『終末の家』――
 何十年も放置されている廃屋は、やはり先日来た時と同じで、侵入者を拒絶するような不気味さを漂わせていた。
 巨大な看板と鉄条網が、建物の危険さを執拗に訴えている。
「これ、本当なんですか」
 医療廃棄物有り、という看板を指さして、成美は訊いた。
「嘘ですよ」
 あっさりと氷室は答える。
「もちろん医療行為をしていたわけですから、医療廃棄物は出たでしょう。でもそれはきちんと法にのっとった処理していたはずです。昔のことは知りませんが――少なくとも僕が知る医師は、そんな適当な人じゃない」
「……堺医師、ですか」
「ええ。それ以前になると、もう戦前のことになるので、確かなことはわからないですけどね」
「じゃあ、どうしてこんな嘘の看板を?」
「むろん、人を近づけさせないためですよ。僕らが今来た舗装道を隠しているのも、山の裏側にあるバリケードや立ち入り禁止の看板も、全てそのためのものですから」
「なにも野犬のためだけに、こんな大袈裟なことをしてるわけじゃ、……ないですよね」
 成美はおそるおそる、氷室の横顔を窺った。
「ここは本当は、何を隠すための場所だったんですか」
 氷室が足をとめて、振り返る。
「何を、とは?」
「え、だから」
 彼の目の鋭さに、用意していた言い訳も出てこない。成美はうろたえて視線を下げる。
「君はもう、答えをあらかじめ推測した上で、その質問をしているのではないですか」
「………………」
 怖いくらい冷たい声。
 判っている。またしても、踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったのだろう。今彼が感じた腹立たしさが、言葉がなくても伝わってくるようだ。
「……その、これも雪村さんが調べてくれたことで……、迷信だとは思うんですけど、後藤家の女性には代々疾患みたいなものがあった、……とか」
「出産後に山にこもって悪魔の子を産むとか?」
「あ、そうそう。なんかそんな。笑っちゃいますよね。口裂け女か、都市伝説みたいな」
 成美は冗談で誤魔化そうとしたが、氷室の表情は堅いままだった。
「……本当の、話なんですか」
「本当だと思いますか?」
「…………いえ。怒って、ますよね?」
 氷室はひとつため息をついた。 
「まぁね。ただ僕も、君らの野次馬根性を馬鹿にはできない。まだ後藤家にいた頃、案外真剣にそういった噂や伝承を検証したことがありますから」
「そうなん、ですか」
「言ったでしょう? 僕はどんな些細なことでもいいから、水南の弱点を掴みたかった。後藤家の歴史のことなら、少なくとも君よりは詳しいですよ」
 じゃあ――
 教えてください。という成美の無言のオーラを感じ取ったのか、氷室は諦めたように嘆息した。
 
 
 
