「どうやら、雨が降ったようですね」
 地下を出て階段を上がっていると、天井から水滴がぽたぽたと落ちてきた。
 氷室の言葉に、何度も唾を飲み込んでから、成美はぎこちなく答えた。
「ほんと、だ。レインコート買ってきて、正解でしたね」
「今は雨音がしないから、外に出ても大丈夫だとは思いますが」
 1階にあがると、水滴の勢いはますます激しくなる。
 天井から滴る雨漏りがひどく、外に出るまでにびしょ濡れになってしまいそうだったので、2人は背負っていたバックパックから取り出したレインコートを羽織った。
「……あの、氷室さん」
「ん?」
 彼の目の優しさに、成美は苦しくなって視線を下げた。
 わかっている。
 私が大丈夫ですといって、片がつく問題ではないのだ。
 去年――安治谷駅で、自分が同じ思いに囚われたからこそ、判る。
 成美にどんな過去があっても、氷室は受けいれてくれるだろう。あの時、それを苦痛に感じたのは氷室ではなく、むしろ成美の方なのだ。
 過去を好きな人とわかちあうことに、たまらない苦しさを覚えたのは成美の方だったのだ――
 氷室はそんな成美を包み込んでくれた。大きくて暖かくて、広い心で。
 だから安心して、心の底にあるものまで吐き出して委ねられた。
 でも私に――あの夜の彼と同じ真似ができるだろうか。
 できるとは口では言える。態度でも示せる。大丈夫ですと笑うこともできる。実際、本当に大丈夫だとも思う。
 でも……彼が、人生の荷を預けてもいいと思うほどの強さが、果たして私にあるのだろうか。
 なまじ過去を知っているだけに、彼をただ、苦しめるだけになるのではないだろうか。
 だったら新しい道を別々に歩いて……彼の過去などまるで知らない人と新たな生活を築くことが……それが彼にとっての、一番の幸福なのではないだろうか。
「あの……氷室さん、私」
「日高さん」
 それでももどかしく思いを伝えようとした成美を、氷室はやんわりと制した。
「決めるのは君ではなく、僕なんです」
「………………」
「耐えられないのは、君ではなく僕なんです」
「………………」
「君の強さも優しさも全部判っています。その上で、――その全部が、僕にはもう辛すぎるんです」
「………………」
 まるで以心伝心のように互いの心が見えている。
 成美は黙って、言葉をのみ、ただまつげを震わせた。
「もっと早くそうすべきだった」
「………………」
「水南のことだけじゃない。父のことや……他にも僕が背負う様々な重いものを、僕は君に背負わす気など最初からなかった。そういう意味では、僕は最初から、いずれは君の前から消えるつもりでいたんです」
「………………」
 まだ何か言いたいことがあるような気がした。
 彼をこのままにしておいてはいけないような気がした。
 けれどそれは、もう言葉としては何もでてこない。
 彼にとって私は――私の存在は、最早心の重荷でしかないのだ。
「鍵を、渡してもらえますか」
 静かな口調で氷室は続けた。
「堺医師のところには、僕1人で行ってきます。必ず水南の本を探しだすことも約束します。でも君は、もうこれ以上関わるべきじゃない」
 彼は最初から、この先に自分を連れて行く気すらなかったのだ――
 一瞬強く握りしめた手を解き、成美は内ポケットに入れていた巾着袋にこわばった指を伸ばした。
 
