淡い光が、頼りなく2人の足元を照らしている。
 暗すぎて殆ど何も見えない成美は、氷室の白いシャツが淡く浮いているのだけを頼りに、彼の背を追うようにして階段を降りていった。
 壁も床も湿気のせいかひどく湿り気を帯びていて、気を許した途端に足を滑らせてしまいそうだ。
 ふっと壁が途切れ、視界が淡く開けてくる。
 地上から続く階段が、地下室に届いたのだ。何があるのかと目を凝らした時、氷室の姿が闇に飲まれる。
 あっと思った時には、数度瞬いた光が、地下室全体を照らしていた。
「自家発電機が、まだここだけ生きていたようですね」
 氷室の声を聞きながら、成美はそこに姿を表したものをただ呆然と見つめていた。
 壁一面に描かれた巨大な女性の立ち姿。
 青いヴェールを頭から被り、腰を紐で縛っただけの簡素なドレスを身にまとったその人は、目を閉じてうつむき、下げた両手を心持ち広げるようなポーズをとっている。
 足元には幾層にも重なる真っ白な百合の花。
 頭上には後光のような光が、開いた花のような形で描かれており、花片のひとつひとつに、不思議な模様が刻まれている。
「……マリア……像ですか?」
「そのようですね。けれど背後に描かれているのは曼荼羅のようにも見えるので、仏教にも通じているのでしょう。あまり宗教に思い入れのない人間が作成したのかもしれない」
 成美は呆然と絵を見上げた。
 絵は壁の劣化とともにひび割れ、ところどころ塗料が剥げている。随分古い時代のものらしい。
 でも、こんな日も差さない暗い地下に――一体、誰が、なんのために。
 氷室が、成美の背後に立って絵を見上げた。
「百合は聖母マリアを象徴する花です。と、同時に後藤家7代目当主、後藤伝八の妻である永遠が最も慈しんだ花でもある。これだけではなんとも言えませんが――この絵は、永遠を描いたものとも解釈できます」
 後藤永遠――
 非業の死を遂げた、後藤家の先祖。
「ご主人の、伝八さんが描かせたんでしょうか」
「永遠の石像をこの山のどこかに建てさせたほどの愛妻家ですからね。そうであっても不思議ではない」
「花びらに描かれている記号みたいなものは、なんでしょう」
 目を細め、成美はそれを指差した。
 XやYなどの形をしているものもあるが、全く意味を成さない形のものもある。
「聖書に通じる数字の一種ですよ。数字に置き換えるまではしてみましたが、特に意味があるようにも思えなかった。――でも日高さん、僕が君に見てほしいのはこの絵ではないんですよ」
 ――え……?
 氷室の言葉につられるように、成美は背後を振り返った。
 そして息を引いていた。
 背後――いや、左右を含む全ての壁にかけられた、大小様々な無数のキャンバス。
 白い開襟シャツに短髪の、全て同じ人物の顔。
 整った目鼻立ちをした男性の顔が、比率は違えど、まるで同じ写真の複製のような正確無比さで描かれている。
 なに、これ……。
 ざわっと背筋に鳥肌がたった。
 まるで無数の目に見つめられているようだ。怖い。絵の良し悪しはともかく、この絵を描いた人物の精神状態が尋常じゃないことだけは判る。
 絵は壁一面を埋め尽くしている。同じ顔が無数にあり、それが侵入者を冷たく凝視しているのだ。
 氷室が、室内の中央に立つ。成美は最初に足を止めた場所から動くことができなかった。
「……なんですか、これ」
「見ての通り人物画ですよ。これだけではなく、下においてあるものも全て」
 こわばった顔を動かして、成美は床に視線を向けた。
 床には、無数のキャンパスがいくつも重ねてたててある。どれだけの数があるのか、考えるだけでぞっとするくらいだ。……この量が、全て壁にあるものと同じ絵?
