氷室さんの――記憶の中……?
 氷室の口から出た意外な言葉に、成美は驚きを顔から消すのも忘れて彼と、その前に立つ向井志都を交互に見た。
 記憶の中に隠す? それはどういう意味だろう。
 そういえば、雪村さんも同じようなことを言っていた。氷室さんだけに通じる隠語――もしくは、氷室と水南、2人にしか判らない思い出の中にヒントがあるのではないかと。 
「……気づくのか、少々遅すぎなのではございませんか」
 志都の淡々とした声がした。
「やはりあなたは、お嬢様の足元にも及ばない。――どこまでいってもお嬢様の敵ではございませんね」
「返す言葉もありません」
 何か言いかけたように口を開いた向井志都の目が、ふと潤み、彼女は急いで顔をそむけた。
「そう――そういうことなら、中に入るのを許可します。でも今度こそ、絶対に見つけなければ許しませんよ。あれは、お嬢様が最後に残した――真実なんですから」
  
 
 
「書庫に行くんですか」
「ええ」
 前を歩く氷室の背を追って、成美は再び後藤邸の暗い廊下を歩いていた。
 一昨日、雪村と歩いたばかりの廊下。この先には水南の書庫しかない。
「でも書庫に――探している本はないですよね」
「おそらくね」
 おそらく?
「志都さんにああはいいましたが、実のところ本に関してはまるで見当がつかないんです。仮に隠し場所を示したヒントが僕の記憶の中にあるとして――そうだとしても、僕はまだ、それを思い出せていないんですから」
「…………」
「そのためには、僕は――、過去に葬った記憶を喚起し、蓋を閉じてしまった部分までも開かなくてはならないんでしょうね。それでも思い出せるかどうか。……本当に水南は性格が悪い。改めてそれがよく判りましたよ」
 諦めたような冷笑を浮かべると、氷室は「年末のことを話しましょう」と言った。
「僕のところに、先ほどの向井志都さんから電話があったのが、12月に入って間もない頃だったかな。――内容は君も知っているでしょう。水南が死に際に僕に言い遺したことがある。青い本を探してほしい。タイトルも作者名もない青い本を」
 成美は小さく頷いた。
「それだけでも十分奇妙な話ですが、何故今になって――と、思いました。水南が亡くなったのは8月です。彼女の財産と戸籍を整理する間、遺言のことなど何一つでてこなかったのに、何故今になって、と」
 当時の感情を思い出すように、氷室は眉を微かに寄せた。
「それを訊くと、志都さんはこう答えました。東京に雪が降った時に伝えるように言われたのだと。――僕は水南の精神状態を疑いました。ご承知かもしれませんが、癌の末期というのは、意識が殆どありませんからね。しかも水南の病巣は、すでに脳に転移していたという話でしたから」
 今度は成美が眉を寄せて、小さい頷きだけを返した。
 なんて残酷な話だろうか――彼女はまだ、30代前半という若さだったのに。
「話そのものが信頼できず、僕はいったんは断りました。でも志都さんは諦めなかった。結局何度も電話で催促され、渋々後藤邸に行くことを決めたんです。その頃――君も記憶していると思いますが、僕はひどく忙しくて週末もろくに休めない状況だった。まとまった休みがとれるのは年末年始だけだったので、その時に行くと約束したんです。――正直、本気で探す気などさらさらなく、志都さんを納得させるためだけに行ったようなものでしたが」
「……そうだったんですか?」
 知らず、非難するような口調になったのは、すでに向井志都に同情的になっていたからかもしれない。氷室が、その感情を読み取ったように苦笑する。
「君はひどいと思うかもしれませんが――そして実際、ひどいのでしょうが、僕はもう、二度と水南に関わり合いたくなかったんです。どんな形であれ、水南の言い残したわけのわからない謎に振り回されるのは迷惑以外のなにものでもなかった。だから――そう、とりあえず書庫に入ったんです。ここをひと通り見れば、志都さんも納得するだろうと思って」
 氷室はわずかに目を細めた。
「……でもそれが、水南の最初の罠であり、僕の最初の失敗だった。僕は書庫に足を踏み入れた。――そうして再び、水南に心を侵食されていったんです」
 
