15
 
 
「私は山陰の貧しい漁村の生まれでね……。稼ぎ頭だった父親が戦争で死んでからというもの、母は3人の子供を抱え、明日もままならない生活を送っておったんだそうだ。そうだ、というのも私はまだ幼くて、当時のことを殆ど記憶していないからだ。――末っ子だったし、上の姉とは十も年が離れていた。……甘やかされていたんだろう。田舎とは、とかく女が犠牲になり、男が重宝されるものだから」
 ほのぐらい照明が、老人に深く刻まれた皺に、いくつもの複雑な影を落としている。
 孫のマキと、氷室と成美、3人が枕元で見守る中、堺は続けた。
「その母と2人の姉が、爪に火を灯すようにして溜めた金で、私は高等教育を受け、東京の医大に進学した。その時の私には夢というより悲願に近い願いがあった。産婦人科医になって、生まれ故郷に凱旋する。――というのも、私の親戚筋にはやたらと子宮の癌でなくなるものが多かったからだ。祖母が亡くなった原因もそれだというし、上の姉も、私が進学する前年に同じ病気で亡くなっている。――病院には一切かからず、ある日激痛に耐えかねて倒れたのだ。わかるかね、天君。私はつまり、姉の命の犠牲の上に大学に行かせてもらったのだ」
「…………」
「私はがむしゃらに勉学にはげんだ。寝る間どころか食う間すら惜しんで、ただひたすらに勉強した。変人、堅物、それが当時の私につけられた名誉あるアダ名だよ。――当然の帰結として、1学年、2学年と私は常に首席だった。私が成績表をたずさえて故郷にかえると、母はいつも赤飯を炊いて祝ってくれたよ。私は母の痩せた肩をもんで、その夜は布団を並べて2人で寝た。――……私の人生で、一番幸福だった時の話だな」
 瞬いた堺の目が、微かに潤んだ。
「その母が、私が3回生の時に倒れた。末期の子宮癌だ。今でいうところのステージ3。転移もあった。……回復は、絶望的だった」
 子宮の癌……
 繰り返されるその不吉な言葉が、成美の胸に暗い影を落としていった。
 水南と、その母親を襲った病気とはなんだったのか。
 それを、遺伝ではないかと言ったのは雪村だ。出産後に発症した可能性が高いとも。
 堺は続けた。
「それでも、何としても、たとえ徒労に終わったとしても、私は母に現代で最高の治療を受けさせてやりたかった。むろん、医学生の私に金はない。それどころか学費として借りた多額の借金もある。私は医大を中退して働くことを決心した。姉を裏切るようではあったが、母の命には替えられない。――そんな時だ、研究室の先輩に声をかけられた。ある金持ちが終身の主治医を探していると」
「………………」
「聞けば、その条件は疑いを持ちたくなるほどによかった。主治医として勤務するのは、少なくとも大学を卒業後、医療機関でそれ相応の訓練を経てから――つまり今すぐ拘束されるというわけではない。しかも多額の報酬の他に、大学の学費も負担してくれるという。それどころか、面談の結果しだいでは母親の治療費もみてくれるという話だった。相手が私の身辺を調査していたという疑問など、差し挟む余地もなかったよ。私は一も二もなく、その金持ちの家に面談にいった。そう、それが私と、後藤家の出会いだったのだ」
 堺は言葉をきり、当時を邂逅するかのような長い息を吐いた。
「面談に現れたのは――天君は知らないだろうが、水南の祖父にあたる人で、後藤謙二郎。当時の後藤家の当主だった。非常に商才のある立派な人物で、後藤家に一財をもたらしたといっても過言ではない。あの男がもっと長生きしておれば……、そう、水南の人生もまた変わったものになっていただろう」
 小さく息をつぎ、老人は続けた。
「後藤謙二郎氏は、当時の日本人とすればかなりの長身で、目の黒々とした美男子だった。色素に欠陥でもあるのかおそろしいほど色白で、女性に生まれでもしていたら銀幕スターにでもなっていたのではないかと思うほどに見目麗しい人物だった。穏やかで篤実そうな性質にみえたが、瞳には、はっとするほど深い悲しみが宿っていたよ。聞けばその前年に、謙二郎氏は御令室をなくされたばかりだという。病名を聞いて、私は胸を打たれたようになった。母と同じ病だったのだ」