 氷室は膝をつき、積み重ねられたキャンパスの隙間から、白っぽい塊をそっと取り上げた。
 途端に、彼の足元に枯れ果てた何かがはらはらと落ちる。
 朽ちてしまった花束をしばらく見つめ、彼はそれを、重ねたキャンパスの上に置き直した。
「僕の知る限り、『終末の家』で暮らした後藤家の女性は2人しかいない。伝八の妻の永遠と、水南の母親のミナエです。地元では色んな噂が流れていますが、実際に後藤家の女で『終末の家』に閉じ込められたのはその2人だけなんです」
「………どうして、ですか」
「永遠が『終末の家』に隔離されたいきさつは先ほど説明しましたね。本来ならこの家は、永遠の死と共にその役目を終えるはずだったし――実際終えていたのでしょう。それを、後藤雅晴が再び蘇らせたんです。自分の妻を生きながら閉じ込めるためにね」
 どういうこと?
 成美は胸の悪さを覚えながら、再度壁の絵に視線を向けた。
「……ミナエさんがここで暮らすようになったのは、病気が原因じゃないんですか」
「表向きの口実はそうですよ。だからこそこの家には、後藤家の主治医である堺医師が一緒に住んでいたんです。最も彼の主な役割は監視だったんでしょうが」
 監視……?
 成美は息をつめたまま、正面に位置した中でも一番大きな絵に視線を止めた。
 切れ長の目。形のいい眉。薄くて少しだけ皮肉な笑いを滲ませた唇。
 ふと、成美は眉をひそめた。なんだろう、ひどく冷たい顔なのに、どこか見ていて懐かしい気がする。
 ああ、そうか。
「なんだか氷室さんに、……似てないですか?」
 思ったままを、成美はふと口にしていた。
 もちろん、絵に描かれた人なんて、どれだけ上手く描かれていても、どこか本人と違って見えるものだけど。
 壁の絵は、恐ろしく写実的に描かれているせいか、まるで氷室の、少し雰囲気を違えた写真を見ているようだ。
「目と眉のあたり……。あ、でも違いますね。左目の下にほくろがありますし……、氷室さんの唇はもうちょっと厚目です」
「僕の唇は、どちらかといえば母親に似たんですよ」
「そうなんですか」
 答えた成美は、次の瞬間凍りついていた。
 えっ……?
「目と眉が父親とよく似ているというのは、子供の頃何度も母から聞かされましたね」
 氷室の声が、どこか遠く、優しく聞こえた。
「僕はある時点で父親の顔を思い出せなくなっていたので、鏡をみるのがひどく嫌だった記憶があります。――そのせいかな、この部屋に入っても、しばらくこれが、誰の顔だか判らなかった」
「………………」
「どれだけ絵に疎い人物でも――たとえば後藤氏のような芸術性が皆無の人物でも、これほど似た絵を見れば、ひと目でそれが誰だかわかったでしょうね。もちろん後藤氏は、それ以前から妻の不貞を承知していたわけですが」
 ちょっと……。
 あの、ちょっと待って下さい。
 話に頭が――まるでついてってないんですけど。
 氷室は壁際に歩み寄ると、そこに添えつけられた小さな棚を開けた。
「あの時のままだ」
 苦く笑うような声だった。
「いっそのこと焼いてしまえばよかったんでしょうが、水南があえて処分せずに残したものを、僕が処分するのもおかしな気がしましてね」
 そこで言葉を切ると、氷室はどうぞ、とでもいうように成美を手招きする。
 成美の足はまだ動かなかった。
「ミナエさんが亡くなられた後、彼女の私物は残らず処分されたそうですが、後藤氏は腑に落ちなかったはずですよ。おそらく、あるべきものがないと思ったんでしょう。彼が一番処分したかったもの。一番この世から隠したかったもの。それはおそらくミナエさんの手によってこの地下に隠されていた不貞の証です。――それを水南が、受け継いだ」
「…………」
「後藤氏は必死になって探したんだと思いますよ。あの男の性格上、人を頼ることもできないから、自分で何度もこの廃屋に足を運んで、それこそ泥と汗にまみれてね」
