「……馬鹿馬鹿しい」
 凍りつくような沈黙を、最初に破ったのは氷室だった。
「そんなことはあり得ない。まず検疫を通るはずがないし、――そもそも発症した犬を制御できるはずがない」
「どうかな?」
 リードを激しく引かれながら、それでも動じずに三条は冷笑した。
「忘れたのかよ。俺は『狂犬領主』、あの後藤伝八の血を引いてるんだぜ? 子供の頃からやたらと犬に好かれたのも、きっと伝八爺さんの影響なんだろうな。――その伝八が狂犬病患者を隔離するために作った家の前で、こうしてお前と対峙している。すげぇ運命感じねぇか?」
「……僕には、まるで感じられない」
 冷淡に答えた氷室が、片手で成美を背後に押しやろうとする。
「おっと動くな。マジだぜ、俺は!」
 成美はびくっと足をすくませていた。
「女が逃げれば、こいつが氷室に飛びかかる。逆もまたしかりだ。知ってるだろう? 狂犬病ってのは一度噛まれたらおしまいなんだ。現代の医療では助けられない」
「すぐに治療を受ければ問題ない」
「受けられれば、な」
「………………」
「だから言っただろう。この絶好の機会を、俺はずーっと待ってたんだって。予防接種を受けている俺は多少噛まれても問題ないが、お前ら2人は――どうあっても助からない」
 はじめて氷室の横顔に、わずかな迷いが走るのが判った。
 三条の言うことは明らかに常軌を逸している。が、彼の言うことが嘘かどうかを確かめる術は、2人にはない。
「……何が望みだ」
「だから言った、真実だ」
「僕には判らない。まだ、何も掴んでいない」
「じゃあ、今から俺がする質問に、全て真実だけ答えろ。嘘とみなせば、俺は本気でリードを離す」
「……わかった」
 信じられないことに、氷室が劣勢を認めている。成美は不安で心臓が強く高鳴るのを感じた。
「香澄が水南を、ヤクザに襲わせたのは、何故だ」
「…………」
 氷室が黙ったままでいると、三条は苛立ったように眉をあげた。
「心外みたいだが香澄自身が俺にそう白状したんだ。だからそこは事実ってことで話を進める。――答えろ」
 諦めたように、氷室はわずかに唇を噛んだ。
「……僕の理解でいえば、僕へのあてつけか報復か――水南への強い執着だ」
「お前とはその1年も前に別れていたのに?」
「別れたというより、僕が一方的に香澄を捨てた。そして水南に求婚した。そのせいだと思う」
「……なぁ、本気でそう思ってるのか?」
「………………」
 氷室が黙る。三条はますます表情に怒気をはらませた。
「水南を拉致した連中は、直後に起きたヤクザ同士の抗争で、その大半が死んじまった。――薬物をめぐるトラブルで、両者にありもしない売買の話をもちかけたのが香澄だったんだそうだ。なぁ、天、なんだって香澄が、そんな馬鹿な真似をしたか知ってるか?」
 ――え……?
 成美は眉をひそめたまま、三条の言葉を反芻した。
 薬物をめぐるトラブルで、両者にありもしない売買の話をもちかけた――
 直後に起きたヤクザ同士の抗争で、その大半が死んでしまった?
