7
 
 
 
 ここ、……どこだろう。
 真っ暗だ。
 何も見えない。
 前も後ろも、右も左も。
 何もない。
 真っ暗な闇の中、電車が規則正しく揺れる音がする。
(あじゃが駅)
(ちがうぞ、成美。あじがや駅っていうんだ)
(もうすぐおじいちゃんの家に着くわよ。成美、ほら、こっちにおいで)
 不意に胸が締め付けられ、成美は目を閉じてしゃがみこんだ。
 あれは、本当にあった出来事だったのだろうか。
 それとも、幼い自分が夢で見ただけの光景だったのだろうか。
 今はまだ、怖くて過去が直視できない。
 その夢が壊れたら――自分はこれから、何を頼りに生きていけばいいのかわからなくなりそうで。
 やがて電車の音が遠ざかり、成美はおずおずと目を開ける。
 闇の中、ふと見上げると、頭上から羽虫のような銀色の欠片が、音もなく舞い降りてくる。
 ――雪……
 静かな、静かな、音のない世界に、ただ雪だけが舞いながら消えていく。
 ここは、どこだろう。
 世界の果て。――後にも先にも進めない場所。
 でも私は知っている。世界は、ここが終わりではないのだ。
 この闇の向こうには、――少しだけ勇気を出して前に進めば、小さくてわかりにくいけれど、絶対に扉がある。
 なのに、足が前に進んでくれない。
 手が、凍りついたように動かない。
 だって私は知っているのだ。その扉は――扉の向こうには――
 
 
 
「日高さん……」
 はっ、と成美は目を見開いた。
 日差し――背後に向かって流れていく景色――前を行く車のナンバー。
  ――高速道路だ。
 成美は急いで、運転席の氷室を見上げた。
「す、すみません。寝てたみたい。いつの間に高速に?」
「少し前に」
 答える氷室は、フロントガラス越しの前面道路を見つめている。
「このままにしておこうとも思ったんですが、角度的に、顔に陽があたっていたので」
「あ、ありがとうございます。それは――大変なことでした」
 慌てて視線を上にあげると、サンバイザーが動かされた後がある。
 ぐっすり寝ていた――認めたくないが――そのせいか、かなり腰位置がずれていたので、日除けの意味をなさなかったのだろう。
「以前、何故起こさなかったのかと、結構な剣幕で文句を言われたことがありましたよね」
「け、結構な剣幕は余計です。……朝の日差しは女性の大敵ですから」
 成美は少し気まずく言って、顔に日差しがあたらないことを確認してから座り直した。
 寝ていた。
 やばい。
 出発した時、絶対に寝ませんとあれほど固く宣言したのに。
 だいたい成美は、車で行くこと自体反対だったのだ。新幹線で行く方が時間も短縮できるし車内で休むこともできる。それを氷室が――
「駐車場なんて、安いところを探せば1日千円くらいで済むんじゃないですか」
 つい成美は、今朝の議論を蒸し返していた。
「それはあるでしょうが、セキュリテイーに難がある」
「もっと安い車にすればいいんですよ」
 無駄に高級車を維持するなんて――成美は唇を尖らせた。
 氷室さんは、もっと経済観念のある人だと思っていたけど、お金がなくなってもなお従前の車を手放さずに持っているなんてどうなのかしら。
「それから今朝も言いましたけど、運転してもらうんだから、高速代は私が出しますね」
「……ETCなんですが」
 呟くように言って、氷室は小さく嘆息した。
「それに、夕食も朝食もごちそうになりましたし。――ついでに言うと昼御飯も準備してもらった」
 氷室はちらっと、視線を後部シートに向ける。そこにはピクニック用のバスケットがあり、中には成美が今朝大急ぎで作ったおにぎりが詰め込まれている。
「君がそんなに家庭的な人だったとはね。今までそんな真似をされたことがないから、驚きですよ」
「今までは氷室さんの嗜好にあわせてたんです。――だいたい氷室さん、節約って言葉、知ってます?」
「……君より10も年上の男に、どういう意味での質問か理解に苦しみますが――」
 呆れたように言った氷室は、息を吐いた。
「ま、いいですよ。君の意図を汲んで、高速代は後で請求します」
「お願いします」
 ふぅ。やっと判ってくれたか。
 今朝からの議論が終結したことで、成美は安堵してシートに深く背を預けた。
 ふぁっと、あくびがこみ上げてくる。このままだと確実に寝てしまいそうな気がして、成美はシート裏のラックに手を伸ばした。そこに置いてあるマップでも見て、眠気を誤魔化そうと思ったのだ。
 が、手は、普段はそこにあるはずのない週刊誌のようなものを取り上げた。
「……え?」
 なに、月刊ダンスファン?
 成美は目を丸くして氷室を見た。
「もしかして、社交ダンスでもはじめたんですか」
「え? ――ああ、まぁ、そんなところです」
「社長の奥様の趣味とか」
 それには答えず、氷室は苦笑して肩をすくめる。
 うわー、もう……勘弁してよ。社交ダンスとかシニアな趣味……。でもまぁ、氷室さんなら何をしても似合いそうではあるけれど。
 日本人か、外国人か、エキゾチックな容貌をしたえらく綺麗な女性がその表紙を飾っている。
「次のパーキングエリアで、少し休んでもいいですか」
 その氷室の声に、成美は雑誌から顔をあげた。
「もちろんいいですけど、氷室さんも眠くなったんですか?」
「――眠くはないですが、コーヒーが飲みたくなったので。君も喉が乾いたでしょう」
「氷室さん」
 成美はちょっとだけ鼻の穴をふくらませた。
「コーヒーなら、ポットに作って持ってきてます!」
「……ああ」
 今日の私は準備万端。いつもみたいになんでもかんでも氷室に奢ってもらうことだけは避けようと思ってきたのだ。
「もちろん、パーキングでは休みましょう。だって、氷室さん」
 続けようとした言葉を、成美は視線を逸らしながら飲み込んだ。
 絶対に昨夜、一睡もしていない――
「あ、そろそろ近いんじゃないですか。看板見えてきましたよ」
 あえて明るく言うと、成美は手にした雑誌を元の場所に戻した。
 