 氷室は微かに喉を鳴らして笑うと、棚の中から一通の封筒を取り出して成美の傍に歩み寄ってきた。
「そう思うと滑稽で、僕が証拠隠滅の手助けをする気には到底なれなかった。不動産全てを手放そうと決心したのもその時です。何もしらない三条が水南の遺言どおり『終末の家』を壊した時、初めてこの地下の存在が詳らかになるんですから」
「………………」
「どうぞ。僕の説明より、これを読んでもらった方が何倍も早い」
 
 
 
 愛しい君へ

 身体の調子はどうでしょうか。
 これを書いている今、僕はとても忙しくて、君に会いに行くこともままならない状況です。
 ただこの試練の日々も、将来君と二人で幸福な日々を過ごすための糧だと思えば少しも辛いことはありません。
 君もそう思い、どうか僕が迎えに行く日まですこやかにお過ごしください。
 お腹の子の成長は順調ですか? 女だろうか、男だろうかと今から期待に胸をふくらませている馬鹿な僕を笑ってください。
 すぐに父親と名乗れないことが辛いけれど、その問題も、近いうちに必ず僕が解決すると約束します。
 君は信じられないというけれど、いざとなれば駆け落ちという方法もあるのです。なのでどうか、くよくよ悩まず、健やかに、子の成長のことだけを考えて暮らしてください。
 大丈夫です。Sが必ず僕らを助けてくれます。
 そして僕の愛が普遍であることを、どうか、信じて待っていてください。
 僕の心は最後のその時まで、美しい君のためにあります。
 誰よりも美しい――僕の大切な、愛する人。
 

 水那江様                   涼

 
 
 
 
 どういうこと?
 これは――つまり、どういうこと?
 涼って……もしかして佐伯……。
「美しいラブレターですが、佐伯涼はその当時上司の娘と見合いし、結婚の準備を進めていた最中でした。もちろん妊娠させた水那江を迎えにいくつもりなどさらさらない。頭のいい父がどうしてこんな愚かな手紙を残したのか甚だ疑問ではありますが、男の口の巧さに騙されるな、といういい見本ですね」
 成美はこわばった目のまま、前に立つ氷室を見上げた。
 薄暗い照明の下、氷室の表情は影になって読み取れない。
「水南が、後藤雅晴の実子でないだろうということは、随分前から――薄々は察していました」
 成美から視線を逸らしたまま、氷室は淡々と話しはじめた。
「2人の容貌にほとんど一致点が見られないというのもありますが、それ以前に水南は、僕が屋敷に住むようになった最初から、実父である後藤氏を異常なくらい警戒していたんです。決して2人きりにならないのはもちろん、ある種の緊張関係が常に2人の間には存在していた。……水南の書庫にあった絵の話をしたでしょう?」
 ぎこちなく成美は頷く。
 恐ろしい絵ばかりが飾られた異様な部屋。氷室はそれを、『警告』と言っていた。
「あの絵はね、水那江が後藤氏に向けて放った暗黙の警告なんです。私の子に決して近づくなというね」
 わが子に殺されるという予言に怯え、狂気に走ってその子を食べてしまったサトゥルヌス。
「――手を出そうと思うな。出せば、必ず報復するというね」
 女2人に寝台におしつけられ、事務的な冷淡さで首を切り落とされようとしているホロフェルネス。
「水南は、その母親の遺志を見事にくみとり、あの不気味な部屋を完成させた。水南は、そうやって後藤氏を牽制する半面、その言いつけには絶対背こうとしなかった。つまり絶対的な服従関係を表向き維持することで、一定の距離を保つことを後藤氏に要求し、後藤氏はそれを呑んだのだと思います。後藤氏もまた、娘の怖さをよく知っていたはずだから」
「………………」
