「――年末……後藤家に戻った僕は、この書庫で、ただひたすら青い本を探し続けました」
 腕を組み、前をじっと見つめたまま、静かな口調で氷室は続けた。
「本をひとつひとつ辿りながら、僕は次第に、その時々の水南との思い出に心が侵されていくのを感じました。この部屋は、彼女が生きた証で埋め尽くされている。――どうしたって、彼女を思い出さずにはいられない。 たとえどれだけ、心を閉ざそうとしても」
 成美は黙って氷室の言葉の続きを待った。
「僕は後藤家に戻ったことを激しく後悔しましたが、それでももう、この書庫にずっとこもっていたいという欲求に心を奪われかけていた。そして改めて理解したんです。僕はこうなるのが怖くて、ずっと水南から逃げ回っていたんだとね」
「……こうなるの、とは?」
 成美の問いに、氷室は少しだけ目を細くした。
「僕は水南を、幾度憎んだかわかりません。幼少時、思春期、青年期、水南はいつでも僕を蹂躙する支配者だった。そして何度も僕を欺き、顔色ひとつ変えずに地獄に突き落とした。……まるでホロフェルネスを殺したユディトのように」
 氷室は視線をわずかにあげ、そして下げた。
「それでも水南に会えば――その声を一度でも聞いてしまえば、愚かな僕は自身が受けた仕打ちも忘れ、また、逃げ場のない地獄に堕ちてしまうでしょう。それが判っていたから、僕は水南の生前も死後も、彼女を連想させるものと一切関わらないようにしていたんです」
「………………」
 つまり――
 氷室をぼんやりと見つめながら、成美は自分のブロファイルがまるで見当違いだったことを理解した。
 氷室が、柏原明凛をはじめとする、クール系の美女を敬遠するのは、何も彼女らのようなタイプが苦手だったからではない。
 むしろその逆で、――氷室は、自分の心が再び水南で満たされてしまうことを恐れていたのだ。――
「僕にとって、きっと水南は麻薬のようなものなんです。どれだけ憎んでも、彼女の顔を見た途端、ただ心を奪われるしかない。そういう関係をなんと言えばいいのか僕には判りませんが――、僕は年末、この部屋でただ無力感にうちのめされていました。水南はもうどこにもいない。そして、僕にはもう君がいるのに」
「………………」
「水南の声や、ないはずの温もりが、僕を包んで離さない――彼女が僕を愛したことなど一度もないはすなのに、傍にいてと幻の声がささやき続ける。――そう、志都さんの言うように、僕はその夜、彼女の声や腕を振りきって、この屋敷から逃げ出したんです」
 氷室は一息ついてから、軽く唇を噛んだ。
「あの夜……30日の夜、外に出た僕はようやく冷静さを取り戻しました。すぐにでもこの街を出て君のところに戻りたかった。けれどその時の僕には、東京に留まって決断しなければならないことが、ひとつだけあったんです。――後藤の屋敷を手放すかどうかです」
 そこで言葉を切った氷室はしばらく黙った後で、言葉を継いだ。
「年末の29日のことです。僕が後藤家に戻ってすぐに、三条が訪ねて来た。そして僕に、屋敷を売るよういつになく強い口調で迫ったんです。――話が前後しますが、僕と彼は、水南の死後、後藤家の屋敷の処遇を巡ってずっと対立していたんですよ」
「……と、いうと」
「三条は、屋敷を全て解体し、更地にして売却するよう水南から遺言されたと言ってきたんです。自分がそれを託されたから、不動産全てを言い値で売却しろという。……僕は――僕というより屋敷の元の所有者である後藤氏は、それに真っ向から反対しました。ならば屋敷を買い戻すとまで言ってきた。僕はそれだけはしたくなかった。ですから後藤氏に改めて誓約書を出し、僕が死ぬまで不動産管理すると約束したんです」
 成美はわずかに眉を寄せた。
「あの……、どうして後藤議員に買い取ってもらうのが駄目だったんでしょうか」
 思い出の家を壊したくない気持は理解できる。だとしたら、元の持ち主に買い戻してもらうのが、この場合一番いい気がするのに。
「僕は後藤氏の言葉も約束も信じていないし、僕自身もまた、彼との約束を馬鹿正直に履行する気はありません。――一言でいえば、僕は後藤雅治晴という人間を、何一つ信用していないんです。払う敬意さえもちあわせていない」
「………………」
 淡々と――けれど、とりつくしまのないほど冷めた口調で氷室は続けた。
「後藤氏に不動産を渡してしまえば、水南の正式な相続人が受けるべき財産が不当に奪われるおそれがあります。同じ理由で、三条に売却するのも、僕の一存で決めるべきではないと思ったんですよ」
「………………」
「その人物が少なくとも成人するまで、待つべきだと思ったんです」
 それは――
 その人物というのは、水南さんの産んだ子供……?
