら、2人の前に水の入ったグラスを置く。
「今度遅刻したら、料金2倍。次は絶対許さないからね」
男2人が、やや困惑気味に顔を見合わせた。
「ハルちゃん、超低気圧じゃね?」
「あれだよ、あれ。昨夜ブラさんとこに女がきたから」
あれな! とプリン頭が笑いながら手を叩いた。
「あれなら、捨てられた元カノだろ? ハルちゃん、あんなの気にすんなって。全然目じゃない、全然ハルちゃんが勝ってるって」
「ちょっと、あんたたち」
陽菜が、慌てて止めようとする。男2人は店内の隅に座る成美の存在に気づいていないのだ。
しかし、陽菜の動揺には気づかず、男たちは続けた。
「全然問題外、全然、ハルちゃんが綺麗だって」
「あんな薄汚たねぇ子、そもそもブラさんに似合ってないし」
「多分だけど、勝手に好きになられて困ってんだよ。だいたい、こんな田舎まで追いかけてくるなんて、マジ怖い。彼女じゃなくてストーカーじゃね」
「言えてる、それ。――で、そのストーカーはどこ行ったわけ?」
肩をすくめたカウンター内の母親が、黙って成美の方を指さす。
男2人が笑いながら振り返り、空気がそこで凍りついた。
座ったままで、成美は小さく頭を下げた。
まぁ、いいけどね。もうどうでも。
氷室さんがモテる状況には、もうとっくに慣れっこだし。その相手にとことん貶められるのもいつものことだし。
ついこの間も、紀里谷姉弟に何度も「ブス」と連呼されたっけ。その時に比べたら、――まぁ、まだ許せる方だ。
ええ、ええ、私は確かに東京からこの町まで彼を追いかけてきましたとも。仰せのとおり、筋金入りのストーカーですよ。
その時、ガラッと引き扉が開いてベルが鳴った。
「じゃあ、あれか。この資材を今買っておけばいいわけか」
「ええ、今のアジアの情勢をみると、木材が高騰するのは時間の問題ですからね。今、買えるだけ買っておいた方がいいでしょう」
氷室と――白髪交じりの短髪の男だ。カーキ色のつなぎを着ている。年は50過ぎくらい。日焼けしてがっしりした体格をしている。
氷室はサックスブルーのシャツに、テーパードのデニム。少し長く伸びた髪と黒縁メガネのせいか、まるで大学生のように見える。
「なんだお前ら、今頃飯か」
「社長こそ、休みの朝から仕事の話っすか」
プリン頭がからかうように声をかけた。
社長――
「パパ、コーヒーでいい?」
そう言ったのは、陽菜である。
「ああ、悪いな。2人分だ」
「ブラさん。お昼ごはん、何にしましょ? ブラさんの好きなもの作るからいってちょうだいな」
機嫌よくそう言ったのは、陽菜の母親だ。
これで、大まかな人間関係が把握できた――、と成美は思った。
つまり、この食堂をやっている母子は、社長の妻と娘なのだ。
社長の妻が氷室に恋している――なんて昼ドラめいたことはさすがにないだろうが、娘は確実に恋している。で、多分それは、社内では公然の秘密である。
その父である社長となにやら親密な話をしている氷室は、社長夫婦に相当気に入られているに違いない。
多分、いずれは娘の婿にと、内心切望されるほどに。
今――これ以上ないほど、はっきりと判ってしまった。
ここでの私は、よそ者の上に邪魔者なのだ。平穏を乱す、とても迷惑な来訪者なのだ。
氷室にとっても。彼を取り巻く人達にとっても。
が――
「日高さん」
自分の居場所のなさを改めて感じる成美に、氷室は全く屈託なく、声をかけてきた。
先に席についた社長に、一言断りをいれて、氷室は成美のテーブルに歩み寄ってくる。
「おはよう。昨夜はよく眠れましたか?」
「ええ、まぁ……」
「うちは今日臨時休業日なんですよ。丁度よかった。――朝食は、もう?」
「あ、はい、今」
「そう」
そうって――そんな優しい目で見つめられても。
成美は戸惑って視線を下げた。
てかなんだろう。この何事もなかったような、おそろしく普通のトークは。
この人、もしかして都合よく忘れてるんだろうか。
自分が昨夜、私に何を言ったのか。
どれだけ残酷なことを言ったのか。
食堂内の誰もが成美と氷室を注視している。成美は居心地悪く水の入ったグラスを持ち上げ、口につけた。
「あ、そうだ、下着を買っておきましたよ」
はい?
ぶっと成美は、飲みかけの水を吹いていた。
す、すみません。今なんつった? 聞き間違いでなければ、……下着?
「着替えを持っていなさそうだったから。サイズは前のままですよね」
「……………………」
しん、と静まるかえる社員食堂。成美を含めて誰もが凍りつく中、1人にこやかに氷室は続ける。
「仕事は、今日は休みですか」
「………………」
「仕事。まさか無断欠勤じゃないですよね」
唖然としていた成美は、ようやく我にかえってこくこくと頷く。
「起きて、……あの、すぐに電話しました」
課の代表電話にかけたのだが、出てきたのは新任の課長補佐、明松淳子だった。
本当は雪村に事情を話したかったのだが、まさか換わってくれともいえない。
それに――正直言えば、今、雪村にどういう態度で話していいかわからない。
「1日、有給を?」
「……あ、はい」
「じゃ、夕方まではこっちにいられますね」
成美は、眉を寄せたままで氷室を見上げた。
さっきから、なんなの、一体。
よく判らないけど、つまり夕方まではいてもいいってこと……?
そこに陽菜が、成美のコーヒーを運んでくる。
成美が思わず目を泳がせてしまうほど、その表情はきつく、強張っている。
「ありがとう」
何故か氷室が微笑んで礼を言い――その微笑みは絶対余計だと成美は思ったが――氷室自身は、まるで剣呑な空気に気づかないように、成美に再び向き直った。
「これを飲んだら部屋で待っていてください。話が済んだら、この辺りを案内しますから」
「……いいんですか」
「ええ。終電まで一緒にいましょう。駅まで、僕が送りますよ」
って――
いまや店内は、通夜の席のごとく静まり返っている。
「すみません。資材の調達のお話でしたね」
にこやかに社長の席に戻る氷室。その社長の顔だって、今はひどくぎこちなくなっている。
今度こそこの空気に絶えられなくなって、成美は急いでコーヒーを飲むと、逃げるように店外に出た。
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