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成美は、コーヒーを少しずつ口にしながら、宮原と会った週末に、雪村と2人で再び上京したことを話した。
雪村が推論するところの、氷室が消えた理由――
国土交通省内で、昨年から新聞を賑わしている汚職事件。逮捕者まで出て、それが氷室の元上司だったこと。
佐伯涼が犯した横領事件と、かつてそれで暴力団同士が抗争を起こしたとされるアルカナ。
そして氷室がかつてつきあっていた神崎香澄という女性の不審死――
これら全てに氷室が無関係だということを、雪村は確認したいと言ったのだ。成美の身に危険が及ばないことを確認したいと。
「……雪村さんのいうことはいちいち最もなんですけど、――それでも私は、なんだか的外れのような気がしていました」
氷室が何も言わないので、成美は続けた。
「そんな――私にもうっかり危険が及ぶような理由で氷室さんが消えたのなら、私に何か言い残さないはずがないと思ったんです。氷室さんの性格からしてそれだけはないなって」
「では君は」
成美を見つめ、氷室はわずかに目を細めた。
「僕が消えた理由を、君はどう解釈していたんですか」
成美もまた、氷室を見つめた。
「水南さんに、負けたんだと思いました」
「……………」
「私とつきあっている時から――氷室さんは私を見ているようで、別の場所を見ているって思う時が――沢山、本当に沢山あって」
「……………」
「そんな時私は、氷室さんは思い出の中の水南さんに心を奪われているんだと思ってました。………私が、あなたの隣で眠る夜はいつも」
氷室が、微かに眉を歪める。
成美もまた、平静を保てなくなって、目を潤ませながら視線を下げた。
「いつもそう思ってた。――だから……、だからどこかで、いつか氷室さんが水南さんのところに戻っていってしまうのを、予感していたのかもしれません。……それが、どんな幸福な夜の後でも」
「……すみません。確かにいちいち脱線してたら、いつまでも話が終わらないですね」
成美はそう言うと、鼻をすすって、顔をあげた。
氷室は無言で、視線を下げたままだった。
成美にしても、絶対に口にするつもりのなかった本音だった。それを打ち明けてしまった時点で、幸福だった2人の過去が、少しだけ色を変えてしまった気がする。
寂しい気持を振り切るように、成美はあえて平然とした口調で話を続けた。
「私たち、東京駅で、宮原さんに紹介されたフリージャーナリストに会うことになったんです。神埼香澄さんが自殺した理由を確かめに」
出会ったのは、元マル暴担当刑事のジャーナリスト、金森和明。
そして、暴力団と縁を切りたがっていた神崎香澄が、アルカナを餌にヤクザ同士の抗争を意図的に引き起こしたことを聞かされた。
結果、神埼香澄のバックにいた烏堂誠司というヤクザと、もう一人、侠生会系のヤクザの組長が相打ちのような形で死んだことも。
しかし香澄もまた、侠生会に狙われるようになり、自殺という選択をしてしまったのだ――
そこまで説明した時、氷室が額に手を当てるようにしてうなだれた。
「――今更……済んだことに口出ししても始まりませんが」
声には、苛立ちとも呆れともつかぬものが含まれている。
「君等2人の行動は、全く理解に苦しみますよ。どうして僕の行方を探す過程で、香澄の自殺を調べようという流れになったんですか」
それは私もそう思ったんですけど、心配性の雪村さんが強行に――
喉まで出かけた言い訳を飲み込み、成美は軽く上唇を噛んだ。
「……三条さんが、あたかも自分が香澄さんを殺したみたいな言い方をしたんです」
氷室は黙って顔をあげる。
「香澄さんを監禁して、……水南さんがされたのと同じことをしたんだって。その言い方があまりに狂気じみていて、――その怒りが氷室さんにも同じように向いているような気がして……」
「…………」
「三条さんは、氷室さんと香澄さんが共謀関係にあると思い込んでいるようでした。………私、すっかり動揺してしまって……、でも雪村さんは、いくらなんでも氷室さんがそんな馬鹿な真似をするはずがないって言ってくれて」
「…………」
「それでも私が逃げ腰になっていたから、だから、香澄さんが亡くなられた原因を調べてくれようとしたんだと思います。――結果的に、とんでもない方向に話が飛んでしまったんですけど」
氷室はしばらく無言で眉を寄せていたが、やがて諦めたように「続けてください」と言った。