 
                   10
 
 
 外に足を踏み出した途端、いきなり響いた激しい咆哮に、成美は思わず足をすくませていた。
 犬――?
 前を行く氷室が、腕で成美を制して立ちふさがる。
「よう、天」
 犬の吠え声に混じって、人の声が聞こえた。
「よしよし、ナオミちゃんも一緒だな。なんてグッドなタイミングだ。ずーっとこの時を待ってたんだからな、俺は」
 三条さん………!
 成美は驚いて氷室を見上げたが、彼の背中は落ち着き払っている。
「なにもこんな場所で、びしょ濡れになるまで待たなくてもいいんじゃないですか」
「うるせぇ! お前らがいつまでも出てこねぇから、こんな有り様になっちまったんだよ。おい、まて、興奮するな」
 荒々しい犬の鼻息――
 成美はおそるおそる、氷室の背から顔をのぞかせた。
 黒のレインコートを、まるで死神のマントのようにかぶった三条守が、荒々しく唸る2頭の黒犬の手綱を持って立っている。
 恐ろしさのあまり、成美は卒倒しそうになっていた。
 まるで子牛ほどの大きさもある黒い犬は、目を爛々と輝かせ、口からはよだれ混じりの泡まで吹いている。
「ようやく、文明を離れた場所でお前と向き合えたな、天。――懐かしいだろう、この光景。昔はよくお前に犬をけしかけて、遊んだよな」
「……君の馬鹿犬を保健所送りにしなかったのは、僕のささやかな慈悲だったんですけどね」
「ふざけんな! それより残酷なことをしただろうが、お前は!」
 霧雨のように降っていた雨が、少しずつ勢いを増していく。
「おっと動くなよ、天。少しでも動いたら、こいつらをナオミちゃんにけしかけるぜ」
「ナオミ……?」
「わ、私のことだと思います」
 成美は背後から、小さな声で囁いた。
 氷室がふっと嘆息する。
「相変わらず人の名前が覚えられないんですか……。いつも思うことですが、そんなのでよく企業の幹部が務まりますね」
 一瞬ぎりっと歯をくいしばったように見えた三条は、しかしすぐに顔いっぱいに薄気味悪い笑いを広げた。
「警告するが、減らず口はそこまでだ、天。――今の状況がまだ判ってないなら教えてやるよ。ここは人が立ち入らない山奥の私有地で、所有者は幸運にも俺ときてる」
「…………」
 氷室は黙っている。けれどその背が、わずかに緊張したのを成美は感じた。
「お前らがここに入ったことは、俺と志都さんしか知らない。つまりここでお前らがどうなろうと、永久に他人が知ることはない。だろ?」
「……なるほど、だからすんなりと入山を許可してくれたわけですか」
「その通り。ここで、この場所で、お前と2人になるためにな」
 雨音をついて、三条の手綱を目一杯に引っ張った犬達が吠える。
「……日高さん。そのまま下がって、中に戻ってください」
 氷室がささやくと同時に、三条が「動くなっつっただろうが」と声をはり上げた。
「いっとくが、こいつらはしつけられた猟犬だ。どこまでも獲物を追い詰めて喉笛を食いちぎる。逃げたって無駄だ。1匹が女を追って、もう1匹がお前を殺すぞ」
「馬鹿馬鹿しい」
 初めて氷室の声に苛立ちが混じった。
「そんな危険な真似をして、一体なんの得があるというんですか。復讐の真似事なら僕1人にすればいい。彼女は無関係だ」
「……悪いな。生憎、それは俺が決めることなんだよ」
 三条は冷たく笑って、レインコートのフードを払った。
「もう、なんの得もなくていい。俺は、お前を地面にひざまずかせ、泥に顔を押し付けて命乞いする様がみたいのさ。なぁ、天、お前にそんな真似ができるのか?」
「……お望みとあらば、いくらでも」
 はっと三条は愉快そうに顔をゆがめた。
「そうか。ナオミちゃんのためならなんでもできるか。でも生憎、俺がお前に求めているのはそんな簡単なことじゃねぇ。――真実だ」
 真実……?
 氷室が訝しく目をすがめるのが判った。
「水南はどうして、あんな目にあったんだ?」
「………………」
 雨に濡れた三条の目が、2匹の猛犬同様に爛々と怪しい光を帯びた。
「あの賢い水南が! 自分だけでなく他人の運命全てを見通していた水南が! どうしてあんな――あんな目にあったのかって聞いてんだよッ」
 三条の人が変わったような剣幕に、成美は息を飲んでいた。
 あんな目とは、おそらく水南が妊娠した時のことを言っているのだろう。あの、想像するだに残酷な事件のことを。
 氷室が、視線を下げるのが判る。
「………僕のせいだと、何度もそれは説明した」
「僕のせい? 僕のせいかよ? ふざけんな。お前が水南を欺いただと? しかもあの頭の悪い香澄と組んで? 有り得るかよッ」
 雨が勢いを増していく。成美は氷室の袖を握りしめていた。
「そんなこたぁ、あるはずがない。それはお前が一番よく知っているはずだ。お前はひどい男だが、水南にあんな仕打ちはできねぇ。絶対にできねぇ。そうだろう?」
 氷室は答えない。
「頭の悪い俺はいつだって蚊帳の外だ。水南が最後に一緒にいた男の正体だって、知りやしねぇ。水南の病気のことも――それが、治らねぇ病気だったってことも、知らなかった。水南が、最後に、会いに来るまで!」
「…………」
 その頬をつたうものが雨か涙かわからない。唇を一瞬激しく震わせた後、三条は感情を抑えこむように歯ぎしりをした。
「お前の女を調べろだの、屋敷を買い取れだの壊せだの、バカバカしい頼み事の意味も知りやしねぇ。俺はいつだって水南のすることを疑ったことがねぇからだ。必ず意味がある。必ずそれには意味があると判っていたから。でも今度ばっかりは、意味がさっぱりわかんねぇんだよ!」
「………………」
「水南は死んだ……。なにひとつ、本当のことを言い残さずに」
 唇を噛み締め、三条は視線を一瞬足元に落とした。
「悔しいが、もう、謎解きができるのはお前しかいねぇんだ。お前は知ってるはずだ。いや、知ろうと思えば知ることができたはずだ。お前だけが水南の謎をいつも解くことができた。だから俺も志都さんも、お前に期待してた。――ああ、期待してたんだよ。でもお前は何もしなかった。ただ目と耳をふさぎ、逃げていただけだった!」
 あ……。
 成美の脳裏に、今まで耳にした様々な人の言葉が蘇った。
(お嬢様の出した謎をとけるのは、もう天さんしかいなかったのですよ)
(何もしなかったのは、あの男の最大の罪です)
 ――そういうことだったんだ。
 誰も、水南さんの身に起きたことを、その理由を、本当の意味では知らないんだ。――
 三条守と向井志都の怒りは、氷室さんがそれを企んだと思い込んでいるからじゃない。氷室さんが、その罪を1人で抱え込んで……謎を解こうとしなかったから……。
「僕には……わからない」
 闇に沈み込むような、氷室の声がした。
「そもそも僕に、……彼女が残した謎を解けると思うのは間違いだ。……僕は、……一度だって、水南の気持が理解できたことなどない」
「ああ、そうかよ。そういうと思ったよ」
 はっと鼻で笑うと、三条は不意に冷淡な目になった。
「……なぁ、天、こいつらがなんで、こうも興奮しているか判らねぇか?」
 三条の目は手綱の先の犬を見ている。氷室が訝しく眉を寄せる。
「こいつらは先月、台湾から輸入されたばかりだ。知ってるだろ。あっちで何年かぶりに狂犬病患者が出たことくらい」













 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。