 それは確かに金森和明から聞かされた神崎香澄が引き起こした事件である。 でもその前に、三条守はなんと言っただろう。
 水南を拉致した連中は――
 あ。
 にわかに心臓が、鈍く音をたてはじめた。
 ずっとはっきりしなかった何かが、ようやく鮮明に見えた気がした。
 水南さんを連れ去った人たちは、同時にアルカナをめぐる争いで死んだヤクザたちでもあったのだ。
 2つの事件は、決して別々のものではなかったのだ。
 が、もちろんそれを今、成美を庇うように立つ氷室に問いただすこともできない。その氷室はしばらく黙った後、静かに首を横に振った。
「わからない。……でも香澄は、連中と手を切りたがっていた」
「おいおい。香澄はそいつらに水南を襲わせてんだぜ? 手を切りたがってる奴が、どうして連中にしっぽ掴まれるような真似するよ。だいたい本気で黒い連中と手をきりたきゃな。もっと上手い手はいくらだってあったはずだよ。そうだろう?」
「そうかもしれない……」
 氷室の口調が弱くなる。
「そうなんだよ。香澄の行動は1から十までおかしいんだよ。お前だっておかしいと思っただろ? 香澄の人生最後の3ヶ月は、まるで死に向かってひたすら暴走してるようなもんだった。――それが1年も前に別れたてめぇのせいだと? 自惚れんのも大概にしろよ」
「………………」
「言え! お前は知ってるはずだ。香澄はなんだってあんな真似をした」
 雨が激しく、三条の身体を打ち付ける。
 遠くで雷鳴が響き、二匹の犬がけたたましく吠えた。
 氷室の背中は動かない。
「……俺が、知るか」
 その低い声が誰のものか、しばらく成美には判らなかった。
「むろん推測できる理由はいくつもある。だから? だから俺に、何をしろっていうんだ」
 荒々しく言い捨て、氷室は両拳を握りしめた。
「もう、うんざりだ。――なんだって俺が、そこまで考えなきゃいけない。水南の謎をとけ?――冗談じゃない。そんなもの、知りたい奴らで勝手にやってくれ」
 初めて感情をむき出しにした氷室を、三条は虚をつかれた人のように見つめている。
 氷室は激情を追いやるように息を吐いた。
「もう、十二分に苦しんだ。今も、頭がおかしくなりそうなところで、ぎりぎり踏みとどまっている。この地下で、何を見つけたか教えてやろうか。俺と水南は血の繋がった姉弟だった。どうだ、それを聞いて満足したか」
 雨が激しくなり、それが、何か言いかけた三条の表情を覆い隠す。
「それを水南は、実にもったいぶった――おそろしく手のこんだやり方で、僕に見つけさせたんだ。それだけじゃない。日高さんまで巻き込んだ。日高さんにも否応なしに、2人の過去を探すように仕向けさせた」
 握りしめた氷室の手が、小刻みに震えている。
「……僕は、水南の、――わずかな優しさや愛情の残滓を求め、また水南の罠に落ちた。そうして、彼女が生きていた頃の何倍も傷ついた」
 雨が、立ち尽くす氷室の身体を容赦なく叩きつける。
「ようやく判った。僕には、過去を忘れて生きることなど許されない。僕がそうしたくても水南がそれを赦さない。――それが水南が、僕に遺した呪いであり遺言だ」
 氷室の剣幕と感情の暴露に、ただ打たれたように立ちすくんでいた成美は、その言葉にふと顔をあげていた。
 呪い……?
 よく判らないけど、それは、――なんか……。
「日高さん、僕はこれ以上先には進めない」
 振り返った氷室が、まだ収まりきらない感情のままに言った。
「たとえこの先何が出てこようと、僕には結末の予想がついている。――今以上の、絶望だ」
「――あの、氷室さん」
「これ以上水南に関われば、僕は本当に駄目になる。鍵は志都さんに返します。君は灰谷市に戻って、後藤の家のことは二度と思い出さないと約束してください」
「……あの、氷室さん、ちょっと私の話を」
 ようやく成美が何か言いがっていることに気づいたのか、氷室が微かに眉をひそめた。
「……話?」
 言外に、今更何の? という冷めた感情を読み取って、成美は少しだけ辛くなる。
「……水南さんのことで、……さっき、氷室さんが口走ったことですけど」
「もう水南の話を君とするつもりはない」
 遮るように氷室は言った。
「死んだ後もなお、残酷なゲームを僕に仕掛ける、彼女がどれだけひどい女か、君にもよく判ったでしょう」
 ぺちん、と頼りない音がした。
 成美は咄嗟に出してしまった手を見つめ、ついで、驚いたようにこちらを見ている氷室を見た。
「……ご、ごめんなさい」
 ま、まさか叩くつもりなんて――でも、氷室さんが、あまりにひどいことを言ってるから。
