8

「――って、どうしてユ○クロとかし○むらにしてくれなかったんですか!」
「行きつけていない店で物を買うのは心もとないので」
 氷室は、成美の選んだバーゲン物を、ちょっと眉をひそめてから取り上げた。
「こんなもので?」
「十分です!」
 都内の某有名百貨店。
 エントランスには、イギリス貴族風の衣装に身を包んだドアマンまで立っていた。最初、成美はそこをホテルだと勘違いしたくらいだ。
 すでに着替えまで済ませた氷室は、上から下までカジュアルな衣服に身を包んでいる。
 その氷室は、少し真面目な目で成美を見下ろした。
「値段のことを言っているんじゃない。暑いでしょうが長袖にしてください。山に入る時の鉄則ですよ。それから長ズボンと靴下と靴も」
「わ、わかりました。今からすぐ選んできますから」
 なんだろう。自分は5月にアルマーニのスーツとかで同じ場所に入っていったくせに。
 まぁ、氷室も成美同様、その時身にしみたのかもしれない。山には山にふさわしい服装がある、と。
 一昨日の成美は、むき出しの足を怪我した挙句、服は泥汚れと汗でヨレヨレになってしまった。今思ってもぞっとする。よくもまぁ、そのままの格好で氷室のいる町に向かえたものだ。
「まぁ、こんなものでしょうね」
 成美が選んだ一揃えを見て、氷室はどこか不満顔だったが、すぐにそばにいる女性店員に声をかけた。
「すみません。ここで着て帰りたいのですが」
「はい。もちろん結構でございますよ」
 にこやかに氷室を見て微笑む女性店員。すぐにレジにいた別の女性店員が駆け寄ってきて、成美に丁寧に「どうぞ」と言う。
「いいですね。今から奥様とアウトドアですか」
「そんなところです。会計をお願いしても?」
「ちょっ……」
 試着室に向かっていた成美は、背後で交わされるその会話に、ぎょっとして振り返った。
 すぐに氷室に駆け寄り、袖を掴んで声をひそめる。
「そんなのいいし、困ります」
「いいですよ。今回は僕の都合でこうなったんですから」
 そんなこと言われても。
「……氷室さん、無理しないでください」
 成美はますます声をひそめた。
「私なら、月末がボーナスなので、ちょっとくらい余裕がありますから」
「………………」
 しばらく黙って成美を見ていた氷室は、やがてひとつ息をつくと、背後の店員を振り返った。
「会計はカードでお願いできますか」
「はい」
 氷室が出したカードを見た店員が、わずかに顔を緊張させるのが判った。
「あの……お客様、もしよろしければ、奥様がお着替えの間、コーヒーでもお持ちしましょうか」
「ありがとう。でも結構です。それより妻のメイクを少し直していただけますか」
「喜んで」
 な、なになに、何か、何気にVIP対応されてるような気がするのは気のせいですか?
 さっき氷室さんが出したカード、表面が真っ黒だった。そんな色のカード初めて見たけど――まさか……まさかと思うけど、都市伝説のブラックカード?
「ひ、氷室さん。ついこの前、お金がなくなったって言ってませんでしたっけ」
「なくなりましたよ。手持ちの現金がね」
「……………………」
 成美はぽかんと口をあけた。
 現金て。
 だからって、建設現場で働いて、かつ社員寮とかに入ります?
 ただの嫌味じゃないですか。
 銀行で下ろせばいいだけじゃないですか!!
 
 
 
 
「ひとつ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
 前を歩く氷室の背を、成美は唇を尖らせて、ちょっとだけ睨んだ。
 いつ降りだしてもおかしくない灰色の空の下。水たまりをよけながら、2人は槐が生い茂るゆるい坂道を歩いていた。
「――ブラさんって、奇妙なアダ名の由来ですけど」
「ああ……」
 歩調を緩めた氷室は、うんざりしたように眉をあげた。
「周りが勝手にそんな噂をたてただけで、僕は肯定も否定もしていない。だいたいご承知でしょうか? ブランド物の偽物を、それと知って購入するのは犯罪です」
「し、知ってますよ。それくらい」
 ということは、つまり――部屋にあった食器や家具のあれこれは、模造品でもなんでもなく――
「じゃ、もうひとつ。社員寮に入るとか、そんな嫌味な真似をしたのは何故ですか」
「郷に入っては郷に従えというでしょう。1日も早く、会社の仲間に馴染みたかっただけですよ」
 それはそうですけど――いや、そうじゃなくて。
「だいたい、なんでそんな、柄でもない仕事を始めたんですか。そっからしておかしいじゃないですか!」
「別に、柄でもないわけじゃないですよ」
 ふと気づくと、前を歩く氷室の横顔がなんだか少し楽しそうに見えた。
「現場仕事も性に合っていたし、無能な社長を助けて地方の零細企業を一から成長させていくのにも張り合いを感じますし、ね」
「…………なんか、なにげに失礼なこと言ってません?」
 氷室が少しだけ喉を鳴らした。
 え? 笑ってる?
 成美は瞬きをして、一瞬だけ足を停めた。
 嘘、氷室さんが笑った。
 慌てて後を追って、成美はもう一度、氷室の表情を確かめようとした。
 けれど――もう、その横顔は。
「……君といると、無駄に現実を忘れそうで困りますよ」
 氷室は足をとめ、ようやく坂の上に姿を現したものを見つめている。
 成美も黙って、氷室が見ているものを見た。
 後藤邸――
 灰色の空の下、背後に濃霧たちこめる山を背負って。
「行きましょうか」
 氷室が再び歩き出す。
 成美は黙ってその後を追った。
 彼にとっての始まりの場所。――そしておそらく、終わりにしようと決めた場所へ。
 
