先ほどより、随分風が強くなっている。
 何かがきしんだり揺れたりする音が、建物の上階で絶え間なく響いている。
 成美はひどく不安な気持で、前を行く氷室の背をふりあおいだ。
「お天気……崩れそうですね」
「そうですね。今日は1日不安定なようですから」
 そう言うと、氷室はようやく背後の成美を振り返った。
 終末の家の中。泥と黴と腐りただれた木材の匂い。氷室は眉をひそめたままで天井を見上げた。
「以前来た時より、大分老朽化が進んでいますね。さすがに雷が落ちたらもたないかもしれない」
「えっ」
 遠くで雷鳴のような音が聞こえたような気がした。
 成美は落ち着かない気分で、氷室の顔を見る。
「大丈夫。雷が来る前には終わりますよ。――君もひととおり、この建物の内部は見たんでしょう?」
 応接室や、食堂などがある1階。それから、半分潰れていたという住居部分にあたる2階。
 成美は直接目にしていないが、雪村がひと通りみてくれている。
 2人は今1階部分の、広々とした室内のひとつに立っている。天井からぶらさがったシャンデリアの残骸が、ここがかつて豪華な造りであったことの唯一の名残だろう。
「この鍵で、室内のどこかが開けられないかと思ったんですけど」
 成美はポケットに大切にしまいこんでいる巾着袋を取り出した。
「それどころじゃないっていうか……、色々危なくて、全部の場所を探索することはできませんでした」
 氷室が手を差し出したので、成美は少しためらってから、それを袋ごと彼に渡した。
 彼は鍵を袋から取り出し、目を細めてそれをしばらく見つめていた。
「この鍵の用途は目下の謎ですが――少なくともこの館とは無関係な気がしますね」
「どうしてですか」
 氷室は鍵を袋にしまうと、それを再び成美に返した。
「僕は以前――君たちとは全く違う用向きで、ここに来たことがあるんです」
「……それは」
 5月の連休のことだろうか?
 今回、成美と氷室は、前回雪村と来た時と同じ場所からこの館に侵入したが、風にでも飛ばされたのか、あの日に見つけた白い紙袋はもうどこにも見当たらなかった。
 そういえば、あの紙袋のことも氷室に確認してみなければならない。中に花が入っていたのは確実だが、一体彼はその花をなんの用途で持込み、どこに置いて帰ったのだろう。
「その時、僕はあるものを探して――この館の中を可能な限り、けれど漏らすことなく探索したからです。鍵を必要とする箇所はどこにもなかった。もしあるとすれば、建物そのものの構造に秘密があるのでしょうが、だとすればもう壊してみるまで調べようがない」
「…………」
「鍵の謎は、……目下、この館のことをよく知る堺医師に尋ねるまではおあずけでしょうね」
 言葉を切ると氷室は再び背を向けて歩き出した。
「ここは来客や、見舞いに来た家族のための部屋だったんだと思います。そして次の間が食堂になる」
「――っ」
 次の間に続く扉の前で、成美は思わず氷室の背に身体を寄せていた。
「どうしました」
「――次の部屋に、怖い絵があったから……」
 広々とした壁一面に、ずらりと並んだ14枚の絵。そのどれもが判別がつかないほど黒く汚れ、ただ――サトゥルヌスの目だけが、来訪者を見つめている。
 成美を見下ろし、氷室は少し優しい目になった。
「別に怖いものじゃない。――ただのレプリカですよ」
「レブリカ……?」
 氷室は成美の手をとり、隣の部屋に入っていった。
 成美1人が、ひんやりとした彼の指の感触にどきりとした。
 何日ぶりかに、この人の肌に触れた気がした。でももう自分のものではない、他人の肌。――
 氷室にその感慨はないのか、次の間に入ると、あっさりと成美の手を離し、件の絵の前に立つ。
「……まぁ、確かにこう見ると不気味ではありますが、水南の書庫で存分に鑑賞したでしょう。我が子を喰らうサトゥルヌス。ゴヤの黒い絵の1枚ですよ」
 その説明は確かに、先ほど書庫にいた時も聞いた。
「ゴヤは、自らが暮らした家の壁に、後に『黒い絵』と呼ばれる14枚の不気味な絵を描き残しているんです。その家は元の持ち主が聾者だったこともあり、『聾者の家』と呼ばれています。きっとこの家が『終末の家』と呼ばれているのを皮肉って、水南の母親が収集したものなのでしょう」
「……ミナエ、さん?」
 成美は、おぼに記憶している水南の母親の名を言った。
「そうです。実のところ、書庫のレプリカの大半を収集したのも、ミナエ――水南の母親だった人なんです」
 そうだったんだ――
 それは、ちょっとした驚きだった。
 本が水南のものだというから、てっきり絵も、水南が集めたとばかり思っていたのだ。
「さて。そんなことより、この建物の構造に、記憶のどこかが喚起されたりはしませんか」
 え――?