 今まで、まるでその存在が禁忌のように、水南の子のことは、その名前も今どうしているかも、誰も語ってはくれなかった。
 けれど後藤水南の遺児であり、氷室にとっての戸籍上の実子は確かにこの世に存在しているのだ。
「……三条さんが、言ってることは本当なんですか」
 矢継ぎ早に質問したいのを押さえて、成美は訊いた。
「本当とは?」 
「屋敷を……売却して更地にするのが、水南さんの遺言だって」
 氷室は少しだけ口の端をあげた。
「さぁね」
「さぁねって」
「紙として何も残さないのが、逆にいかにも水南らしくてね。――僕と三条が確実にもめるのが判ってそうしたのでしょう。死んでもなお僕らを弄んで振り回す、水南らしいやり口ですよ」
「………………」
 そうなんだろうか。
 もちろん私は、氷室さんほど水南さんのことを知らないけど、でも――
「もし水南さんの遺言が本当の話なら、三条さんと、水南さんの相続人も含めて話しあえばいいんじゃないですか。もしかすると水南さんも、それを望んでいたのかもしれないし」
「それとは?」
「だから、氷室さんと三条さんが、話し合うのを」
 氷室の横顔が、冷めた笑いを浮かべるのが判った。
「なんのために?」
 なんのって……。
「そもそも僕らの間に和解も話し合いも成立しない。生きている限り、永遠にね」
「――どうして」
「どうして? 君は三条の口から、彼が僕を憎む理由を聞いたのではないんですか。生憎、三条が僕を許せないように、僕も三条を許すことはできないんです。何があってもね」
「…………」
 どういうこと?
 三条さんだけでなく、氷室さんもまた三条さんを憎んでいるの?
 2人には一体、何があったの……?
「いずれにしても、僕は訪ねてきた三条をにべもなくはねつけ、追い返そうとした。そんな僕に、奴は揺さぶりをかけてきたんです。――君を、つかって」
 えっ……?
 いきなり自分が出てきたので、成美は驚いて瞬きをした。
「奴が君の名を出した時、僕はうかつにもひどく動揺し、それを奴に見ぬかれてしまった。奴は君のことを調べているといいました。それも随分以前から。――話を元に戻します、後藤家から逃げ出した夜、僕は1人きりで外を歩きながら、この春から僕らの傍に突如現れた男のことをようやく思い出したんです。そして三条に雇われているのは、その男に違いないと確信しました」
 どくん、と心臓が高く鳴った。
 ここでひとつ、私が今まで調べてきたことと、氷室の行動が繋がった。
「……紀里谷さん、ですね」
「そうです。僕がまずしなければならないのは、紀里谷を捕まえ、あの男に全てを白状させることだと思いました。後のことは――わかりますね」
 成美は小さく頷いた。
 氷室は紀里谷の姉に連絡をとり、車のGPSを使って紀里谷の後を追いかけたのだ。そして野槌駅で追いついた。
「あの日、紀里谷の車の前で君を見つけた時――僕がどれだけ驚いたか判りますか。君も驚いたでしょうが、僕の驚きはおそらくそれ以上でした。そして強い不安を覚えたんです。この感覚は、まるで」
 まるで……?
