リビングに場所を変えた2人は、しばらく黙ってコーヒーを飲み、成美は再び話しはじめた。
 結局東京で一泊した翌日、雪村と2人で中村須磨の自宅を訪ねたこと。
 そこで、氷室がどういういきさつで後藤家にやってきたかを聞き、氷室の母親、氷室杏子が、後藤議員の愛人になったいきさつなども聞いたこと。
 一方、水南の母親は長らく病気を患った上に死亡しており、母子は終生別居していたこと。
 そして、この話を自分の口からするのは、神崎香澄に次いで辛かったが――
「氷室さんと水南さんは、10代の頃、恋人同士だったんですよね」
「僕に質問しない約束では?」
 そうでした。
 表情ひとつ変えない氷室をちらっと見上げてから、成美は続けた。
「中村須磨さんの話では、2人は……真剣に愛し合っていて、氷室さんはもちろんでしょうけど、水南さんの性格から考えて、ただの遊びだとは到底思えないと……おっしゃっておられました」
「あのぼんやりしたお人好しに、水南の性格が正確に判断できていたとは到底思えないのですけどね」
 今度は成美が眉をひそめた。「反論もなしっていう約束ですよね」
 氷室は悪びれもせずに肩をすくめる。「――で?」
 成美は続けた。
 中村須磨の自宅を出て、それから改めて後藤家に向かったこと。
 後藤家では、向井志都に門前払いされたものの、氷室の部屋に残された鍵のことを告げると態度が代わり、鍵を持ってくれば話を聞いてやると言われたこと――
「それで、いったん灰谷市に引き返して、鍵を持ってもう一度行こうって話になったんですけど」
 言葉をきり、成美は冷めてしまったコーヒーを口に含んだ。
 重要なことを、故意にスルーしてしまった自分がいる。
 そこで気づいたことを口にせず、成美はその時の自分の感情だけを正直に語った。
「……正直言えば、私、すっかり怖気づいちゃってたんです。なんだか、とんでもなく恐ろしい、してはいけないことをしているような気がして」
「今、まさに君がしようとしていることがそれですが」
 成美はカップから顔をあげ、少しだけ氷室を睨んだ。
「氷室さんの過去を辿るのが、もう怖くなったんです。なんだかそこに……自分の全く知らない、知ってはいけない氷室さんがいるような気がして」
 でも――
 成美は、カップをぎゅっと握りしめた。
「……雪村さんに叱られて……、また思い直しました。だって私がここで諦めたら、三条さんに言われたことが、氷室さんの真実になっちゃうから」
 そういう意味では氷室さんの言うとおり、真実は人の数だけあるのかもしれないけど。
「……自分の目でみて、耳で聞いて、仮にそれが真実であっても、納得できる理由を知ろうと思いました。それは自分のためでもあり、氷室さんのためでもあったんだけど……」
 成美は言葉を切り、少しだけ唇を噛み締めた。
「自分を信じてくれた、雪村さんのためでもあったのかもしれないです」
(俺は氷室さんに何の思い入れもないが、少なくともお前が選んだ相手がそんな卑劣な奴だとは思いたくない。――絶対に思いたくない)
 あの時、雪村さんにそう言われたから。
 だから、もう一歩だけ、頑張って前に進んでみようと思えた――
「……君と雪村さんは、……まるで子供同士がじゃれあっているようで」
 成美はそっと顔をあげた。
 氷室は成美を見ないまま、唇に静かな微笑を浮かべている。
「――厭味でもなんでもなく、色んな意味でよく似ています。……僕が君の兄か父親なら、彼のようなパートナーがいることを素直に喜んだと思いますよ」
「言いたいことはわかりますけど、最後まで聞いてください」
 成美はやんわりと氷室の言葉の続きを遮った。
「最後にもうひとつあるんです。私を信じてくれた雪村さんのために頑張ろうって、そう思ったことがきっかけではあるんですけど。――氷室さんを好きな沢山の人のため――です」
「……僕を、好きな?」
 氷室が、不思議そうに成美を見る。
「沢山いるじゃないですか。道路管理課の人たち、――阿古屋補佐や、宮田さんや三ツ浦君……もう市役所からいなくなっちゃったけど、沢村さん」
「………………」
「柏原課長に、私の同期の倉田真帆さん、ほかにも色々。沢山いますよ。だって氷室さん、今まで色んな場面で、色んな人たちを助けてきたじゃないですか」
「………………」
「極論すれば、灰谷市役所の人はみんな氷室さんが好きなんです。みんな、もう一度氷室さんに戻って欲しいと思ってるんです。その全員のためにも、私、頑張らないといけないって思ったんです」



 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。