 苦痛に耐えるかのように、堺の眉がすがまった。
「そして謙二郎氏は私に問われた。この病は遺伝するのか、と」
「…………」
「今でこそ常識だ。けれど当時は、そうともそうでないとも言えるだけの証拠がなかった。ひとつの要因として、遺伝的要素も確かにあるだろうが、まだ医学的に立証されてはいませんと私は申し上げた。謙二郎氏は、納得されていないようだった。そして重ねて訊かれた。君は呪いというものを信じるかね――と」
「…………」
「それから謙二郎氏が私に語ってくれた話は、もし彼が信用おける人物でなければ到底受け入れられる内容ではなかったよ。君も承知の話ならよいが、――何代か前の後藤家には非常に猟奇的な当主がいたんだそうだ。名前は後藤伝八。今で言うサイコパス、のようなものなのかもしれないが」
「……知っています。狂犬領主と呼ばれていた人物ですね」
 氷室が言葉を継ぎ、老人は小さく頷いた。
「そう。……その人物は、犬を愛でるあまり人間を犬以下のものとして扱った。殺した使用人の肉を犬にくれてやっていたという逸話もある人物だ。後年、興味にかられた私は伝八という人物を調べてみたことがある。おそらくだが伝八は、人としてあるべき感情の一部が生まれつき欠落していたのだろう。――頭はいいし善悪の区別もつくが、痛みや後悔というものを感じる機能に、致命的な障害をもっていたのだ」
「…………」
「……後藤伝八も後藤謙二郎も、後藤家にとっては入婿だが、対照的な2人の人物は皮肉なことに同じ血を引いている。後藤家にとっては古くから縁のある三条家の血筋だ。実はそのような気質の持ち主は、おうおうにしてあの一族には頻出しているのだよ。――今の当主……、後藤雅晴氏もまた、そんな気質の持ち主だった」
「……………」
「余談が過ぎたようだ。……話を戻そう。その後藤伝八が溺愛していた犬達が、どういう因果か狂犬病を発症した。それは隔離施設である『終末の家』を生み、数え切れないほどの悲劇を生むことになるのだが、伝八にとって一番の悲劇は――彼が唯一愛した――愛してくれたといってもよいと思うが、彼をこの世で一番理解しようと努めた妻の永遠が、残酷にも妊娠後期に発症してしまったことだろう」
「………………」
「……おそらく、であるが、妊娠の初期から、永遠は病の兆候に気づいていたのではあるまいか。結局は助からない命であったにせよ、その残り時間を削る覚悟で胎児を守り、出産に挑んだのではあるまいか。狂犬病を発症した患者がそもそも出産に耐えられるものかどうか、私は知らん。また罹患した患者から生まれた嬰児にどのような影響がでるかどうかも、判らない。――が、呪われた血を引く子は確かに生まれた。そして、それが今も、脈々と後藤家直系の女子に受け継がれていることだけは間違いないのだ」
 
 
 
「悪魔の子――世間がそうささやく我が子に、伝八は水琴(すいきん)と名をつけた。知ってのとおり、狂犬病は別名、恐水病とも呼ばれている。患者が水を極端に恐れることからそう呼ばれているのだ。そこに伝八の、我が子に病をよせつけまいという強い意志がみてとれる。以降、後藤家の女子には――女子しか生まれていないのだが――代々水を付した名前がつけられるようになった。水南もまた然り、水南の母親だった水那江もまた然り」
 そうだったんだ……。
 淡々と語る堺の話を聞きながら、成美は水南の名前がもつ由来に、改めて深い感銘を覚えていた。
 ある意味忌まわしい過去を引きずった名前なのかもしれない。けれどそこには、祖先の強い祈りがこめられていたのだ。
「が、伝八の願いも虚しく、水琴は父親より先に死んでいる。――出産後の血の病とだけ記されているが、数えで23という若さだった。そして水琴が産んだ娘、水月(みつき)もまた出産後の血の病でなくなっている。24、母親とほぼ同じ年、同じ病――記録がないので推測でしかないが、おそらくは子宮にできた腫瘍が原因で亡くなったのだろう。――つまりそれが、伝八が起こした罪の因果応報。後藤家に代々伝わる呪いだと――少なくとも後藤謙二郎氏は、そう信じているようなのだ」
