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「ほ、本当に大丈夫なんですか」
「向こうが来いと言うんだから、大丈夫なんでしょう」
 失意の内にパーティ会場を後にしてから1時間後、成美と氷室は車に乗って都内郊外にある堺医師の自宅に向かっていた。
「でも……」
 成美は言いよどんで、ステアリングを握る氷室を見上げた。
「私、あんな剣幕で言い返してしまったのに」
 パーティ会場を出た後、成美は氷室に平謝りに謝った。
 きっと氷室にはなにか計算があったのだ。それを私が――勢い任せで台なしにしてしまった。
 なんとなくキーマンっぽかった堺マキを怒らせてしまった……。
「それがきいたのかもしれないですね」
「きいたって?」
 前を見たままの氷室の横顔には、微苦笑が浮かんでいた。
「真一氏がああいった剣幕で出てきた以上、言葉で説得しても無駄だということは判っていました。いずれにしても突破口は娘のマキさんしかいない。あの時は、もう日を改めて出直すしかないと思っていたんです」
 そうだったんだ――
 成美は少しだけ眉をひそめた。
「……最初から、マキさんと会うつもりで行ったんですよね?」
 もうシートのラックからは消えているが、朝目にした『月刊 ダンスファン』。あの表紙を飾っていたのは、記憶違いでなければ堺マキだった。
 氷室は、今朝の時点で、すでに堺マキに接近する方法を模索していた。
 氷室の目的は、最初から真一氏ではなくマキだったのだ――ー
「最初から、というと語弊がありますが」
 少し考えてから氷室は続けた。
「昔――結局一度も顔をあわせることはありませんでしたが、彼女とは何度かニアミスしたことがありましてね。真一氏の今日のスケジュールを調べてみたら、海外在住の娘と一緒にダンスパーティに参加することになっている。偶然とはいえ不思議な縁を感じたのは確かです」
「……向こうは、氷室さんのことをご存知だったんですか?」
「それは未知数でしたが、当時堺先生の一番近くにいた彼女なら、あるいは先生の本音をご存知かもしれないと思ったんです。――堺先生もまた、僕に会いたがっているのかもしれないとね。賭けのようなものでしたが」
 その賭けは、氷室の勝ちだったのだろうか。
 会場を出てすぐに氷室にかかってきた電話は、マキからのものだった。
 そうして2人は、慌ただしく着替えをすませ、氷室の車で指示された場所に向かっている。
「マキさんは、なんであんなことを言われたんでしょう」
「あんなこととは?」
「最後に私に……。百歩譲って正論だとしても、普通初対面の相手に、あんなきついことは言わないと思うんです」
 推測ですが。と前置きしてから氷室は続けた。
「彼女は、近年実母をご病気で亡くされている。堺真一氏は昨年再婚したばかりなんです。そして今日のパーティに、再婚した妻は出席していなかった」
「…………」
「マキさんは、父親の再婚相手にずっとわだかまりを持っていたのかもしれませんね。彼女が君に放った言葉は、むしろ父親に聞かせたかったものなのかもしれない。あの時の真一氏の表情といったら――少々気の毒になるほどでしたから」
 
 
 