 
 
「はい。コーヒー」
「……どうも」
 氷室は少し戸惑ったように、成美の手から紙コップのコーヒーを受け取った。
 パーキングエリア内の遊歩道。
 どんよりとした曇り空のせいか、空気は少しだけ肌寒い。
 歓談する学生たちやカップルがぽつりぽつりといる中、成美と氷室は並んでベンチに腰掛けていた。
「お菓子も、ちょっとだけなら持ってきてますよ。ポッキーとか、食べます?」
「…………いや……」
「和菓子とかの方がよかったですか」
 眉をひそめて問う成美から目をそらし、氷室は小さく息を吐いた。
「食べ物が若者向けだとか、そういう問題ではないですね」
「じゃあ……」
 コーヒーを一口飲んだ氷室は、少し疲れたようにこめかみのあたりに指を当てた。
「僕らは今日、2人して仲良くドライブに来たわけじゃないんですよ」
「知ってます」
「――君があまりにも脳……いつも通りなので。まぁ、いいです。話を昨夜に戻しましょう。どこまで話したか覚えていますか」
 今、絶対脳天気って言うつもりだったですよね?
 むっとしたが、成美はポッキーを一口かじって反論をやりすごした。
 彼の機嫌というか、精神状態が、朝からひどくピリピリしているのは察している。
 それをなんとか和ませてあげたくて――などと呑気に思っていること自体、私に自覚が足りないのかもしれないけれど。
 もちろんに私だって判ってますよ、氷室さん。
 これが私たちの、最後の旅になることくらい………。
 
 
 
