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「まさかと思うけど、俺のことを忘れてるんじゃないよな」
雨をつく三条の声で、成美ははっと我にかえった。
「おいてけぼりかよ……。この状況でふざけんなよ。てか、いい加減寒いんだよ」
口に入った雨を吐き出した三条が、リードを引きながらこっちに歩み寄ってくる。
成美を背後に押しやるようにして前に出た氷室が、何かを言いかけた時だった。
「うおっ」
その三条がいきなり沈んだ。足を滑らせたのか、仰向けにひっくり返り、泳いだ手からリードが外れる。
同時に解き放たれた2頭の犬が、雨飛沫を散らしながら、まるで放たれた矢のように、成美の前に立つ氷室に飛びかかった。
「氷室さんっ!」
成美は咄嗟に、その氷室の前に身体を滑りこませていた。
感染したら、絶対に助からない狂犬病。氷室さんをそんな目にあわせるわけにはいかない。絶対に。
………え、じゃあ私はどうなるの?
一瞬の興奮状態の直後、そう思った時には、成美の身体は2頭の巨大犬に覆いかぶさられていた。
「―――っっっ」
両腕で顔をブロックすると同時に、犬たちの重みに耐え切れず、成美は背後に倒れこんだ。
思いの外柔らかいものに、頭があたって跳ね返る。
「っや……、ぶほっ」
いきなり視界をふさがれ、顔いっぱいに何か異様なものが押し付けられた。ざらざらして濡れたものが、何度も頰や鼻孔の上を往復する。
え、え? なにこれ、なにこれ。
気持悪いし、い、息、息がぁ…………っ……。
「オスカル! アンドレ!」
はい?
これはもしかして死に際の幻聴?
今ベルサイユに薔薇が散ったような……
と、思った途端に腕の下に手を差し入れられ、一気に身体を引き上げられる。いきなり呼吸が楽になり、成美はぶはっと息を吐いた。
「――日高さん」
背後から聞こえる氷室の声に、驚いて顔を振り向かせる。
「け、……、怪我、は」
その声が掠れて、もつれている。顔色は、こっちが心配になるほど青ざめている。
「あ、大丈夫……――って」
成美は嫌な予感を覚えながら、手のひらで自分の頰をなでた。
なにこれ。
顔が……めっちゃ、ぬるぬるしてるんですけど。
もしかして、痛覚はまるでないけど、――顔を目茶苦茶、噛まれてる?
「ど、どど、どうなってるんですか」
激しく動揺しながら、成美は訊いた。
「ど、どうとは?」
想像しただけで恐ろしくなり、成美はぎゅっと目をつむった。
「ち、ちち、血、血がでてるんですか」
「え、ど、ど、どうかな」
「み、見て、見て、見てください、か、顔に怪我……どうなってます?」
「そんな風には――大丈夫だと……」
氷室の指がぎこちなく頰に触れる。
その指に微かな震えを感じ、成美は初めて驚きを覚えて目をあけた。
もしかして。
氷室さん、めっちゃ、動揺してないですか?
なんか、こんなの初めてなんですけど。
氷室さんが……かっこよさの欠片もないくらい、動揺してる……。
「なに2人していつまでも青ざめてんだよ。たかだか犬に顔なめられたくらいで」
「―――…………」
気づけば三条が、呆れた目をして傍らに立っている。その足元にはくんくんと愛らしく鼻を鳴らす2頭の巨犬。
「まさか、狂犬病とか信じたわけじゃないんだろ? ありえねえよなぁ。常識で考えてもありえねぇ。よりによって天がそんな馬鹿げた嘘に騙されるなんて、初めてだな」
ふっと氷室の目に白い殺意が走った気がしたので、成美は慌ててその腕に手を添えていた。
「騙されてはいませんよ。仮に病気でなくとも、こんな獰猛な犬に噛まれたら大変なことになるでしょう」
「獰猛とかありえねぇし。何百万もする血統書つきだぞ。ただ雷が怖くて吠えてただけ。まぁ、リードが離れた時はさすがに俺も焦ったけどさ」
「病院で診てもらうつもりですが、彼女に1ミリでも傷がついていたら、絶対に許さない。それ相応の報復はさせてもらいます」
「ひ、氷室さん、本当にもう大丈夫ですから!」
静かにエスカレートする会話を止めると、成美はあらためて三条に視線を向けた。
彼はもう、成美と氷室に関心をなくしたように、しゃがみこんで犬の鼻を撫でている。
「……もしかして、犬の名前、奥様がつけてらっしゃるんですか」
成美がその傍に寄って訊くと、三条は照れ隠しのように肩をすくめた。
「こっちが別の名前をつけても、女房が勝手に変えちまうんだ。日中、面倒みてくれるのは女房だからな。――不本意だが、そっちで呼ばなきゃ反応しないんだから仕方ない」
「この前車に乗っていたドーベルマンは……」
「フェルゼン。……なんだよ、まさかと思うけど、その名前もベルサイユのなんたらの登場人物なのか?」
思いっきり不安な顔をする三条が気の毒になって、成美は何も言わずに背を向けた。
当然、アントワネットとかもいるんだろうな。ロザリーとか、ポリニャック伯爵夫人とかもいたりして。
しかし、あの緊迫した場面で、オスカルとアンドレって――それまでがそれまでだけに、あまりにも人を馬鹿にしていない?
その時、すぐ背後で、氷室が大きく息を吐いた。
「全く君は――」
いきなり背中から抱きしめられ、成美はびっくりして声もでない。
「どこまで馬鹿なんだ。犬程度なら、僕でも追い払えたのに」
「す、すみません」
「…………心臓が、……停まったかと思った」
「………………」
成美は少し戸惑いながら、何も言わなくなった氷室の手に、そっと自分の手を重ねた。
冷たく凍えた指から、微かな鼓動の音が伝わってくる。
ああ、生きている。
私と氷室さんは生きている――その当たり前の感覚が、すごい奇跡のように思えるのは何故だろう。
「ちょっとちょっと、今度は一体なんの騒ぎなのよ」
遠くから、聞き覚えのある女の声がした。安藤さんだ――ほんの数日前、ここで会った別荘の管理人。
雨はいつの間にかあがっていた。
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