12
 
 
「まぁ、とてもお似合いですよ!」
 試着室。全身鏡に映る自分を見て、成美は目をぱちばちさせた。
 胸元の大きく開いた薔薇色のロングドレス。肩にふんわりとかかった襟にはシフォン生地のパフスリーブがついている。
 言葉が出てこない成美の首に緋色の石がついたネックレスをかけると、背後に立つ女性店員は「いかがでしょう」と微笑みかけた。 
「……なんか、分不相応、みたいな」
「そんなことございませんよ」
「似合ってないって……言われそうな」
「何を仰っておられるんですか。これだけ可愛らしく仕上がったんですもの。ご主人様も、きっとお喜びになりますよ」
「本当ですか」
 と、喜んでいる場合じゃなくて。
 我に返った成美は振り返り、ざっと試着室のカーテンを開けた。
「氷室さん、あのですね」
 店内のソファに腰掛けていた氷室は、コーヒーカップを置いて顔をあげる。
 もうすっかり正装に着替えた氷室は、軽く瞬きをして成美を見た。
 漆黒の上下に臙脂のタイをあしらったタキシード。
 髪も整えて、ほぼいつも通りの――初めて会った頃の氷室に戻っている。
 成美は、一瞬呆けたように彼に見惚れ、けれどすぐに我にかえった。
「聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「私たち、今からどこに行くんですっけ」
「……堺医師のところでは?」
「ですよね?」
 背後の店員たちが聞き耳をたてているのを感じ、成美は急いで氷室の傍に歩み寄った。
 昼過ぎに寄った同じデパート内の上階にある、高級ブティック。
 泥だらけの氷室が、泥だらけの成美を連れてこんな店をチョイスした事自体顎が落ちそうな驚きだったが、彼が強制的に見繕った服を店員に見せられた時は、実際顎が外れたかと思った。
「そりゃ着替えは必要ですけど、なんだってこんな非日常なパーティ服なんですか。私たち、ダンスパーティに行くわけじゃないんですよね」
「……………ほう」
 ほう?
 成美が眉を寄せると、氷室は少しだけ唇の端をあげた。
「今のは君の読みに感嘆したんですよ。そう、僕らはまさしく、ダンスパーティに参加――もとい潜入するんです」
「……………………」
 はい?
「あえて説明しませんでしたが、簡潔に言えば、堺医師との面談は今朝、一方的にキャンセルされました。――彼の息子さんに」
 え……?
「どういうことですか?」
「まぁ……堺先生の体調が思わしくないことと……、他にも色々、でしょうね」
 首をかしげ、氷室は再びコーヒーカップをとりあげた。
「……後藤家と、……何か諍いがあるようなことを、向井さんが仰っておられましたけど」
「諍いというより――そうですね。ご本人はともかく、ご家族がね」
「ご家族が……?」
 成美の問に、氷室は曖昧に頷いた。
「あるいは本人と話せばなんとかなるかもしれないと思って、奥様に取次を頼んだのですが、取り次ぐまでもなく、快諾していただきましてね。少し驚きはしたんですが、案の定、今朝になって断りの電話がかかってきました。後から事情をきいた息子さんがやはり駄目だと言いだしたんでしょう。……日を改めることも考えましたが」
 少し考えるような目になって、氷室はカップをソーサに置いた。
「君が仕事を休めるのも今日明日が限界でしょうし、なにより、堺医師の時間がもうあまり残されていないような気がして」
「……………」
「直接アポをとっても拒絶されるだけでしょうから、別のアプローチを試みてみようかと思ったんです。調べてみると、堺真一氏――堺医師のご子息の名前ですが、真一氏は都内のダンスクラブの主催者で、今日の夕方から会員限定のダンスパーティを催されているんですよ」
 ダンスパーティ?
 極端な例としてあげたことが本当だったと知り、成美はしばらくぽかんとしていた。
「日本で」
「日本で」
「…………そんな世界があるんですか」
「案外沢山ありますよ。知らないですか? 社交ダンスはシニア世代に根強い人気があるんです」
「シャル・ウイ・ダンス、的な……」
 昔見た映画のタイトルだが、氷室は少し眉を寄せて首をかしげた。
「それは競技ダンスでしょう。少なくとも真一氏が主催しているのは、パーティダンスの同好会みたいなもので、競技のような激しい動きや難しいステップはないんです。――大丈夫ですよ」
「……………」
 大丈夫って何が?
 もしかして私たち、そこにまじってダンスでも踊るつもり?
