5月からの記憶を――すっかり忘れていた些細なものまで総動員して――成美はなんとか、氷室に伝えようとした。
 しかし氷室は、途中でややうんざりしたように、成美の話を遮った。
「とりあえず、脱線はやめましょう。その時々で疑問もあったろうし、それをいちいち僕に確認したい気持ちは判りますが、今はただ、時系列に話してください。後で判明した事実も、その時点で謎だとしたら、そのまま謎として話してくれればいいですから」
 いかにも頭のいい人が頭の悪い人に言い聞かせるような口調に、成美は少しばかりむっとしながら、頷いた。
 まぁ、しかし氷室の言うとおりではある。その時々の疑問をいちいち氷室にぶつけて確認をとっていたら、話がひとつも前に進まない。
 とりあえず最初から、成美は話した。
 2人で最後に過ごした安治屋での氷室の様子が、いつもとは違っていたように思えたこと。
 だから安治屋に何かしらのヒントがあると思い、5月に安治屋駅を再び訪ねたこと。
 そこで紀里谷姉弟と出逢い、氷室が年末、成美を追いかけてきたからくりを教えてもらったこと。
 紀里谷は、最初から成美と氷室の素行調査のために灰谷市に来ていたこと。彼にそれを依頼したのが、国土交通省の西東事務次官だったこと――
「……でもそれは紀里谷さんの嘘で……本当の依頼主は三条さんで……」
 そのさらに元をたどれば、黒幕は水南さんだと思うんだけど。
「それ、氷室さんも、知ってたんですよね?」
「脱線も質問もしないという約束では?」
 冷たく遮られ、成美は渋々質問をひっこめた。
 灰谷市に戻った後、氷室の戸籍を不正に取り寄せようとして、雪村にものすごく怒られたこと。
 その雪村から、氷室の部屋に鍵の忘れ物があったと教えてもらったこと。
すでに福利課が、氷室の戸籍の一部事項を取り寄せていたため、転籍前の住所――つまり後藤家の住所がそこでわかったこと。
「ニーチェ……」
 成美が、ニーチェの『善悪の彼岸』のくだりを話すと、氷室は眉をひそめて黙り込んだ。
「あの、それはやっぱり水南さんが」
「……さぁね。まぁいいです。続けてください」
 成美は、むっとしつつも話を続けた。
 1人で行くといった成美を心配して、雪村が同行してくれたこと。
 後藤家を訪ねたところ、すでに取り壊し工事に入っていて、施主の名前が三条守だったこと。――午後に管理人が来るから、それまで時間を潰すことになったこと。
「……私たち……図書館にいって……、雪村さんが後藤家の歴史について司書の人から話を聞いている間に、私は三条守って人のことをバソコン検索してました。なんかネットで……怖い書き込み記事をみつけたから」
 それまで無表情だった氷室の顔に、はじめて暗い影がわずかに揺れた。
「怖い、とは?」
「……人を殺した、みたいな」
 成美がおずおず答えると、少しの間黙ってから氷室は言った。
「神崎香澄?」
 ざわりと、胸の奥がわずかに震えた。
 正直、氷室の前で、この人の話題だけは口にしたくなかった――
「……そうです。でもその、それは嘘というかデマだってことが、後でわかって」
「いいです。それ以上は脱線になる」
 氷室はやはり、冷淡に遮った。
「僕はただ、君がその時点で何を知ったのか確認したかっただけですから――続けて」
 少しほっとしながら、成美は続きを話しはじめた。
 後藤家の歴史を調べた雪村から、かつて――明治かその昔くらいに、後藤家が村民に対して相当悪辣なことをしていた過去があったと聞かされたこと。
 それゆえ地元では、後藤家の血を引く女は祟られているという迷信が広がっていたこと。
 後藤家を訪ねることが怖くなって――怖いゆえに、これ以上雪村を巻き込むまいと決意し、1人で扉の前に立ったこと。そこで三条守と会ったこと――
「は? 三条の車に乗った? 君1人で?」
「ひ、氷室さん、脱線も質問もなしですよね?」
 血相を変えて片膝をたてた氷室を、成美は慌てて遮った。