 戸惑う成美の前に、氷室は再び手帳に描いた黄金長方形の図を差し出した。
「この館はね、日高さん。カーテンや簡易な仕切りを取り除いてしまえば、1階も2階も、全ての部屋が正方形で構成されている。そして、各部屋の比率は黄金比と近似しているんですよ。この図とほぼ同じです」
「…………」
 黄金比と黄金長方形。
 水南の書斎で発見した絵の配列からなる数字――フィボナッチ数列。
「この館を作ったと言われる後藤伝八が、フィボナッチ数列や黄金比についてどれだけの知識があったかは知りません。あるいは偶然なのかもしれないし、建築した人物の仕業なのかもしれない。けれど『終末の家』の構造は、間違いなく全て黄金比に沿って作られているんです」
 目を見開く成美にわずかに微笑みかけてから、氷室は手帳を再びしまった。
「水南の絵からフィボナッチ数列を読み取るまでは、僕もその相似に気が付かなかった。あらためてここで全体を計測してみてはっきりと判りました。『終末の家』は、建物全体の大きさが黄金長方形で、正方形からなる各部屋の比率は黄金比に近似している。だからこの建物には、廊下と呼べるものがなにひとつないんですよ」
 そうなんだ……。
 成美は改めて、今まで通ってきた室内を思い返してみた。
 部屋の大きさなど意識したこともなかったが、確かに全ての部屋が正方形で構成されていた――ような気がする。そして部屋の大きさはすべてがまちまちだったような。
 でも普通、誰でもそうだと思うけれど、部屋の大きさや比率なんていちいち気にするものだろうか。
「黄金比って、身体にいい影響があるんですか」
「どうでしょう。――自然に寄り添うという意味ではそうなのかもしれませんが、むしろ美意識の問題だという気がしますね」
 美意識か。
 確かにそれなら納得できないでもない。伝八は、世界で一番美しい比率からなる建築物を、愛する奥さんの終の棲家に施したということなのだろうか。
 で……?