 そういえば、氷室の車にあった『月刊 ダンスファン』。あれは――なにも本人がダンスに興味があったわけではなかったのだ。
「ひ、氷室さん。それ以前に私、シニアですらないんですけど!」
「もちろん多少は若い人もいますよ」
「だって会員限定って」
「そのあたりは僕にまかせて」
「……………………」
 駄目だ。ある意味、完全に昔の氷室さんに戻ってる。
 目的のためなら、常識とか道徳のハードルをあっさり超えてしまう氷室さんに。
「おっと、こうしてはいられない。イベントの開始は5時なので、そろそろここをでないと」
 立ち上がろうとした氷室の腕を、成美は急いで掴んでいた。
 パーティはいい。まぁ――百万歩譲ってだけど。
「お、お勘定は、今度こそ、私が、払います」
「…………声がひっくり返ってますが」
 氷室は呆れたように眉をあげて、成美の手をやんわりと振りほどいた。
「君の貯金をこれ以上崩すのも忍びない。靴まで揃えたら、夏のボーナスでも追いつかないと思いますよ」
「だから、これはお返しして――もうちょっと、分相応のものを買いますから」
「君に分相応なものは、今から僕らが潜入する場所には分不相応なんですよ」
「――でも」
 ん? なにか今、なにげにひどいことを言われた気がするぞ。
 それでも成美が座ったままでいると、氷室はため息をついて、遠巻きに見ている店員たちに視線を向けた。
「少し妻と話したいのですが」
「すぐに奥様のコーヒーをお持ちしますね」
 即座に返される許可以上のスペシャルな返事。
 これは絶対、前の店から連絡がいっているに違いない。
「……てゆっか、どうして私、いつもあなたの奥さんなんですか」
 唇を尖らせて言うと、氷室は少し片眉をあげた。
「僕と君の歳の差は10もあり、見た目年齢はそれ以上に開いている」
「そ、それ、氷室さんが老けてるって意味ですよね?」
 間違っても私が子供っぽいとかじゃなく。
 氷室はなにか言いたげだったが、その反論を飲み込むように軽く喉を鳴らした。
「恋人というにはやや不自然で、兄妹にももちろん見えない」
「…………顔の造りが違いすぎって意味じゃないですよね」
「? いつになくひがみっぽいですね。まぁ、いいです。そのあたりはご想像にお任せするとして。僕がいいたいのは、大抵の人は僕程度の年齢の男が、君のような子ど――若い女性をつれていると、まず不倫関係を疑うということですよ」
「……、それは」
 それは確かに、ちょっと気になった時期はあったけど。
「君と本当に恋人だった頃は、まぁ、その誤解も聞き流せるとして、今は――少し抵抗があるんです。僕にも正直、君とどう接していいか判らない部分がありますし」
「…………」
 それは成美も思っていたことだった。もう氷室は、上司でもなければ恋人でもなく、友人というには微妙で、もちろんただの知り合いではない。
「僕は……君が思うほど……、実際どう思っているかは判りませんが――女性の扱いに慣れているわけじゃない」
 観念したように氷室は小さく息を吐いた。
 成美は胸が小さく鳴るのを感じた。
 そんなセリフ、確か以前も言われたことがあった。
 最初の頃だ。多分つきあう直前くらいの頃。氷室の気持がわからなくて、彼を試すような言動を口にしては傷ついて、無駄にとんがっていた恥ずかしい時期。
 成美の態度に、とうとうお手上げになった氷室が、今と同じようなセリフを言ってくれたのだ。
 今思えば子供すぎた自分が馬鹿みたいで、それでもすごく幸福だった時――
「君と僕の曖昧な関係も、何かわかりやすいカテゴリーにあてはめてしまえば、人前での対応に迷ったり、不自然な会話で余計な好奇心を持たれる心配もないと思ったんです。ちなみにこれから行くパーティにも、夫婦という形で参加したいと思っているのですが」
「ちょっ……、ちょ、待ってください」
 動揺しながらも、成美は氷室を遮った。
 案外融通のきかない氷室の性格を知っている成美には、彼が曖昧さ回避のために合理的な方法を選択したことはよくわかる。判るのだが――
「夫婦は、嫌です」
「………………」
「抵抗……あります」
 あと一日。
 彼といられる時間はあとたった一日なのだ。
 それが今日なのだとしたら、あとほんの数時間。
 夫婦とか、もういまとなっては遠い夢のような言葉に、いちいちときめいたり、期待したりしたくない。
 少し黙った氷室は、コーヒーカップに唇をつけて、「なるほど」と呟いた。
「まぁ、君の気持を斟酌しない僕も悪かった。では――どうすればいいでしょう」
「……友達……はちょっと不自然なので」
「そうですね」
「……………」
「……………」 
 なんだろう。なんだかちょっと気まずい空気。
 氷室さん、まさかと思うけど、怒ってる……?