 無言で見下ろす氷室の視線をさけるようにうつむきながら、成美は胸でもやもやしていることを、しどろもどろに、言葉で継いだ。
「あの……あのですね。氷室さん、……なんか……違うんじゃないですかね」
「違うとは?」
 うわ……、もう、とんでもなく怒ってる。
 ごくり、と唾を飲み込んで成美は続けた。
「その……もしかすると氷室さん、水南さんのこと、よく判ってないんじゃないかなと思って」
 なんだか、ようやく判った気がする。
 再会した最初から、氷室さんの言動に感じていた、もどかしさの理由。
「上手く言えないですけど……、なんだか全然違うんです。他の人が話す水南さんと、氷室さんの話す水南さん。まるで、別の人の話を聞いてるみたい」
「………………」
「氷室さんの口から語られる水南さんって、まるで何もかも見通す魔女か怪物みたいですよね。でも、本当にそんな人だったんですか? 少なくとも氷室さんのことを好きだった頃は、……ただの、女の子だったんじゃないでしょうか」
「……水南が、僕のことを?」
 嘲るような口調だった。
「ありえない。そんな時期は、僕らの間に一度として存在しない」
「……氷室さん……」
「別に、君に理解してもらいたいとも思いませんが、それが僕らの真実です」
「………………」
 ああ、――なんだか本当に判ってしまった。
 水南さんが、この人に書き残したメッセージ――『天、私を探して』の意味が。
「あのですね。――あなたはちょっと……鈍感だったのではないでしょうか」
「……は?」
「す、すみません。三条さんと向井さんが、揃ってあなたを罵倒する意味が、私にもようやく分かったから……。つまり氷室さんは、水南さんのことをあまりにも知らなすぎるんですよ」
「水南に会ったこともない君が言いますか」
 彼の氷の眼差しに、成美を蔑むような色が浮かんだ。
「君は本当に何も判っていないんですね。僕以上に水南を理解できる人はいないんですよ」
 あ、今ちょっとかちんときた。
 どうしてこの人は、こと水南さんのこととなると、こうも意固地になるんだろう。
「ええ、確かにその通りかもしれませんね」
 成美は努めて冷静に反論した。
「でも少しなら、見えているものもありますよ。青い本がなにを指すのか分かりませんけど、少なくともそれは絶望じゃないと思います」
 氷室の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
「もうこの話はよしませんか? 君は何も判っていない」
「いいえ、判ってます」
「判ってない」
「判ってます。ねぇ、氷室さん、お願いだからちょっと冷静になってください。どうして水南さんは、生前あなたとの血のつながりを黙っていたんですか? それは、あなたに対する思いやりではなかったんですか? だいたい自分の命の期限が見えている人が――そんな残酷なメッセージを送るわけがないじゃないですか」
 眉を寄せた氷室が、始めて成美から視線を逸らした。
「水南が……どういう女かなんて、君に判るはずがない」
「ええ、確かにわかりませんよ。でもね、これだけは分かります。水南さんのメッセージの意味は、あなたを苦しめることじゃないですよ。絶対にそうじゃないですよ」
「……僕は、別に苦しんでは」
 は?
 今度、怒りに眉をあげたのは成美の方だった。
「今更何言ってんですか。あなたが私より苦しんでいるのが分かったから、私、――別れてもいいと思ったんじゃないですか!」
 氷室の顔が、撃たれたように動かなくなる。
 成美は、自分の唇が震えるのが分かった。
「……まだ判らないんですか、氷室さん。あなたは自分で作った殻の中に、ただ閉じこもっているだけなんです。見たくないものを隣の部屋に閉じ込めて、何も考えないようにしているだけ。お父さんの存在を完全に切り捨てた時のように」
「―――」
「昔、その殻を壊したのが水南さんなら、今度は私がそうしなくちゃいけないんですね。現実を見て、氷室さん。生前、水南さんがあなたに何をしたのか、もう一度よく思い出してみてください。その上で――水南さんが最期に何を望んだのか、もう一度よく考えてみてください」
「……水南は……」
「目を覚まして、氷室さん。あなたはきっと、水南さんを自分のイメージの中でしか見ていない。私が水南さんだったら、きっとあなたにこう言うと思います。―――私を見て!」
「………………」
「……本当の、私をちゃんと見てください」












 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。