「そこまで推測しながら、迂闊にも僕は、水南の父親の正体に考えが至ることは一度としてなかった。僕自身が後藤氏の息子である可能性は疑っても、まさか水南が」
「やめてください」
 成美は思わず、血相を変えて遮っていた。
 そんなこと信じられない。あっていいはずがない。だってそうなら、2人は姉弟同士で籍を入れていたことになる。
「やめて――そんなこと、軽々しく決めないでください」
 堅い口調でそう言う成美を、氷室はどこか冷めた目で見つめている。
「そんなの――こんな手紙1枚だけで簡単に判断できることなんですか。そんなの――こんな手紙、ただそれらしく書いてあるだけで、なんの証拠にもならないじゃないですか!」
「……君にはそうでも、僕にとっては違う」
 氷室は静かに言うと、成美の手から手紙を取り上げた。
「僕はこれを読んだ瞬間、小さな――けれど胸のどこかにずっと引っかかっていた様々な疑問が、一気に腑に落ちたんです。まるでバラバラに飛び散っていたパズルのピースが、ぴたりとひとつになるようにね」
「………………」
「後藤氏と、僕の父親である佐伯涼がかつて学友だったことを知ったのは、高校3年生だった僕が後藤の家を出てすぐのことです。――きっかけは香澄でした」
「……神崎香澄、さん?」
 自殺した神崎香澄。氷室と数年間一緒に暮らしていた女性のことだ。
 氷室は小さく頷いた。
「香澄はね。同級生だった水南に強い対抗心を抱いていて、水南とはりあうためだけに三条と関係を持ち、僕を誘惑したような女です。今でも彼女の執着の意味だけはよく判らない。香澄が本気で求めたのは、あるいは僕でも三条でもなく、水南だったのかとさえ思う時がある。……余談ですが」
「………………」
「君と雪村君も疑問に思ったでしょうが、僕が抱いた疑問はおそらく君以上だったと思いますよ。――香澄は自殺するような女じゃない。もしするなら、間違いなく水南を道連れにしていたはずです。それほど香澄は、生前、水南に強い執着を抱いていたんです」
「……どうして、そこまで?」
 さすがに訝しく思った成美がついそう訊くと、氷室は微かに笑って首を横に振った。
「わかりません。女の心理となると、正直僕には理解出来ないことが沢山ある。ただ、水南のような強烈な存在感を放つ存在には、同じだけの強さを持つ影が常につきまとうものなのかもしれません。闇の中でしか生きられない人間にとって、強烈な光を放つ存在というのはひどく忌々しいもので、いつだって自分たちの棲む闇に引きずり下ろしたくなるものではありませんか」
 そうかもしれない。
 成美は、常に女性たちの羨望と嫉妬の的だった柏原明凛のことを思いだしていた。
 柏原明凛は常に無自覚だったが、彼女には沢山の――同性の敵がいた。成美にしても、最初は意味もなく敵視していた。彼女があまりにも完璧すぎて、そんな女性が身近に存在しているというだけで、息もできないほど苦しかったからだ。
 今思うとそら恐ろしいが、消えてしまえばいいとさえ思ったこともある。
 神崎香澄もそうだったのだろうか。
 後藤水南の前にいると、いいようのない劣等感にさいなまれ、息もできないほど苦しかったのだろうか。
 でも、そこまでは共感できるとして、その一人勝手な憎悪を何年も持ち続けるのは異常だとしかいいようがない。
 なにか――他に、原因があったのではないだろうか。
「香澄はもう何年も、後藤家の内情を調べていたんです。僕と同じ動機――少しでも水南の弱点を掴みたいという敗者の歪んだ動機からね。ホステスをしていた香澄には、おそろしいほど豊富な人脈があり、それが彼女の一番の強みであり魅力でもありました。僕にアルカナの存在を教えてくれたのも香澄なら、父の逮捕後、後藤氏が与党幹部と急速に親密になり、次の選挙の比例代表として立候補する予定であることを教えてくれたのも香澄です」
 え……?
 それは、一体どういうこと?