 成美がおそるおそる顔をあげたところで、氷室が両手をわずかに広げた。
「――わかりました。じゃあこうしましょう。僕らは昔の知り合いだったが、ひょんなことから再会し、僕が君に興味を持ってアプローチしはじめた。だが君は僕の過去に不安を覚えて迷っている」
「……ん?」
 なにその設定。てか、そこまで細かく決めておく必要なんてあるの?
 しかもそれはそれで、なんかやだ。どうして氷室さんが私にアプローチする設定がいるんだろう。
「君は後藤家のプライベートな空間にこれから立ち入るわけだから、少なくとも僕と友人以上のつながりがないと、君を同席させる説明がつかない。納得していただけますか」
「……あ、はい。そういうことなら」
 そういう意味だったのか。
 だったら氷室の決めた細かい設定も判らないではないけれど。やっぱり、あまり嬉しくはない。
「じゃあ」
 話は終わりとばかりに、氷室がそっけなく席を立とうとしたので、成美は慌てて呼び止めた。
「まだお勘定の件が残ってます」
「――それほど、僕の好意を受けるのが嫌ですか」
 はい?
 氷室が放つ、久々の氷河期オーラに、成美は狼狽えて視線を下げた。
 な、なんだろう、私、そんなに悪いことを言っただろうか?
「そ、そういう意味じゃ……気を悪くされたならごめんなさい。ただ、これ以上氷室さんに負担をかけるのは」
「だったら言いますが、この程度の買い物は、僕にとって特段の出費ではないんです。そして僕は自分の手元にある金を惜しいとも思わない。用途がないからおいてあるだけで」
「……氷室さんって、国家公務員ですよね」
 少し眉をひそめながら、以前から不思議に思っていたことを成美は訊いた。
「もちろん私なんかとは比べ物にならないとしても、お給料……、さほどいいわけじゃないと思うんですけど」
 氷室がため息をつくのが判る。
 そこに、ようやく店員が成美のコーヒーを運んできて、会話はしばらく中止された。
「……まだ学生の頃ですが、僕はひどく金に執着した時期がありましてね」
 氷室が話し始めたので、成美はそっと彼の表情を窺った。
 横を向いたままの表情は、どこか疲れたようでもあった。
「――まるで熱病にかかった人ように、資産を増やすことに夢中になっていたんです。株取引、先物取引、知識と分析力とインターネットさえあれば、学生の僕でも財を得ることは可能でした。もちろんその過程で、法を犯したことも人を傷つけたこともある」
「………………」
「自分に足りないものを補えば、手に入らなかったものが戻ってくるとでも思っていたのかもしれませんね。しばらくして、そんな目的のないマネーゲームにも飽きました。でもその時には、随分な資産ができていたんです。――実際、使い道に困るほどに」
 氷室はわずかに笑み、その笑みをすぐに消した。
「別れる時に香澄に分与を申し出たのですが、強い剣幕で断られました。彼女はひどくプライドの高い人で、他人の施しをなにより嫌うんです。……これは、言い訳になりますが」
 言い訳。
 とくん、と成美の心臓が音をたてる。
「僕と彼女は、金銭面では対等だった。まるで影同士がよりそうように一緒にはいましたが、僕は彼女の金銭援助が目的で傍にいたわけじゃない」
「………………」
「すみません。余談です。そんなわけだから、僕の資産消費に君が協力してくれるとありがたい。――いや」
 言葉を切り、氷室はゆっくりと成美に向きなおった。
「……一年も、君と恋人でいられたお礼に、最後に何か贈らせてほしいと言ったら迷惑ですか」
「………………」
 彼の強い視線を感じ、はっとして成美は目を伏せていた。
「嫌なら捨ててもらっても構いません」
 違う。
 違う、そんなんじゃない。
「それでも迷惑なら」
「いや、そんなんじゃないし。そんな――言うほど重く考えてないですから、ほんとに」
 氷室の言葉を遮るように、成美は明るく言って立ち上がった。
「そういうことなら、もう全然。なんだ、氷室さんの懐心配して損しちゃった。――いただきます。服でも靴でも喜んで」
「それはよかった」
 氷室もまた、ほっとしたように立ち上がる。
「君は座って。――まだコーヒーが残っている」
「あ、はい」
「勘定を済ませてきますよ」
 笑顔で頷き、成美は手つかずのコーヒーカップを持ち上げた。
 琥珀色の液体が少しだけぼやけてみえた。