「どうぞ、入って」
 閑静な住宅地の外れに、ひっそりとその家は建っていた。淡い街灯に照らされた屋根に、家の裏手に茂る雑木林が黒い影を落としている。
 待ち構えていたのはマキだった。髪はひとつに束ねてサイドに流し、ゴージャスなパーティドレスから、黒を基調としたエスニックなワンピースに着替えている。
「ありがとう。感謝します」
「いいの。でも父には内緒よ」
 2人の背後で、成美はおっかなびっくりといった感じで目礼した。
 マキはそんな成美を少しだけ見たが、すぐに肩をそびやかす。
「祖母がいるけど心配しないで。祖父の部屋は、奥よ」
 いかにも資産家の家らしく、質感のいい調度品が飾られた廊下を過ぎると、マキは手前の扉を開けた。
「おばあちゃん、お客様。さっきも言ったけど、お父さんには内緒ね」
 マキの背後に立つ成美の視界に、車椅子に座る白髪の女性が目に入った。
 上品そうに微笑んだその人は、ゆっくりとしわがれた唇を開く。
「マキちゃん……、お父さんを早く、楽にしてあげてね」
 どういう意味?
 この場合お父さんとは、マキの父親の真一ではなく、自分の夫のことを指していると思われるが……。
 けれど動揺しているのは成美1人で、扉を締めたマキもどこか神妙な目をしている。
「……おじいちゃん、去年の春あたりから、やたらと水南さんの話をするようになったの」
 ぽつり、と呟くように言ったのはマキだった。
「それも、まるで昨日会ったかのような話し方なの。お父様が気になって調べてみたそうなんだけど……、水南さん、もう何年も行方不明で、実の父親ですら居所が判らない状況だったんでしょう?」
「そう聞いています」
 え……?
 水南さんが、行方不明だった?
 成美は驚いて氷室を見上げたが、氷室の横顔はどこか陰鬱な影をまとったままだった。
「お亡くなりになったのが確か8月だったかしら。その時連絡があって、父も私も、はじめて彼女の消息が判ったくらいなの。いわんや寝たきりのおじいちゃんに判るはずがない。……今だって本当に水南さんが亡くなったことを認識しているかどうか」
 マキは気鬱なため息をついた。
「おじいちゃんの頭の中では、過去と現実の境みたいなものがなくなってるんだと思うわ。悪いけど、まともに話をするのは無理だと思う。父が断りの電話を入れたのは、決して過去の恨みだけではないのよ」
 氷室が微かに眉を寄せる。
「昨日、僕の電話にでていただいたのは」
「おばあちゃん。だけどおばあちゃんも、最近少し記憶が曖昧になるところがあって……、最初はおじいちゃんに話をあわせてるだけだと思ってたけど」
「昨日の受け答えを聞いた限りでは、そうは思えませんでしたが」
 氷室を見上げたマキは、少し気の毒そうな目になった。
「おばあちゃんの頭がまともなら、相手が分かった瞬間に即座に電話を叩ききっていたはずよ。父以上に後藤家に恨みを持っていたのは、おばあちゃんなんだから」
「……そうですね」
「いずれにしても会わせるだけよ……。会話は成り立たないから覚悟しておいて」
 そう言ったマキは、廊下のつきあたりの扉を開ける。
 暗い中、枕元の淡い電気だけがともされた部屋。
 なんともいえない臭いが鼻につく。なんだろう、病院とも違う、家庭の臭いともまた違う。不快というほどではないにしろ、あまり長くかいでいたくはないと思うような臭いだ。
「……おじいちゃん、マキよ」
 先に部屋に入ったマキの、囁くような声がした。
 部屋の光源のあたりに介護用のベッドがある。そこに人が横たわっていることに、ようやく成美は気がついた。
「起きてた? ごめんね。ちょっとだけお話できる? おじいちゃんにお客さん。――氷室さんって覚えてる? そう、水南さんの旦那さんよ」
 微かな、まるで人ではないような、うめき声が聞こえた。
 成美は、この部屋にたちこめるなんとも言えない臭いの正体がわかった気がした。
 これは――老いの臭いだ。
 やがて死を迎えようとしている人の臭いなのだ……。
 
 
 