「軽率でした。馬鹿でした。それは十分反省してます。でも何もなかったし、雪村さんにも十二分に叱られましたから!」
「……雪村さんに」
「後で思いっきりビンタされました。ビンタですよ? お父さんにも氷室さんにも叩かれたことないのに。めっちゃショックでした」
 氷室が黙り、成美もしゃべりすぎたことに気が付いた。しゃべりすぎたというより、氷室の前で話すべきではなかったことに。
「……脱線ですね。すみません」
「いえ、続きをどうぞ」
 はい……、と成美は居心地悪く頷いてから、続けた。
 三条に、神崎香澄の墓石まで連れていかれたこと。
 その墓石の前で…………。
「どうしました」
「い、いえ」
 どうしよう。
 話せないし、話したくない。
 それが三条守の嘘でも、妄想からくる思い込みでも。
 あの日聞いた話だけは、自分の口から語りたくない――
「コーヒーでも、飲みましょうか」
 重苦しい沈黙を、先に破ってくれたのは氷室だった。
「君も疲れているのに、こんな時間までつきあわせてしまって悪かったですね。僕が淹れてきますよ」
 口調は相変わらず冷たいが、言っている言葉はなんだか優しい。
「あ、いえ、私行きます。コーヒーの置場所とかも変わってますし」
 救われた気分で成美はベッドを降り、急ぎ足でキッチンに向かった。
 
 
 
 困ったな……ここからの話を、どうしよう。
 成美は溜息をつきながら、久々にセットしたコーヒーサーバーに水を注ぎ入れた。
 スイッチを入れると、香ばしいコーヒーの香りが漂ってくる。
 氷室のためだけに購入した豆は、この半年、ずっと冷凍庫に入れておいた。封はきっちりしていたけど、もしかすると風味みたいなものが変わっているかもしれない。
 私にはその差は判らなくても、氷室さんはそういうのに敏感だから……。
 一瞬ぼんやりしていた成美は、はっと気付いて首を横に振った。
 あ、いやいや違う。今はコーヒーの味を気にしている場合じゃない。
 やっぱり、聞いたそのままを話すはのやめよう。
 淹れたてのコーヒーを、氷室がかつて使っていたカップに注ぎながら、成美はようやく気持ちを固めた。
 あれが、――どういう意図からそうしたものかは判らないが――三条守の嘘だったことは明らかだ。
 嘘を、氷室を傷つけると知りながら、そのまま伝える必要なんてない。
「別れて半年もたつのに、僕のものは案外そのまま残されているんですね」
 いきなり背後から聞こえた声に驚いて、成美は持ち上げたカップを落としていた。
 シンクに落ちたカップからコーヒーが勢い良く飛び散り、成美の指に振りかかる。
「っ……っつ」
「大丈夫ですか」
「へ、平気です。すみません。コーヒーこぼしちゃって」
 火傷というほどではないが、赤くなった指に唇をあてたときだった。
 シンク前に立つ成美を挟みこむように、氷室が背後から両腕をついた。
 え……?
「あ、あの……」
「ん?」
 なに、この距離の近さは。
 は、半年前ならいざしらず……、ただの昔の知り合いの範囲を思いっきり逸脱してませんか?
 背中に氷室の胸があたり、うなじに彼の呼吸を感じる。
「あの、……ちょっと」
「ちょっと?」
「だから、近すぎ……」
 氷室の両手が、成美の両手首を滑り降り、指と指が絡まった。
 耳が熱くなり、成美はもう声もでない。
「さっき、期待した?」
「き、期待……?」
「とぼけなくてもいいですよ。君の小鳥みたいな小さな心臓な音が伝わって、僕も身体の一部が熱くなりました」
「ちょっ……、い、いや」
 耳朶に氷室の唇が触れる。その感触に、また胸の奥の何かがどうしようもなくざわめきはじめる。
 逃げようと身をよじると、そのまま背後から抱きすくめられた。
「ん………」
 うなじに唇を押し当てられ、身体がぴくんと跳ね上がる。
 耳元で、氷室が微かに笑うのがわかった。
「相変わらず無防備で流されやすい人ですね」
「そ、そんなこと」
「雪村さんにも流された?」
 は?