 あと少しで、泣きだしてしまいそうだった。
 やっぱり氷室さんは、女心ってものが、これっぽっちも判ってない。
 一年もつきあったんですよ。――正確にはもうちょっと短いけど。
 そんなに簡単に、忘れられると思ってるんですか。
 気持を、テレビのチャンネルみたいに切り替えられるとでも思ってるんですか。
 もう先を見ているあなたと違って、私はまだ、自分がどこに行くかさえ決めていないんです――
 
 
 
「では、カードの方、ご一括で処理しておきますね」
「お願いします」
 にこやかに微笑んだ女性店員は、そのままの視線を氷室の背後にちらりと向けた。
「奥様の着替え、どうなさいます?」
「……ああ、そうですね」
 氷室は少し黙って、唇に指をあてた。
 まさかあんなドレスで一日過ごさせるわけにはいかないから、当然、普段用の服も一緒に購入した。それは店員に一式見繕ってもらって、もう梱包もすませてある。その話を彼女にすれば、また一悶着あるだろうが……
「ここから車で移動するので、あのままでいいですよ」
「まぁ、じゃあ、一階に降りるまで注目の的ですね」
 氷室は無言で微笑んだ。まぁ、嫌がられるだろうがしょうがない。着替える場所も、とっさには思いつかないし。
「あ、だったら奥様の髪を、すこしお直しましょうか」
「そうですね」
 言いかけた氷室は、片手をあげて店員を制した。
「すみません。実は妻ではないんです。そう呼ばれるのを、本人が嫌がっているようなので」
「まぁ……」
 店員は、なにか悪いことでも聞いてしまったような顔になる。
「僕は独身なので、秘密の関係でもないですが。――簡単に言うと、彼女にその気がないんです。申し訳ないのですが、奥様という呼び方はしないでおいてもらえますか」
「それは……わかりましたけれど」
 ちょっと物言いたげな目色になって、店員はカード決済を先に済ませた。
「その気がないなんてことは、多分ないと思いますよ」
「ん?」
「だって、さっきも更衣室で、ドレス姿をお客様がどう思うかばかり気にされていましたから」
「…………」
「ご主人様も、きっとお喜びになりますよと申し上げたら、頬を真っ赤にしてしまって……。とても可愛らしかったですよ」
 氷室は微笑して、店員が差し出してくれたカードを受け取った。
 その相手は多分、僕ではないと思いますよ。
 彼女には、もう大切な人がいるんです。僕より何倍も、彼女に相応しい人が。
 ――とはいえ、あそこまで頑なにならなくてもいいんじゃないか? 
「お客様?」
 それほど、僕の好意を受けることがうしろめたいなら、どうしてここまでついてきた。
 それだけじゃない。部屋に泊まれと言ってみたり、助手席で熟睡したり、不用意に触れてきたり……一体どこまで天然で無防備なんだ。
 君はあっさり気持を切り替えたのかもしれないが、僕はそんなに――器用じゃない。
 まぁ、君を心配するのも、腹立たしく思うのも、もう僕の役目じゃないが……
「お、お客様?」
 氷室はようやく、店員の表情がひどくこわばっていることに気がついた。
「なにか」
「あ、も、……申し訳ございません。なにかこう……不意にお客様から殺気めいた恐ろしいオーラが」
「はは、面白いジョークですね」
 少し投げやりな気分で、氷室は無駄な会話に興じることにした。
「じゃあ、期待してもいいのかな」
「え?」
「彼女……僕の連れが、僕に少しでも気持ちがあると」
「ええ、それはもう。お客様でしたら、きっと上手くいくと思いますわ」
「彼女に、他に恋人がいても?」
「それは……、だったら奪ってしまえばいいじゃないですか」
 さすがに返答に窮したのか、店員の笑顔が再びぎこちなくなる。
 氷室は少しおかしくなって、視線を店員から離して、別の方に向けた。
「生憎、それはできないんです」
「……どうして、ですか?」
「彼女は、もう僕にとって、ただ愛おしいだけの人ではないので」
 日高さん。
 結局のところ、僕が君の前から消えた理由は、ひとつしかない。
 君が、誰より大切だから。
 僕では、どこまでいっても君を幸福にはできないと解ったから。
「彼女にだけは、誰よりも幸せになって欲しいんですよ」














 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。