「その数日前に僕は水南を失い、両親を亡くしたばかりでした。後藤家を出たものの、この先どう生きていくべきか決めかねていたところに香澄と再会した。――彼女の話を聞いて、僕は自分を取り巻いていた世界の色が、一瞬にして変わってしまったのを知ったんです」
「………………」
「僕は長い間、父から目をそむけて生きてきた。そのせいで、香澄にすら見えていたものが見えなかった。その結実が今なのだと思うとたまらなく悔しくて、以来、がむしゃらに真実を追い求めるようになりました。そう、君のいうように国土交通省に入ったのもそのためです。父のせいで僕が不利な立場にあることは判っていましたから、議員になっていた後藤氏と取引して、入省の便宜をはかってもらったんです」
「……取引」
「僕は後藤家に居た頃、彼の黒い人脈や商売のやり方を、ある程度学んでいますからね。……他言してほしくないことは沢山あるんです。僕が何度も後藤氏を裏切りながら、なおこうやってのうのうと生きていられるのは、全て当時掴んだ情報のおかげなんですよ」
 成美は微かに眉を寄せた。
「それで、……わかったんですか」
「判った、とは?」
「お父さんの事件。……本当のことが、わかったんですか」
 真犯人が他にいることや、その証拠が何者かによって隠滅されたこと。そういったことの全てを、氷室はもう掴んでいるのだろうか?
「判りましたよ」
 あっさりと言うと、氷室は少しだけ口の端をあげた。
「僕の父が、罪を犯したということが」
「………………」
「結果的に僕の父は、分相応の罪を受けたのだということがね。だから僕は、もう父の事件に執着することをやめたんです。……随分前に」
「………………」
「なのにおかしなもので、周りだけがそうはとらずに焦ったんでしょう。――今逮捕が取り沙汰されている国土交通省事務次官の西東さんは、どうやら僕が、彼の悪事をリークしたと思い込んでいたようでね。もうその誤解は解けたようですが、彼が一時、僕の身辺をかぎまわっていたことは事実だったようですよ」
 成美は眉をひそめていた。その言い方は、まるで西東事務次官が事件の真相を知っていたように聞こえたからだ。
「あの……、どうして西東事務次官が」
「そんな誤解をしたか、ですか? 西東事務次官は、父と同期入省した同僚で、国土交通省では、アルカナの真相を知る唯一の生き残りだからですよ」
「………………」
「迂闊にも紀里谷に吐かせるまで、僕は西東さんの動きに気づきもしなかった。……灰谷市での君との日々があまりに安穏としすぎていて、僕自身の危機感知能力がにぶっていたんでしょうね」
 
 
 
 そういうことだったんだ――
 成美は、呆然としながら、かつて紀里谷から聞かされた話を思いだしていた。
 あれは苦し紛れの言い訳でもなんでもなく、事実だったのだ。
 そして雪村の不安も、決して杞憂ではなかったことになる。
「……お父さんの事件の真犯人が、……西東事務次官だったということですか」
 成美がおそるおそる訊くと、氷室は苦笑して、視線を壁の絵に向けた。
「真犯人か……。事件がそんな単純な構図なら、僕にも報復のしようがあったのかもしれませんがね」
「違うんですか?」
「あえていえば、真犯人は政府であり、国家権力そのものですよ」
「………………」
「父は個人でその権力と取引しようとあがき、そして敗れた。それだけのことなんです。正義でもなんでもない、いわば父の驕りと野心が自身を破滅させたんです。――愚かにも周囲の人々を巻き込んでね」
「………………」
「父の横領行為にどんな背景や事情があろうと、公金を持ちだした時点で言い逃れのできない犯罪です。当然父は、その行為によって自分が受けるダメージも覚悟していたし、最悪の場合トカゲのしっぽになることも想定していたでしょう。だから父は、それが自身1人の罪ではない証拠を記録として残し、第三者に預けるような愚かな真似をした」
「………アルカナ」
 思わず呟いた成美に、氷室は視線だけで頷きをかえしてくれた。