 氷室は、何かに耐えるようにきつく眉根を寄せた。
「……昔、後藤家にいた頃、頻繁に感じた無力感によく似ていたから……、僕が自分で判断して動いているはずなのに、気づけば水南の思惑通りに動かされていた……あの嫌な感覚に」
「…………」
「その予感は、初恋の人を探して安治谷駅に行くという君の話を聞いて、ほぼ確信に変わりました。――僕は安治谷に意図的に誘導されようとしている。遡れば、僕が年末、本探しという奇妙な役目を仰せつかって後藤家に引き戻されたのも、三条がいつになく脅迫的で、しかも君の名前を出してきたのも、全てそのためのものだったのだと」
「どういうことなんですか」
「三条の言葉に動揺した僕が、いずれ紀里谷にたどり着くのは、想定の範囲内だったということですよ。――紀里谷がGPS付きの車で移動していたのも、おそらく計画通りだったんでしょう。そしてその日、紀里谷は三条守の指示どおり、君の傍に張り付いていた――違いますか?」
「…………」
 そのとおりだ。
 全く意味不明のストーカー行為。
 あの吹雪の日、紀里谷は成美を実家まで尾行し、家の前に車をとめて動こうとしなかった。その挙句車をエンストさせてしまったのだ。
「つまり僕は、どうしたって紀里谷を追って、君にたどり着くようになっていたんです。いや、少なくとも――紀里谷が辿った後を追うようにはなっていた。そして、結局、安治谷駅にたどり着いていたんです」
「待ってください」
 成美は混乱しながら、氷室の話を遮った。
「紀里谷さんが私に張り付いていたのは確かですけど――でも、安治谷駅に行くことになったのは、私が言い出したからなんです。それは私の胸ひとつにしまっていたことで、誰も予測なんてできないはずです」
「そうでしょうか?」
 氷室は静かに成美を見た。
「仮に君が言い出さなくても、君は必ず、安治谷駅に紀里谷と一緒に行っていたような気がします。……なぜならその時点で、紀里谷は君の過去を――安治谷駅で起きたことも含めて全てを調べあげていたからです。君が言い出さなくても、紀里谷が君を誘導していたでしょう。それがあの日の紀里谷の役目だったからです」
「……役目……?」
「君を使って、僕を安治谷駅におびきよせるための。紀里谷はそのためのコマだったんですよ」
 駒……。
 呆然とする成美から目をそらし、氷室は上着のポケットに手を滑らせた。再び出した手には、折りたたんだ白い紙がある。成美はおずおずとそれを受け取った。
「これ……」
 書かれている文字はたったの一行だけだった。
 その、美しく力強い筆跡が、確かに後藤水南がこの世に生きていた証のようで、――成美はしばらくものをいうことができなかった。
 彼はそんな成美を暗い目で見下ろし、再び成美の手からその紙をとりあげた。
「水南はもう、1年以上も前にこの手紙を安治谷駅の駅員にあずけていた。――彼女は僕が、必ずあの駅に行くことを確信していたんです」
「………………」
「駅で、水南の描いた絵を見つけた時」
 手紙を再びポケットにしまいこんだ氷室は、目を細めて頭上の水南を見あげた。
「うかつにも僕はようやく確信しました。これは水南が、僕に仕掛けた最期のゲーム だったのだと」
「…………」
「君も記憶している通り、その後、僕は君と別れ、1人で東京に戻りました。一刻、いや一秒も早く、水南に投げられた謎の意味を理解したかった。僕の中の、水南といる時にしか得られないある種のアドレナリンが目を覚まし、死んでいた心を一気に満たしてしまったようだった。――激しい不安と、それと同じだけの知的興奮に酔っていたあの時の僕に――君を慮る気持があったかといえば、おそらく嘘になるでしょう」
「……………」
 成美は黙って氷室を見上げた。
 悲しいくらい正直で、そして残酷な告白だった。
 そうか。――私はもう、あの時点で水南さんに負けていたんだ。
 いや、違う。もうそれ以前の、ずっと前から負けていた。
 彼は今、死んでいた心が――と言ったのだ。
 つまり彼の心は、水南さんを失った時に死んでしまっていたことになる。
「その時からもう、僕は君の隣にいる資格を失っていたのかもしれませんね」
 氷室はどこか寂しく微笑むと、黙って水南の肖像画を見つめた。









 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。