 成美は少しだけ首をかしげて氷室を見た。
「つまり氷室さんは――水南さんの絵から数列を読み取り、それで、この場所に辿り着いたという……ことなんですよね」
 私たちもアプローチは違うけど、結局はこの場所に辿り着いた。
 なんかこう――そんなに難しく考える必要があったのかな、みたいな。
「君らがここに来たのは、絵が描かれた場所がここだったから――ということでしたね」
「え、はい」
 質問を質問で返される。
 まるで内心を見ぬかれたようで、成美は少しばかり緊張した。
「けれど残念なことに、この場所から後藤家の鳥瞰図は描けない。外に出てみれば判りまずか、山頂から後藤家を見下ろすことはできません。位置的にも角度的にもあり得ないんですよ」
「…………ぇ」
「つまり君と雪村君は、偶然の思いつきでこの場所に来たにすぎない。最も水南が何かを隠したとして――その候補地として『終末の家』に行き着くのは当然至極です。ただ、それだけでは、水南の用意した答えにはたどり着けない」
 唖然とする成美を見下ろし、氷室はわずかに口の端をあげた。
「日高さん。ここで注視すべきなのは、1枚だけ安治谷駅に移されていた絵なんです」
「……どういうことですか」
 氷室は続く部屋の扉を開けた。壁をスライドさせなければ、そこに扉があることさえ判らない――雪村曰く隠し部屋だ。
 今の部屋の半分もないほどのひどく小さな部屋――空のデスクと本棚が残されていた部屋だ。
「ここは堺医師の書庫で、先ほど見せた黄金長方形内の比率でいえば、1の部屋にあたる場所です」
「つまり……一番最後の、一番小さな正方形、ですよね」
「そう。けれど黄金長方形が無限に小さくなることを考えると、ここは決して最後じゃない。この部屋からさらに正方形を取り除くと、また黄金長方形が現れるんです。そしてそれは永遠に続く」
 成美は少しだけ眉を寄せた。
「おっしゃる理屈は判りますけど、これ以上小さな部屋なんて、現実にはあり得ないですよ」
「日高さん、フィボナッチ数列は0と1から始まると先ほど説明しましたよね。でも水南の書庫の中には、0を示す絵はなかった」
「あ……」
 そういえばそうだ。
「0を示した絵こそが、安治谷駅にあった絵なんですよ。判らなかったのかもしれませんが、あの絵だけ唯一影が描かれていない。つまり影の比率は0なんです。そして、フィボナッチ数列を示す絵から一枚抜けた絵を探すのが最初のミッションなら、この館から0を探すのが次のミッションなのだと、僕は思いました」
 そこで言葉を切った氷室は、静かな目になって呟いた。
「……運命は、永遠の螺旋の下にある」
「なんですか」
「昔、水南がたわむれに僕に言った言葉です。その時は、もちろん意味など判らなかったし、深く考えもしなかった。水南は僕には理解出来ないことを言っては、いつも僕を振り回していたから」
「………………」
「……でも、水南のその言葉を思い出した時、僕はようやく理解したんです。これから何を探すにしても、ヒントはもう、僕の記憶の中にしか残されていないのだとね」
 
 
 
 氷室が足で蹴りつけた羽目板が跳ね上がった時、成美は背筋が粟立つのを感じた。
「最初はもう少し苦労しました。見つけるのも動かすのもね。隙間部分が石膏で塗り固めてあって、ちょっとやそっとではどうにもならなかった。――いったん道具を取りに山を降りて、出なおしてようやくでした」
 緩んだ正方形の板に手をかけ、氷室はそれを床から取り外した。1枚、2枚、そして下から、長方形の鉄の扉が現れる。
 成美はただ、呆然とそれを見ていた。
 地下があるんだ―――
 黄金長方形から正方形を切り取ってできる長方形。つまり、永遠に0にはならないけれど、限りなく0に近くなっていく場所――永遠の、螺旋の下。
 膝をついた氷室が、細い取手を掴んで、観音開きの扉をあける。
 真っ暗な闇の下に続く階段。地下から、風がうなる音が微かに聞こえた。
「どうして……こんな場所を作ったんでしょう」
「さぁね。用途はいくらでも思いつきますが今は言いません。君がとても怖がるだろうから」
 なんだろう。それ。
 けれど成美にも、この閉鎖された地下の用途がひとつだけ頭に浮かんだ。
 閉じ込めたのではないだろうか。病が極度に進行し、制御することが難しくなった病人たちを。
「後藤氏が土地建物を手放すのを嫌ったのは、おそらくこの地下室の存在を疑っていためですよ。昔と違って、今は工事に関わった人全ての口を塞ぐことなんて不可能だ。そうでなくとも、あの人はおそろしく猜疑心に満ちた人ですからね」
「……なにがあるんですか。ここに」
 答えず氷室は、担いできたバックパックの中から懐中時計を取り出した。
「行きましょう。階段が急なので気をつけてください」












 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。