 数秒、息詰まるような沈黙があった。
 成美は背筋に冷たいものが滑り落ちるのを感じた。
 もう疑う余地はない。水南もその母親も、子宮癌が原因でなくなったのだ。――それは……もしかして……本当に呪い、だったのだろうか。
「……僕も、そのあたりのことは――調べてみたことがあります」
 口を開いたのは氷室だった。
「水南と結婚する時、後藤雅晴氏から念を押されました。水南は身体が弱く、二度の出産には絶対に耐えられない。できれば今すぐ堕胎させるべきだし、君の方からそう説得してくれないかと、……くどいほど言われたんです。結局、僕には彼女の意思を変えることはできませんでしたし、彼女は、妊娠5ヶ月目で僕の前から消えてしまったのですが」
 氷室が言葉を切り、何かの感情を堪えるうように唇を軽く噛む。
 堺は目を細め、数度、氷室を慰めるように頷く。
 氷室は続けた。
「彼女の母親が、妊娠中に子宮癌を発症したことは僕も知っていました。最後までそのことは口に出しませんでしたが、あるいは後藤氏もそのあたりを恐れているのかもしれないとは思いました。――僕は以前、後藤伝八のことも、狂犬病にまつわる逸話も、調べたことがあります。後藤家の女子に早世する者が多く、子宮がんの確率が高いこともその時知りました。けれど全員が同じ病を発症するわけじゃない。つまりそれは呪いなどではなく、遺伝的にその要素があるにすぎないんです」
「……冷静な君らしい分析だよ。天君」
 堺は、唇の端をわずかにほころばせた。
「が、残念なことにそうではないのだ。それが呪いかどうかまでは私は知らんよ。しかし、後藤家に生まれた女子は、――少なくとも後藤謙二郎氏が確認した限りでは、全員が子宮がんで死亡しているのだ。しかも100パーセントの確率で妊娠中に癌を発症しているのだよ」
「……………」
 氷室の眉が、驚きともつかぬ感情で歪むのが判った。
 彼の唇が、小さく「そんな……」と呟いた。
「けれどそれは――あくまで謙二郎氏が個人で調べたことでしょう」
 やがて、気をとり直したように、氷室は堺に向き直った。
「だいたいそんな珍しい症例が、今まで公表もされずに埋もれていたなどあり得ない。おかしいじゃありませんか」
「そりゃおかしいさ。もちろん、君の言うようにそんなデータは今の医学会には存在しないし、これからもすることはないだろう。――他に似たような症例が出ない限りね。なぜなら後藤家では、早世した女子の死因を故意に隠蔽しているからだ。君はさきほど全員が病気を発症したわけではないと言ったね。それは過去の当主たちが、死亡記録を捏造しているからなのだよ」
「…………」
「むろん、現代では死因を偽ることなど不可能だ。が、――医学会に発表されるという不名誉だけは金の力で防ぐことができるだろう。後藤家が終身のかかりつけ医を高額で雇い入れるのはそういった理由からなのだよ」
「――待ってください」
 呆然としていた氷室が、ようやく我にかえったように口を挟んだ。
「……待ってください」
 彼は語尾を震わせて同じ言葉を繰り返し、混乱をしずめようとするかのように、額に自身の手をあてた。
 彼が何に動揺しているのか、成美には手に取るようだった。
「……水南は、それを知っていたんですか」
 呻くように、氷室は訊いた。
「……水南は……出産後、数年してから病気になったんだと……、僕は、そう後藤氏から聞かされました」
「水南が雅晴にそう言ったんだろう。しかし実際には、出産前には発症していたはずだ。今までその前例に、一度として例外はなかったのだから」
「いつから、……いつから水南は、自分の病気のことを?」
「――知っていたというなら、水南はもう、最初から知っておったよ」
「………………」
 氷室の表情が撃たれたように動かなくなる。
「あの可哀相な子は、自分の運命をほぼ正確に理解していた。……その水南が、どうして死の危険をおかしてまで愛してもいない男の子を産む決意をしたのかまでは、私は知らん。水南もまた、最後まで語りはしなかった。……君が知らなかったとは、残酷なことだ。けれどそれもいたし方ない。水南は……同情で君を縛ることだけはしたくないと、ずっとそう言っていたからね」
 
 
 