「明治の頃の話ですよ。――代々後藤家はこのあたりの大領主で、もともと評判の悪い家でしたが、7代目当主伝八が最悪だった。――そのあたりのことは、雪村君と調べたのでは?」
 7代目当主。後藤伝八。
 ドキリとして、成美は急いで頷いた。
 後藤家の婿養子で、『狂犬領主』と称されていた男。
 三条家の祖先にあたる人で、三条の話を信じれば、容貌は三条守と瓜二つだったという。
「……なんでもひどく乱暴な人で、気に入らない相手には犬をけしかけたんだ、みたいな話は……聞きました」
 成美は、雪村から聞かされたことを思い出しながら、おそるおそる答えた。
「でも奥様が心優しい人で、……後藤家がキリスト教を信仰しはじめたのは、奥様がきっかけだったっていう話も聞きました。名前は確か……ト……」
「トワ。永遠という字を書きます」
 氷室が後をついで、視線をどこか遠くに向けた。
「永遠を象った慰霊碑がこの山のどこかにあったんだそうですが、戦時中になくなったといわれています。愛妻家だった伝八が自分にしか判らない場所に作らせたという話なので、本当にそんなものがあったかどうかさえ確かではありませんがね」
 想像以上の氷室の知識の深さに、成美は少し驚きながら頷いた。
「『狂犬領主』と呼ばれた後藤伝八は、それはもうひどく横暴で残忍な殿様だった……。そのあたりを雪村君は、かなりぼかして君に伝えたんでしょうね。――後年、当時のことを引き合いに、後藤家がたたられているとか呪われているとか言われるのも仕方がない。無残な殺され方をした使用人や小作人は、おそらく相当数に登っていたはずですから」
 成美はごくりと唾を飲んだ。
「その上で、後藤家の女が悪魔の子を産むという伝承ですが――」
 言葉をきり、氷室は少しだけ眉を寄せた。
「それは伝八の当主時代、後藤家の使用人にひろまった奇病に端を発した噂なんだと思いますね」
「奇病……?」
「ええ」
 かろうじて曇っていた空に、黒い雲がたちこめはじめる。
 成美はどこか不安な気持になり、少しだけ氷室と距離を詰めた。
「不意に身体を激しく痙攣させたり、錯乱状態であらぬ妄想を見るようになったり、嵐の夜に一晩中奇声を張り上げたり……、最後は高熱を発し全身が麻痺して亡くなるんです。まさにたたりとしかいいようのない奇病でしょう」
 成美は眉をしかめながら頷いた。――なんだろう、それは。それもまた伝承のひとつ……?
「それ、本当にあったことなんですか」
「もちろん。伝承でもなんでもない――事実です」
 氷室は暗い目をして視線を診療所の方に向けた。
「そもそもこの建物は、半ば狂人と化した使用人たちを、世間から隔離するための隔離施設だったんですよ。――そして、そんな業病があったことすら葬り去られた。後藤家が外聞を畏れてもみ消したんです。なにしろその奇病を引き起こした原因は、間違いなく伝八にあったんですから」
「……どういうことですか」
「狂犬病ですよ」
 あっさりと、けれどどこか暗い声で氷室は言った。
 あ――
「君らも調べたと思いますが、伝八は獰猛な土佐犬を溺愛し、使用人を懲罰するのに犬に噛み殺させたこともあったんです。領主に似てひどく凶暴な犬たちは、おそらく狂犬病に感染していたんでしょう。当然、人も噛まれてしまえば感染する。――そして狂犬病は、発症してしまえば現在でも治療法はないんです。痙攣、錯乱、高熱を発し、100パーセントの確率で死亡する」
「………………」
「感染した憐れな使用人たちは、おそらく全員、この山の隔離施設に閉じ込められ、対処療法すら受けることなく、人とは思えない姿で死んでいったんでしょうね。誰にもその存在を知られることなく、ただ得体のしれない恐怖だけを後世に残して」
「…………」
「サバトを開いているだの、悪魔が降臨しただの、そんな馬鹿げた噂が広まったのは、発病した患者の咆吼を聞いたり見たりした村民たちが、いらぬ想像を膨らませたんだと思います。後藤家もまた、その噂をあえて否定しなかった。おそらくもっと大きな犯罪を隠すためにね」
 そんな――それでは、悪魔と交わっていたとか、あり得ない濡れ衣を着せられた永遠という人があまりにも可哀想だ。
 が、成美が口を開く前に、淡々と氷室は続けた。
「けれど因果応報のことわりどおり、それから数年後、伝八はとんでもないしっぺ返しをくらうことになるんですよ。よりにもよって、伝八が誰よりも大切にしていた妻の永遠が、待望の第一子の妊娠中に発症したんです」
 どこかで、また野犬の咆哮が聞こえたような気がした。
「狂犬病の潜伏期間は、暴露した部位によっては年単位になる。――伝八は、泣く泣く永遠を『終末の家』に隔離したんです。ここで永遠がどんな末路を向かえたかは想像に難くない。それこそが、後藤家の女は悪魔の子を産む――云々の伝承の始まりだったんですから」











 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。