「アルカナというのは、父がそれを預けた第三者――あえて職業も名前も伏せますが――その人物との間でとりかわしていた隠語です。しかしその人物は不慮の事故で死にました。その人物が所持していたアルカナは、その時点で何者かに奪われてしまったのでしょう。色んなルートが取り沙汰されていますが、暴力団に流れたというのがおそらく正解だったのだと思いますね」
 意味を解した成美は、微かに足が震えるのを感じた。
「……つまり、もしかしてその人は、……殺さ」
「そう、結果的に言えば殺されたんです。僕の父にね」
 ――え。
「父の犯した最大の過ちは、アルカナの秘密をふとした気の緩みから旧知の友人にうっかり漏らしてしまったことでしょう。――父からみれば、妻を寝取られてもまるで気付かなかった間抜けな男――後藤雅晴に」
「………………」
「後藤氏がそれを政治に関わる何者かにリークして、大きな権力が闇の連中の力を借りた。――そのあたりが僕の調査の限界です。これ以上踏み込むべきではないと理解した。父を徹底的に裏切ることで政界進出を果たした後藤氏に憎悪の念を燃やしていた時期もありましたが、……その執着も、捨てました。水南と結婚すると決めた時に」
「………………」
「今となっては、後藤氏の残酷ともいえる仕打ちにはそれ相応の理由があったと思うばかりです。――父はひどく貧乏だった学生時代、後藤氏に金銭面でかなりの世話になっていたんです。もっとはっきりいえば、父はお人好しだった後藤氏を利用し、その親切を欲しいままに搾取していた。人間として見下していたんですよ」
「………………」
「やがて父は収監され、父の立場を守ってくれるはずのアルカナも闇に消えた。頼るべき相手を失い、資金的にも行き詰まった父はあつかましくも再び後藤氏を頼ったんです。後藤氏は父の弁護費用をたてかえたばかりか、妻子を引き取り面倒をみることまで約束してくれた。もちろん復讐のために。自分がされたことと同じ仕打ちを、何倍にもして父に返すために」
「………………」
「どこかの時点でかは知りませんが、後藤氏の裏切りを知った父は、随分と焦ったんでしょうね。公判が始まる前に、父は自白を二転、三転させています。推測になりますが、父はアルカナを取引材料に、公判後になんらかの取引を――父に公金を横領させた人物相手にするつもりだったのではないでしょうか。それが後藤氏の裏切りによって全て無になったどころか、父自ら真実を告発することすらできなくなった。なぜだか判りますか?」
「………………」
「僕と母が、後藤氏に捕らわれていたからですよ」
「………………」
「父はね、自分の賢さを過信するあまり、一番渡してはいけない相手に、自分の一番大切にしていた者たちを預けてしまったんです。それもまた因果応報。……そうして父は何もかも失い、清楚だった母は愛欲に溺れ、僕はその娘の奴隷になった」
「………………」
「何故後藤氏がそこまでのことを父にしたのか。――水南が後藤雅治の実子ではないことも、父が後藤氏の大学時代の後輩で、妻の水那江さんと交流があったことまで調べながら――僕は迂闊にも、水南の父親が誰かということに、まるで考えが及ばなかった。そして僕は、ようやく理解できたんです。水南が僕の心をいとも簡単に弄んでは利用し、ゴミより簡単に捨てることができた理由を」
「………………」
「彼女は少なくとも、僕らに血の繋がりがあることを知っていた……。知っていて、何度も僕にその身を委ねた。彼女がどんな観念にもとづき神をも畏れぬ所業に出たのか、僕にはまるでわからないし理解もできない。さらに残念なことに、近親相姦の事実がわかってもなお、僕の中には水南や自分に対する嫌悪感が沸いてこない。――当時、あるいは真実に行き着いていたとしても、……それでも、彼女に惹かれていたと思うから」
「………………」
 氷室は静かな目で成美を見下ろし、成美はその目にこめられた決意を黙って受け止めた。
「僕はその時、僕のこんな本性だけは君に知られたくないと切に思った。僕はすでに骨の髄まで汚れているけど、君にだけはそうはなってほしくなかった。――君には、光のさす明るい場所を、笑顔で歩いてほしかった」
「………………」
「だから僕は、君の前から消えたんです」












 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。