 ――氷室さん……。
 自分の額に手をあてたまま、氷室は顔をあげようとしなかった。
 彼が今感じている苦しみや衝撃が、隣に立つ成美にも痛いほど伝わってくる。
 成美はふと目頭が熱くなるのを感じて顔をそむけた。
 水南さんは、自分の病のことを一言も告げずに氷室の前から姿を消したのだ。
 それはどんな気持からだったのだろう。そもそも彼女は、血のつながりのある氷室を男として愛していたのか、いなかったのか。
 けれどこの瞬間――氷室の心を水南が全て持ち去ったとしても、もう何も言えないと成美は思った。
(水南は……同情で君を縛ることだけはしたくないと、ずっとそう言っていたからね)
 それを愛情と言う以外に、なんといえばいいのか――
「……話を、後藤謙二郎氏と会ったばかりの頃に戻そう。謙二郎氏は、生まれたばかりの自分の娘が、母親と同じ悲劇に見舞われるかもしれないということを、病的におそれているようだった」
 重苦しい沈黙を破るように、堺が再び話はじめた。
「私は、謙二郎氏の娘が初潮を迎える年頃までには、後藤家に専属医師として住み込むことを約束した。また、それまでに、後藤家に伝わる病を研究することも約束した。産婦人科医としても、外科的手術ができる医師としても、実績を積むことを約束した。謙二郎氏もまた、私の母の治療には万全を尽くすと約束してくれたよ。……母はそれから一年ほどして亡くなったが、最高の治療を、とてもいい環境で受けさせて上げることが出来たと思う。……今でも謙二郎氏には、足を向けて眠れないほどに感謝しているよ」
 とはいえ彼は、それからほんの十数年後には鬼籍に入ってしまったのだがね。
 呟くようにそうつけくわえると、堺は軽く喉を鳴らした。
「それから十年、私は謙二郎氏との約束を守るべく、必死に勉強し、研究し、臨床医としても実績を積んだ。その過程でやむなく妻をもつことになったのだが――思えばそれが失敗だったのかもしれん。妻には筆舌を尽くせぬほどの苦労をかけた。当時の私は――いや、それから十数年間の私の人生は、ほぼ後藤家の人々に捧げられたも同然だったのだから」
 マキがそっと睫毛を伏せる。
 しばらく目をふせてから、堺は続けた。
「……ともあれ、私は謙二郎氏との約束どおり、当時勤務していた大学病院を辞職し、妻子を置いて単身後藤家に向かったのだ。謙二郎氏は私のために、かつての『終末の家』を医療施設として改築し、研究助手や看護師なども揃えてくれていた。当面私は『終末の家』に住み、毎日通いで後藤家に往診に赴く約束になっていた。――その日、後藤家に到着した私は、初めて水南の母親……後藤水那江と引き合わされた。彼女が10で、私が30の年だった……」
 堺の目が細くなる。細かく震える睫毛は、老衰のためだろうが、何かの感情をこらえているようにも見えた。
 
 
 
「水那江は、ほぼ父親譲りの容姿を持つ、それは美しい少女だった。心配性の父親に過保護に育てられたせいか、異常なまでに人見知りがひどく、私にもなかなか心を開こうとしなかった。読書と絵画が好きで、始終本とスケッチブックを持ち歩いていてね。……私は、水那江の信頼を得るために、彼女と同じ本を読み、絵なども見よう見まねで描き始めたよ。水那江には何度もモデルになってもらい、私自身も、水那江の絵のモデルになった。――そんな風にして、年の離れた私と水那江は、少しずつ信頼関係を築きあげていったのだ」
 懐かしむように目を細めて言葉を切り、堺は深いため息をついた。
「繰り返しになるが、水那江というのは、本当に人見知りがひどい娘だった。初対面の相手や一度敵だとみなした相手には決して心を開こうとしない。が、その半面、一度心を開いた相手には、全力で愛情をぶつけてくるような可愛らしいところがある。後年、その性格が災いしたのだがそれは後で話すとして、――彼女の不幸は、水那江をそんな風に育てた謙二郎氏が、若くして事故死してしまったことにあるだろう。当主を亡くした後藤家は、親戚筋にあたる三条家の管理下に入り、12歳の水那江には早速婚約者が定められた。それが、当時16歳だった三条雅晴――今の後藤雅晴だ」