「……とりあえず、三条さんの言い分と、ジャーナリストの金森さんが調査したことには、大きな差異があることがわかりました。香澄さんが自殺したのは三条さんのせいじゃなくて、暴力団に追い詰められたせいだったんです。それから香澄さんが懇意にしていた暴力団員は、心情的に女性を襲うことができない人で――香澄さんがそんな依頼をした事自体あり得ないって話でした。正直いうと、少しホッとしたのは事実です」
「…………」
成美は氷室の表情をそっとうかがった。
そうやって雪村と成美で調べたことを、氷室は昨夜、きっぱりと否定した。
つまり氷室は――三条の言い分を本当だと認めたのだ。
けれど氷室の表情になんの変化も見られなかったので、成美は続けた。
「それで、私と雪村さんの目的はひとまず達せられたんですけど、……その後、なぜだか烏堂誠司って人の話になったんです」
再び成美は、氷室の横顔を窺った。
実は成美は、話のはじめから、烏堂の名前を出す度に氷室の表情の変化を見逃さないようにしていた。
もし烏堂誠司が――20年前の豪雪の日、後藤家に逃げ込んでいたとしたら。そして後藤水南と出会っていたとしたら。
氷室もまた別の意味で、彼の存在を知っているのではないかと思ったのだ。
けれど今回も氷室の表情に特段の変化はなく、成美はつい試すようなことを訊いていた。
「取材に応じてくれた金森さん、忙しい人のはずなのに、なぜだか烏堂誠司の生い立ちを、長々と話し始めたんですよ。――なんでだと思います?」
「……? さぁ」
成美の質問の意図がわからないのか、氷室が少し訝しげに瞬きをする。
その表情だけで完全に外れだと判ったが、ここで話を尻すぼみにしても不自然なので、仕方なく成美は続けた。
「まぁ、私たちにもなんの意味があるのか判らなかったんですけど、なんとなく烏堂誠司って人のことが記憶に残っちゃって。――氷室さん、彼のことご存知でした?」
「それは、事件の以前からという意味での質問ですか」
ドキっとしながら、ええ、まぁ……と、曖昧に成美は頷く。
しばらく黙った氷室は天を見上げるように視線をあげると、疲れたように息をついた。
「――香澄に黒い連中とつきあいがあることは知っていましたよ。僕は18の年から大学を卒業する1年前まで、香澄とほぼ一緒に生活していましたからね」
聞くんじゃなかった。
というより、そんな話を聞くために振った質問ですらなかったのに。
無駄に傷ついた成美に気づかないのか、淡々と氷室は続けた。
「ただ香澄はそういった裏の顔を僕に隠すのが上手くてね。よからぬ連中が香澄と組んで商売をしているのは知っていましたが、その正体までは当時は思い至らなかった。――それに国土交通省に入省が決まってからは、意図的に連絡を絶っていたので、後のことは一切知りません。――残酷な本音を言うと、いつまでも危ない連中と手が切れない香澄に、これ以上かかわり合いになるのは得策ではないと思ったので」
今度は別の意味で、成美は黙って氷室を見上げた。
「烏堂誠司というヤクザの名前は、香澄が亡くなった後に初めて知りました。――僕にも彼女の死にいくばくかの責任があるとわかった時に」
「責任、ですか」
「ええ」
なんの……?
成美の眼差しの疑問を読みとったのか、氷室は微かに苦笑した。
「長年黒い連中と組んで金儲けをしていた香澄が、どうしていきなり、彼らと手を切ろうとしたと思いますか?」
「…………」
「いまとなっては、香澄の本音など聞きようがない――でもそれが全く僕に無関係だったとも思えない。僕はその当時、なんとかして水南に接近しようとやっきになっていた。香澄の僕への執着は――それは愛とは違うものだと今でも思っていますが――確かに普通ではないものがあった。三条の言うように、香澄が水南への報復を決意したのは、僕のせいだとしかいいようがないんです」
「……………」
氷室は再度ため息をついてから立ち上がった。
「金森というジャーナリストから聞いた話は、以上ですか」
「え、ええ」
全部を上手く伝えられたかどうか自信はないけど、重要だと思う部分は話せたと――思う。
あ、ひとつ忘れてた。
神崎香澄が探し当てたという、アルカナの所在を知っている――かもしれない謎の人物。
確かその人は香港にいて……
成美は急いで顔をあげたが、すでに氷室は背を向けて歩き出している。成美は急いで氷室の後を追った。
「待ってください。まだ続きがあるんですけど」
「そろそろ車に戻った方がいい。――どうやら一雨きそうですよ」
え……?
顔を空に向けた途端、ぽつんっと大粒の雨が鼻先に落ちてきた。
「えっ、うそ」
慌てる間もなく、いきなり本降りの雨がざーっと2人に降り注ぐ。
「ゲ、ゲリラ豪雨?」
「そこまでじゃない――走りましょう」
どこへ――?