 
 
「――これ以上先に進むことは許しませんよ」
 勝手口が見えてきたところで、鋭い声が2人の行く手を遮った。
 成美が顔をあげると、勝手口付近を覆うライラックの茂みの影から、灰色のワンピースに身を包んだ女が現れた。
 向井志都だ。
 氷室が足をとめ、少し間を置いてから一礼する。
 その背後に立つ成美も、急いでそれに習い、戸惑いながらお辞儀をした。
 向井志都。後藤水南をあたかも母親のように愛し、ゆえに氷室を敵視する女。 その志都が、まるで待ち構えていたかのようなタイミングで現れたのは、どういう理由だろう。
 志都は眉ひとつ動かさず、冷淡な表情で足を停めた2人を見ている。
 最初に口を開いたのは氷室だった。
「……志都さん。その節は大変」
「この家になんの御用でしょう」
 憎悪さえ感じられる口調で、志都は氷室の言葉を遮った。
「もうこのお屋敷も土地も、天さんのものではございませんよ。いえ、天さんには二度と、指一本触れさせません。今すぐお帰りください。そして二度とおいでにならないでください」
 氷室は少しの間黙ってから、小さく息をついた。
「まだ、連絡がきていないようなら説明させてください。実は今朝、三条氏に電話を」
「三条様に屋敷に入る許可を得たのでしょう。知っていますよ。それが?」
 志都は再び容赦なく遮って、顎をあげた。
「三条様がなんとおおせになろうと、ここの管理を私がいいつかっている限り返事は同じです。――あなただけは、二度と、この屋敷の敷居をまたがせない。お引取りください」
「……志都さん」
「だいたいもうお忘れですか? あなたはご自分の意思でここを出て行かれたのですよ。責任の何もかもを打ち捨てて――結局逃げることを選んだ弱いあなたが、いまさらどの面を下げてここまでこられたんでしょうか!」
 成美は一方的に言われるままの氷室の背を見た。
 彼のために、何か――なんでもいいから弁護したかった。けれど今が、その場面でないことも判っている。
 そもそも成美は、氷室が何故後藤家に自分を連れてきたのか、その理由を知らされていない。
 今朝、三条守に許可をとった――その事自体が初耳だ。一体氷室はなんのために、そこまでして一度は手放した後藤家に再び戻ろうとしているのだろう。
「この悪党……。立ち去らないなら、警察を呼びますよ」
 黙る氷室から顔をそむけ、志都は憎々しげに毒づいた。
「そうされたくなければ、早くこの場から立ち去ってください。そして二度と」
「水南の――」
 氷室が不意に口を開いた。
「水南の、本を探しにきました」
 志都の横顔が、ぴたりと停まった。
 その停まったままの堅い表情で、志都はゆっくりと氷室を見た。
「水南様の、遺言の本ですか」
「ええ」
 志都の薄い唇に、微かな侮蔑の笑みが浮かぶ。
「ないと、あれほどはっきり断言されたのに?」
「……あります」
 氷室はうつむく。掠れた、苦しそうな声だった。
「どこに? 書庫にそんなものがないことくらい、もう私でも知っていますよ」
「僕の」
 そこで言葉を切った氷室が、そっと唇を噛むのがわかった。
「僕の――記憶の中に」
「…………」
「僕にしか、判らない場所に」
「…………」
 志都は黙って氷室を見ている。その表情にはわずかの波も浮かんでいない。
「あの時は気が付かなかった。でもようやく判りました。僕が探すべき場所は書庫でも、屋敷のどこでもない。――僕の記憶――僕自身が……」
 氷室の声が途切れ、彼は何かの感情に耐えるように、小さく息をついた。
「……二度と思い出さないと決めた記憶。水南はそこに、本を隠したんだと思います」









 
 >next  >back >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。