「……今夜、君の中にもう一度僕を刻めば、君は僕のところに帰ってくるのかな」
「………………」
 氷室の手が離れ、体温も同時に離れていく。
 成美は呆けたように、力の抜けた身体をシンクで支えた。気づけば心臓が痛いほど鳴って、背後の氷室を振り返ることさえできないでいる。
「僕からひとつ忠告させてもらえば」
 シンクからコーヒーカップを拾い上げながら、淡々とした口調で氷室が言った。
「君は金輪際、男性の車に1人で乗るべきではないということですね。……ああ、壊れてしまったな」
 見れば、氷室の手の中にあるカップは、淵の部分が欠けてしまっている。
「弁償しますよ。僕が驚かせたせいだから」
「いえ……、それは、いいですけど」
 なんともいえない寂しい気持ちで、成美はカップを取り上げた。
 氷室のために買ったコーヒーカップ。彼の好みにあわせて用意したカップが……。
 成美はしばらく無言でカップを見つめてからそれを濯ぎ、冷蔵庫の上に置いた。
「コーヒー、作り直しますね。もう少し待ってもらえます?」
「三条が君に何を話したのか、だいたいのところは判りますよ。君が話しにくいのなら、僕の口から言いましょうか」
 成美は手をとめ、ゆっくりと氷室を振り返った。
 微笑した氷室は、成美の傍らに立つと、コーヒー豆が入った缶をとりあげる。
「犯罪者の息子だった僕は、母ともども後藤家に拾われ、めぐまれた環境で教育を受けさせてもらった。それだけでなく、いずれ国政に出る後藤議員の秘書候補として育成されていたのに――その全ての信頼と期待を裏切って、逃げだした」
「………………」
「後藤家とたもとを分かった僕は、幸いにも売れっ子ホステスだった神崎香澄に拾われ、そのヒモとして香澄に養われながら大学を出た。なのに国土交通省に入省した途端、その香澄を切って捨てた。……ここまではあっていますか?」
 成美は何も答えられずに視線を伏せた。
「では、あっていると仮定して進めます。丁度そんな折、水南が海外から帰国した。僕は水南に接近しようとこころみた。動機は、国土交通省に強い影響力を持つ後藤議員のうしろだてが欲しかったから。けれど後藤議員はそれを許さず、僕は――水南を自分のものにするための策略をくわだてた」
「ちょっと待って下さい。それは」
「あっているなら、口出ししないでください。僕は香澄と共謀して、香澄が懇意にしていたとある暴力団組織に水南を襲わせた――。彼女を拉致監禁させ、妊娠するまで開放させなかった」
「氷室さん!」
「そうして僕は、後藤議員にとってお荷物でしかなくなった水南を、まんまと自分の妻にもらいうけたんです。――そういう話ではなかったですか」
「………………」
 成美はまつげを震わせながら、力なく首を横に振った。
 違う。それは――そんなのは真実じゃない。三条守の作り話だ。
「君がどう思おうと、大筋でそれは、真実なんですよ」
「……………………」
「少なくとも、僕は、そう……受け入れている」
 わずかにうつむいた氷室の唇に、自嘲にも似た笑みが滲む。
 はっとした成美は、力いっぱい首を横に振った。
「受け入れるって何をですか。本当ではないことを、本当だと信じこむってことですか」
「日高さん。この世に、完全に客観的な真実など存在しないんですよ」
 氷室の表情は静かなままだった。
「現実に起きた事象はひとつでも、それを人の記憶でしかはかれないなら、あるのは主観と主観のぶつかりあいに過ぎない。その重なりあうところにかろうじて真実と認定できるものがあるのなら」
「意味わかりません」
 成美は混乱しながら遮った。この話は――この残酷な話だけは、氷室にきっぱり否定して欲しかったからだ。
「主観とか客観とか――意味が全然わからない。少なくとも私は、私が見て、私が感じたことだけを信じますから」
「その通りです。だから真実とは、人の数だけあるんです」
「………………」
「人が神ではない限り」
「………………」
 それきり氷室は黙って、コーヒー豆をサーバーにセットしはじめた。
 新しいカップを戸棚から出しながら、成美はなにかを言いたかった。
 なにか――よくわからない。胸の底で揺れ動くそれは、まだ言葉になってくれない。
 でも、これだけは判っている。
 氷室さんは――絶対に間違っている。


 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。