 そこで言葉を切った堺の口に、マキがそっと水差しを近づける。堺は弱々しく首を横にふり、しかし言葉だけはしっかりとした口調で語りはじめた。
「水那江の次の不幸は、その雅晴を、初対面で敵とみなしてしまったことにあるのだろう。彼女の、いっそ病的なまでに頑な性質は、生涯雅晴を受け入れることがなかったといっていい。しかもさらなる不幸は、雅晴に一種の社会病質敵な側面が見受けられたことだ。自己中心的で傲慢、良心の呵責や罪悪感の欠如、共感能力の欠如……三条家の人間によくみられる、後藤伝八にも見られた気質だよ。普通であっても敬遠されるであろう三条雅晴といういびつな人物が、人より何倍も神経が過敏な水那江の許嫁になったのだ。これ以上の不幸があるだろうか」
 当時の感情を思い出すかのように、堺は険しく眉を寄せた。
「案の定、水那江は雅晴を嫌いぬいた。雅晴は20歳の年に入婿として後藤家に入ったが、未成年だった水那江は、結婚してもなお雅晴に肌を許さなかった。出産後に死ぬ確率が高いことは――水那江はむろん雅晴も知っていたから、雅晴もそれには文句はつけなかったし、私も時期を待つよう説得した。その代わり、雅晴はあてつけのように放蕩にふけったよ。ギャンブルとセックスに入れ込み、美しい容姿をしていれば男も女もみさかいなく手をつけた。謙二郎氏の遺した遺産はあっという間に激減し、一年後には私の報酬も半額になった。――それでも私が後藤家を去らなかったのは、可哀相な水那江の行く末が心配だったからだ」
 自身の感情を沈めるように堺は二度、深呼吸をした。
「やがて雅晴の周りには、彼の財産の分前に与ろうというこずるい輩しか寄り付かなくなった。連中は雅晴の財産を食い荒らし、いよいよ後藤家の財政は、三条家の援助なくてはなりたたないほどに逼迫してきた……。そんなハゲタカのような輩の中に、1人、今までとは明らかに毛色の違う若者がいたのだ……」
「…………」
 堺の目がゆっくりと氷室に向けられる。成美は何故かドキリとして、氷室の横顔を窺った。
 動かない彼の横顔は、無言で堺の言葉の続きを待っている。
「その若者は、……そう、まるで若き日の後藤謙二郎を思わせるほどに美しかった。黒々とした涼やかな目、色白の整った顔、長い手足。が、それほどの美形でありながら、雅晴は何故か、彼には手をつけかねていたようだった。驚いたことに、雅晴は彼にだけは肉欲ではなく―― 一種の憧憬、恋情を抱いていたようなのだ。私がみるところ、それは人間的にいびつだった雅晴の、唯一の、純粋な恋だったといってもいい。雅晴は、苦学生だった彼の学資や生活の面倒を全てみて、芸術的な教養さえ身につけさせようとしていた。あらゆる集まりに彼を連れ歩き、まるで自分の持ち物のように自慢した。――私はその時、はじめて雅晴を憐れに思ったよ。なぜならその若者は、ある意味雅晴以上の社会病質的側面を持っていたからだ。彼が金だけを目当てに雅晴に近づいたのも、心の底で雅晴を軽蔑し、見下しているのも明らかだったからだ……」
「…………」
「ある種の社会病質者は」
 そこで言葉を切った堺は、どこか悲しい目で、再び氷室を見上げた。
「――天君、こんな言い方をする私を許してほしい。私は精神医学の分野では素人だ。だからあくまで推測にすぎないことをここに申し添えておく。――ある種の社会病質者は、他人の心に入り込むのが実にうまい。その若者も人の心を操ることにかけては、舌を巻くほど長けていた。――しかし才に溺れるとはまさにこのことを言うのだろう。若者は雅晴だけでなく、恐ろしいことに水那江の心までもつかみとったのだ。若者を信じきった水那江は、その一途な愛情を全て若者にぶつけた。まさに命をかけて若者を愛した。果たせるかな、それが若者を、――考えうる限り最も悲惨な形で破滅させたのだ――」










 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。