「先生……おひさしぶりですね」
 その人の枕元に、氷室が膝をついて囁いた。
 マキはその傍らに立ち、成美は氷室の背後に立って、その様子をうかがった。
 骨と皮だけに痩せさばらえた顔を天井に向けていた人は、ぎこちなくその目で、氷室を捉えようとする。
「……天、君か」
 隣のマキが、驚いたように息を引くのが判る。
 こうやって人を認識し、言葉を発する事自体が、この老人にとってはもうあり得ないことなのだ――と成美は悟った。
 氷室を見上げたまま、しばらく呆けたように老人は口を半開きにして黙っていた。
 が、ゆるい瞬きを重ねるごとに、堺の白っぽい瞳孔に感情の光が重ねられていく。
「おそ、かった……」
 掠れた、痛々しい声がした。
「随分と……遅かったなァ……、天君」
「申し訳ありません」
 氷室が境の手をとったままで頭を下げる。
「ずっと……君を待っていた……」
「僕を」
 驚きを抑えた口調で氷室が呟く。
 こくり、と老人は頷いた。
「もう、会えないだろうと、思っておった。私は……そう長くは生きられんからな」
「どうして僕を待っていたのですか」
「どうして……? 水南が、君が来ると言ったからじゃないか」
 息が詰まるような沈黙が室内に満ちた。
「……妄想よ」
 マキが小さく囁いた。
「こんな風におじいちゃんは、いもしない水南さんの話ばかりするのよ」
 その中で、堺1人が無邪気に微笑する。
「水南は、……雪が降る頃には、君が来るだろうといっておったな」
「…………」
「……もう雪の季節は、とうに終わった。これ以上はさすがに待てんと、たまに夢で、水南に文句をいっておったところだよ」
 苦しげに堺は笑い、それが苦痛だったのか咳き込んだ。
 水差しの水をガーゼに含ませたマキが、膝をついて老人の口を潤す。
「……おじいちゃん、氷室さんを待ってたの?」
「ン?」
「……どうしてマキに言ってくれなかったの? おじいちゃんが会いたい人なら、お父さんに怒られたってマキが連れてきてあげたのに」
「……水南が、来るといったからなァ」
 呟くように言った堺は、口元に淡い笑みを滲ませた。
「おかしなもので、水南の予言はたいていが、あたる。……水南が来るというのなら天君は必ず来るだろうし、逆に、私の方から呼ぶべきではないんだ」
 黙りこむ氷室の横顔が、懸命に動揺を抑えているのが成美には判った。
「……水南は、ここへ来たんですか」
「……ああ、来た」
「いつ」
「……はて、いつのことだったか。春の、暖かな午後のことだった。もう、随分と前になる。今の君と同じように、私の枕元に座っていた」
 マキが眉をひそめて氷室を見る。
 それが妄想か現実か、聞いている成美にはもう判らない。
「水南は……、なにを」
「さて……なんだったか。今思えば、まるで夢のような一時で、気づいた時には、水南はもう消えていたよ」
 ――夢……?
 それは、この人が見た夢のことだろうか。
 成美は氷室の横顔を伺いみたが、氷室の表情は硬いままだった。
「僕が来ると、水南が、そういったんですね」
「ああ、確かに」
「どうしてですか。――僕が来るその理由を、水南はなんと言っていたのですか」
 仄白い天井を見上げ、堺は数度瞬きをした。
「ならば聞くが、天君は、どうして、ここに来たのかね?」
「…………」
「私に何か、聞きたいことがあるからではないのかね」
 声は細く弱々しかったが、口調は最初より随分とはっきりしたものになっている。
 なにより氷室を見上げる堺の目には、確かな知性の色が宿っている。
 しばらく眉根を寄せていた氷室が、ハンカチに包んでいた鍵を、そっと取り出して堺に手渡した。
「見覚えがありませんか。水南の遺品で、かつて彼女は、それを母親の形見だと言っていました」
「……………」
 堺はいぶかしげにそれを手にとり、おぼつかない手つきで自分の目の前に持って行った。
 マキがそっと手を添える。
 どこか夢の中を漂うように優しかった堺の目に、その途端、悲しみのような暗い影が揺れた。それは死のように老人を包み込み、彼のなにもかもを、一時闇に飲み込んでしまったようにも見えた。
「そうだな……」
 やがてかぼそい溜息が、老人の唇から漏れた。
「青銅に魚の文様が刻まれた鍵……。確かにこれは、水那江の形見で、私が水南に手渡したものに違いないよ」
「先生が、水南に」
 微かな驚きを見せて呟いた氷室は、すぐに眉をよせて口元を引き締めた。
「教えてください。それは一体、何を開けるための鍵なのですか」
 堺は弱々しく、首を横に振った。
「残念ながら、その鍵で開くものが何なのかは、私には判らない。しかしそこに、……その中に、かつて何があったのかは知っている」
「………………」
「しかし、今は、もうないはずだ。水南が……きっと、処分しているはずだから」
 しばらく黙った氷室は、包んだハンカチごと鍵を強く握りこんでから、口を開いた。
「……終末の家の、地下に行きました」
 数度瞬きし、老人は無言で氷室を見上げる。
「先生も当然ご存知でいらしたんですよね? 壁に和製のマリア像が描かれた、あの部屋です」
「………………」
「そこで僕は、僕の父の肖像画と蒔絵の文箱を見つけました。中には、古い手紙が一通入っていた。手紙の差出人は、僕の父です」
「………………」
「水南が持ちだしたものとは、その文箱のことですか」
「………………」
 老人の乾いた唇から、苦痛に耐えるような溜息が漏れた。
「そうじゃなァ……」
 再度漏れたため息は、諦めを滲ませている。
「さすがは天君。概ね、推測のとおりだよ。君がここへ来るしかなかった理由が、ようやく私にも得心できた。……だがなぁ」
 何度も瞬くその目に、悲しみの影が濃くなっていくのが成美にも判った。
「……鍵の話をする前に、私が何故、生涯を賭けて後藤家の医師を務めたのか、……理由を聞いてはもらえんかね」
「理由、ですか」
「なぜなら私の過去を語らなければ、私のとった行動の説明ができないからだよ。ひどく幸福なことに、私という人間を知る者は、もはやこの世に私しかいない。……けれど君にだけは、理解してもらわねばならないのだろう」
「………………」
「そのために、水南はここに、君をよこすよう仕向けたのではないかね」
「………………」
 氷室は黙って、老人の手を緩く握る。
 安堵したように頷き、堺は天井を仰いで語り始めた。










 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。