灰色の雨に閉ざされた視界。もたもたと周囲を見回す成美の頭に、ばさっと上着がかけられた。
ふわりと、その刹那氷室の香りに包まれた気がした。どこか優しい雨の匂いと共に。
「………………」
氷室さん……
なんだかずっと、忘れていた。氷室さんの、こんな暖かな……
「すみません、この非常時に余計ぼんやりしているのは何故ですか? 急がないと!」
「あ、はっ、はい」
先を行く氷室の呆れた声ではっとする。
2人は急いで、かなり遠くに見えるパーキングエリアの建物めがけて走った。
いきなり降りだした大雨に、建物の屋根下は雨宿りに駆け込んだ人が列をなしていた。
雨がしのげるやいなや、成美は急いで氷室が貸してくれた上着を頭からおろした。
「す、すみません。助かりま――」
見上げた氷室の姿に、絶句する。
まるで頭からバケツの水を浴びせかけられたようだった。髪は乱れて濡れそぼり、シャツは肌が透けるほど張り付いている。黙って眼鏡を外す氷室は、ひどい仏頂面だ。
「…………あの、すみません」
「いいえ。君がそんなに雨が好きだとは知らなかったので」
片や成美は、まがりなりにも氷室の上着に守られていたせいで、そこまでひどい有様にはなっていない。
成美はおそるおそる、自分が手にしている氷室の上着に視線を落とした。
袖口から水がしたたるほどに濡れている。成美は悲鳴をあげそうになった。
「氷室さんの一張羅が!」
「……別に一張羅では……」
はぁっと氷室がため息をつく。
「服のことはどうでもいいです。それより、何か拭くものはありますか」
「ハンカチ――あっ、車に忘れてきました」
「本当に君は、用意がいい人ですね」
氷室が皮肉に満ちた微笑みを浮かべた時、彼の隣に立つ学生風の美女が、すっとタオルを差し出した。もちろん、氷室に。
「よかったら、どうぞ」
「いいんですか」
「ええ。どうせ捨てるつもりで買いましたから」
氷室が微笑し――もちろん皮肉ではなく彼特有の女性を魅了する微笑み方で――女性がわずかに頬を赤らめる。
さすがは氷室、水もしたたる――もとい水に濡れてもいい男。気づけば周囲の女性たちが、ちらちら彼に視線を向けている。今に、我も我もと、氷室に沢山のタオルが届けられそうだ。
「じゃあ、ご厚意に甘えます」
「ええ。そんなに濡れて……、風邪を引かないようにしてくださいね」
「ありがとう」
隣で繰り広げられる小さなラブストーリーを、成美は少し寂しい気持で見つめてから、目を逸らした。
なんだかこのやるせなさも久々だ。自分が、彼とまるでつりあっていないことを思い知らされるこの感覚……
「ほら」
頭に、ばさっと柔らかいタオルがかけられる。
成美は驚いて顔をあげた。
「早く顔を拭いてください。君もひどい有様ですよ」
「え、でも」
私より絶対氷室さんの方が――
戸惑う成美を見下ろし、氷室が意地悪い笑みを浮かべる。
「じゃ、僕が拭いてあげましょうか。身体の隅々まで丁寧に」
「ちょっ、な、なに言ってんですか」
「――僕はいいです。コーヒーやお菓子は持ってきませんでしたが、車に着替えを用意しているし、君みたいに化粧が崩れる心配もない」
ほ、本当になんて厭味な人だろう。
成美は耳を熱くしながら、タオルでごしごしと濡れた髪をこすった。周囲の女性たちの、刺のような視線に耐えながら。
でも、私のためだった……。
タオルをもらってくれたのは――私のためだったんだ。
タオルの縁からそっと顔をのぞかせて、成美は雨の様子をうかがう氷室の横顔を見た。
氷室さんこそ、判ってるんだろうか。
私たちは、もう……。
その氷室が振り向いたので、成美は慌ててタオルで顔を隠した。
「とりあえず、どこかで服を調達しましょうか。いずれにしても着替えがあった方がいい」
「……着替えって、車にあるんじゃないですか」
「僕じゃなくて、君のね」
私?
「昨夜からの君の話を聞いて、あらかたのことは判りました。正直言えば、それでもまだ全容が理解できないでいる君が不思議ではありますが」
「――え?」
「……まぁ、無理もないか。僕もまた、全てを理解できたわけじゃない」
独り言のように呟くと、氷室は微かに口角を上げた。
「君たちは、あの場所に行ったんでしょう?」
あの、場所。
「それは……、あの」
「古い地元民に、『終末の家』と呼ばれている館ですよ。――その名前は耳にしませんでしたか?」
終末の、家……?
「それって、まさか後藤家の山頂にある館のことですか」
「そうです」
小さく頷き、前を見たままで氷室は言った。
「ようやく判りました。君にはもう、それを知るだけの権利がある。――現地で全てお話しますよ。年末、僕が何を見て、何を知ったのか……全部をね」
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