 
 書庫の扉が、きしんだ音をたててゆっくりと開く。
 昼前だというのに日が差さない部屋は、今も薄暗く陰っていた。そんな中、不気味な西洋絵画たちが、奇妙にくっきりと際立って見える。
「怖いと思いませんでしたか?」
「えっ?」
 扉の手前で足をすくませてしまった成美を見下ろし、氷室は微笑した。
「僕は怖かった。――子供の頃は、この部屋に入るのが嫌で嫌で仕方がなかった。それもそのはずで、そもそもこの部屋は、侵入者を意図的に怖がらせるようにできているんです」
 氷室は慣れた足取りで室内に入ると、電灯をつけた。それでも、部屋の大半を閉める高い書棚のせいで、細部まで光が行き届かない。むしろ、床に伸びる書棚の影が、いっそう不気味さをかきたてる。
「壁を彩るのは大半が宗教画。しかも残酷な死をイメージしたものばかりです。死のイメージは、人の知的恐怖と肉体的恐怖を同時に呼び起こす。この絵を知っていますか?」
 氷室が見上げているのは、成美が一番怖かった絵。暗い色調の中、狂気にも似た表情をした巨人が、裸の人間を鷲掴みにし、頭からかじっている絵だ。
「……我が子を喰らうサトゥルヌス。スペインの画家、フランシスコ・デ・ゴヤが、その晩年、自身の住居の壁に書いた『黒い絵』の中の一枚です」
「黒い、絵?」
「14枚の壁画全てが、黒をモチーフとして描かれているからそう呼ばれているんですよ。どれも負けず劣らずの薄気味悪さですが、その中でもこの絵は別格です。タイトルから察しがつくように、サトゥルヌスが食べているのは自分の子なんですから」
 成美は改めて、背筋が寒くなるのを感じた。絵のタイトルについては、雪村が口にしたからなんとなく記憶してはいたが、意味までは深く考えなかった。自分の子どもを、食べる。
「サトゥルヌスは、ローマ神話の中に出てくる農耕の神ですが、我が子に殺されるという予言を恐れるあまり、子供を次々と食い殺したといわれています。ようは神話で、ルーベンスも同じモチーフで絵を描いているんですよ。ただ、ここまで狂気に満ちてはいませんがね」
 氷室は絵の前までゆっくりと歩み寄り、そこで足を止めた。
「初めてこの絵を見て、足をすくませている10歳の僕をどうか想像してみてください。その時、僕より2歳年上の水南は、僕にこんなことを教えてくれたんです。この絵は後に修復されたもので、修復前のサトゥルヌスには勃起した性器が描かれていたと」
 成美は眉をしかめて氷室を見た。口に出して聞くのも忌まわしい気がした。勃起――していた?
「勃起した陰茎を指して、サトゥルヌスには生を司る一面もあった、などと解釈される向きもあるようですが、僕には極度の興奮状態を示したものとしか思えなかった。――一種の快楽殺人。……もしくはカニバリズムを性行為と置き換えるならば、これはサトゥルヌスが我が子を陵辱する図だとも解釈できる」
「…………」
「いずれにしても、サトゥルヌスは我が子を畏れた。恐れるあまり、狂気に走った――。わかりますか、日高さん。この絵が一番目立つ場所にあるのは、それが一種の警告だからなんですよ」
「警告……」
 成美の呟きを無視して、氷室はゆっくりと歩き始めた。そして続けた。
「この部屋の怖さは、書棚の影に行く手が遮られて、次の絵が予測しづらいことにあります。もしかすると最初に観た絵以上におそろしいものが出てくるかもしれないという恐怖――。お化け屋敷の原理ですよ。つまりこの部屋は、意図的に侵入者を怯えさせるようにできているんです」
「……どうして、ですか?」
 氷室が次の絵の前で足を止める。
 2人の女が、1人の男を寝台の上でおさえつけ、首に刃をあてている絵だ。寝台は男の流す血ですでに赤く濡れている。
「……ホロフェルネスを殺すユディト。美しく信仰心あふれる未亡人ユディトが、敵将であるホロフェルネスを酔い潰し、その首を切り落とす場面です。色んな画家によって描かれていますが、ここにあるジェンティレスキのものが一番残酷で、僕など怖気を振るいそうになる。女はその信仰を守るためなら、いくらでも残忍になれるという――これもまた、警告でしょうね」
 また警告。――どういう意味だろう。
「2人の女……、1人はおそらくユディトのしもべでしょうが、女2人に上半身を押さえつけられ、絶命しようとしている男の顔の憐れさと無力さ。その一方で、ユディトとしもべ女は顔色一つ変えていない。ほとんど事務的にこの仕事をやってのけようとしているのが想像できる。画家のジェンティレスキは女性です。これは女性ならではの視点であり――ある意味男性が想像すらできない、女の、真実の姿なんでしょうね」
 氷室は次の絵に視線を向ける。男の生首を手に、奇妙な無表情さで佇む女の絵だ。
「別の画家によって描かれたものですが、先ほどの絵の続きですよ。ホロフェルネスの頭部を持つユディト。この冷たい――勝利にすら冷淡に笑むユディトの表情がまた恐ろしい」
 氷室が視線を巡らせる。次の絵を、彼の視界が捉える前に――先に目をそむけてしまったのは成美だった。
「……………」
 氷室は何も言わず、しばらくその絵を見つめた後で、成美の方を振り返った。
「この部屋の絵の解説をする前に、……年末に起きたことの続きを話しましょうか」
 成美は、やはり氷室の顔が見られないまま、小さな頷きだけを返す。
 氷室は壁に背を預けて両腕を組んだ。
 その頭上では水南が――16歳の、神々しいまでに美しい後藤水南が、あたかも断罪者のように地上の2人を見下ろしている――








 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。