「――昨夜は灰谷市で……、宮原さんって人と会ったところまで話しました」
 コーヒーを飲みながら、成美は昨夜の続きを話し始めた。
「宮原というと、弁護士で探偵、実は現役警察官だった男ですね」
「ええ。今は灰谷県警所属だって言ってましたけど……」
 それも本当かどうか判らない。と成美は思った。
 弁護士だったり探偵だったりホモだったり、それで最後は警官だって言われても、何日かしてまた実は――とひっくり返されそうな気がする。
「本当に警官かどうか確認した?」
「……警察手帳を……、はっきり見たわけじゃないですけど、でもあの疑り深い雪村さんが信じてるんだから、本当だと思いますよ」
 氷室は黙ったまま、唇に指をあてて沈思しているようだった。
 なんだろう。
 昨夜も氷室は、宮原のことにひどく神経を尖らせていたようだった。まぁ、それも当たり前だ。なにしろ最初から宮原は身分を詐称していたのだから。
「紀里谷と――一緒だったといいましたね。2人の関係はどんな風でした?」
「えっ」
 ぎょっと成美は不器用に視線を泳がせた。
 2人はできてる――と感じたのだが、そんなことはさすがに氷室に話せない。
「仕事仲間、みたいな」
「弁護士の?」
「その時はそうとしか……、でも後で紀里谷さんが探偵だって教えてくれて――確認したわけじゃないですけど、紀里谷さんが情報収集のために使ってる人なのかな? とか思いました」
 氷室は黙ってコーヒーを飲み干し、空になったカップを傍らに置いた。
「……まぁ、いいです。すみません、僕の方でいきなり脱線させましたね」
「いえ。信用できない気持は判りますから。――でも警官っていうのは本当だと思いましたよ。色々……詳しかったから」
「僕の父の事件にですか。――まぁ、アルカナを知っているあたり、それ以上という気もしますがね」
 氷室は皮肉な冷笑を浮かべる。
「それ以上?」
「いや、もういいです。――で? 期せずして何人もの人死を出したとんでもない怪物の存在を知った君らは、それからどうしたんですか」
 成美は黙って氷室を見上げた。
 昨夜、記憶をたどりたどり、宮原と雪村が交わした話をし終えた時、時刻はもう午前3時を回っていた。
 アルカナの話が出たあたりから、氷室は何も言わなくなった。
 ただ眉を寄せ、唇を軽く噛むようにして、無言で成美の話を聞いていた。
 そして話し終わると、もう寝ましょうと言われ、氷室は自分の布団をリビングに移すと、おやすみとだけ告げて扉を締めたのだ。
 成美はほどなくして眠りに落ちたが、真っ暗な隣室で、氷室が身動ぎもせずに天井を見上げていることだけは判っていた。
 いつもの――成美と眠る時の彼がそうだったように。
「氷室さん」
「脱線はなしです」
「まだ何も言ってません。―――お父さんは、本当は無実だったんじゃないですか」
 ため息をつく氷室の横顔を追いながら、成美は懸命に言葉を継いだ。
「今から話しますけど、その後金森さんってジャーナリストの人からも話を聞いて、アルカナは本当にあったんだって改めて思いました。つまり――氷室さんのお父さんは、無実の罪を着せられたんだって」
 氷室は答えず、再度深くため息をつく。
「氷室さんも、お父さんの無実を信じたからこそ国土交通省に入ったんじゃないですか? ――もちろん、司法で決まったことを覆すのは無理だと思いますけど」
「日高さん。父は少なくとも無実ではない」
「でも」
「ひとつだけはっきりしているのは、父が自らの手で公金を持ちだしたということです。父は断罪されるべき人だった。僕は父を擁護する気も、いわんや無実を証明するなどという馬鹿げた野心を抱いたことも、一度としてありません」
「………………」
 氷室の冷淡なまでの冷静さに、成美はしばらく打ちのめされて声も出なかった。
 確かに彼は、自分の中から父親の存在を完全に抹消したと言っていたけれど……。
「……でも、じゃあ、氷室さんは一体どうして」
 お父さんの後を追うようにして国土交通省に?
「もうこの話はやめましょう。――時間がないし、今となってはなんの興味もない。昨夜の続きを話してください」







 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。