House of cards |
||||
2 | ||||
――水南……愛している。 ――僕は君を、愛している。 「……天」 水南は呟いて目をあけた。 間接照明が醸し出す薄暗い空気の中、氷室が、わずかに陰った表情で見下ろしている。 同時に消えた頬を包む感触――彼の手のひらの、ひんやりとした温度を、水南は黙って思い出していた。 「気がついた?」 「……ええ」 「気分は」 「悪くないわ」 自分の部屋だ。ベッドの上。きっとあのまま倒れて、天に運んでもらったのだ。 身体の裡に、長らく忘れていた燐火が束の間灯るのを水南は感じた。それもまた、全て夢と同じ幻だ。手を伸ばし、掴み取る前に消えていく。 「今、堺先生を呼びました。あと30分もすれば、着くはずです」 氷室の声が、再び揺らぎ始めた意識を現実に引き戻した。 「……大げさね。ただの貧血なのに」 「君にわずかでも異変があれば、すぐに先生を呼ぶように後藤議員から厳命されている。――妊娠に、何か問題でも?」 不安な目をしてかがみこむ氷室から、水南は微かに笑って顔をそむけた。 「あなたって本当に変わらない。今でも父の、体の良い使い走りなのね」 「僕の質問の答えになっていない」 「答えは問題なし。父もあなたと同程度の心配性というだけのことよ」 嘆息して立ちあがった氷室が、物憂げにネクタイを緩めてから背を向けた。 「……水を持ってきます。他になにか、必要なものは?」 「いいえ」 足音と扉の閉まる音を、水南はそれとは反対側の壁を見つめながら聞いていた。 水南が、数年ぶりに再会した氷室天と結婚し、都内のマンションで一緒に暮らし始めて3ヶ月が経とうとしていた。 東大卒のキャリア官僚と国会議員の娘。まるで雛人形のように美しい夫婦だと誰もがうらやんだ2人の結婚生活に、多くの秘密と約束が隠されているとは、誰が想像しただろう。 母子手帳では妊娠3ヶ月と記載されている水南の胎児が、本当はもう5ヶ月になることもそのひとつだし、2人の間に一切の性的接触がないのもそのひとつだ。 氷室は水南の子の父親になる代わりに、後藤家の財産の一部と、彼の職場での信用を得た。 代わりに後藤家では、娘が婚外子を産んだという世間の追求と好奇の目から逃れることができる。 もちろん水南は、氷室がそれだけの理由で偽装結婚を受け入れたとは思っていない。 そして氷室も、最初からこう思っていたはずだった。 たかだか父親の面子と世間体のためだけに、水南のような気性の女が、偽装結婚など受け入れるはずがないと。―― 「――明日から、仕事でドイツにいきます」 水を飲み終えた水南からグラスを受け取った氷室の目は、ひどく沈んで寂しげで、同時に水底に佇む石のように静かだった。 「2週間で戻ります。去年1年赴任していた時の、最後の引き継ぎがあるので」 「予定なら志都に言ってちょうだい。そんなこと、いちいち報告されても煩わしいだけよ」 「帰国したら、国土交通省は辞めようと思っています」 再びベッドに横たわろうとした水南は、ふと眉を寄せて顔をあげた。 「……それで?」 「驚かないんですね」 「驚いているわ。やめて、それからどうするの」 しばらく黙った氷室はうなだれ、膝の上で両手を組み合わせた。 「……君と、やり直したい、最初から」 「…………」 懊悩のありったけを絞りだすような声だった。一瞬と胸を突かれた水南は、すぐに動揺を飲み込んで氷室を見つめた。 「どういう意味……?」 「僕があえて国土交通省を選んだ理由を、君ならもう知っていると思う。……言葉どおりだ。やり直したいんだ。全てを無に戻して、最初から」 「…………」 「戸籍をくれるなら、君は誰でもいいと言った。でも拒否する権利はあったはずだ。君が父親のいいなりになる女だとは思えない。だとしたら、僕を選んだのは後藤議員ではない。――君だ」 最後の希望にすがる人のように、氷室は必死さを――彼が平素絶対に表に出さない愚直な熱をこめて、水南を見つめた。 「君は、ある意思をもって、僕を選んだ。僕の推測に誤りはあるだろうか。あればそうだと言って欲しい」 「…………」 「僕がこの数日、そのことばかりを考えて夜も眠れなかったといえば笑うだろうか。否定しない、君の前では、僕はおそらく永遠の敗者だ。それでもいい。僕は――君の、本心が、知りたい」 彼のこんな姿を見たのは、人生でこれが2度目だ。 1度目も、そして今も、胸が揺さぶられるような感動を覚えながら、水南は同時にその決断をする時がきたことを理解しなければならなかった。 「水南……僕は、……僕の負けだ」 黙り続ける水南の前で、氷室は両手で顔を覆い、断罪される人のようにうなだれた。 「君と、あんな形で結婚するべきではなかった。……正直にいえば、僕は、君を見下す立場を手に入れたいだけだった」 「…………」 「君が僕の籍にしばられ、苦しむ様を想像するだけで興奮した。そう、僕は人生の勝者として、僕を裏切った君に報復したかったんだ」 「…………」 「でも、心の底から思い知らされただけだった。……何年たっても、僕は君を……」 「天」 遮るように水南は囁き、ゆっくりと首を横に振った。 「……天、もういいわ」 「水南……」 「知っていたわ。天の気持ちは全部……、もういいのよ。本当に」 その時、玄関のチャイムが鳴った。 一瞬視線を背後に向けた氷室が、未練のように水南を見てから立ち上がろうとする。 「天――返事は、天がドイツから帰るまで待ってくれる?」 驚きを露わに振り返った氷室の目に、微かな歓喜が揺らめいたのが見えた。 神様。 「その時に私の気持ちは全部話すわ……。全部……。だからそれまで、どうか私を1人にしておいて」 神様―― 扉が閉まり、ぼんやりと見ていた世界がみるみるぼやけて水に沈んだ。 腕にも胸にも、まだあの日の冷たい感触や声が残っている。 それは一生――生きている限り、永遠に消えることはないのだ。 どうして人は、これほど苦しみながらも生きなければならないのか。 どうして死ひとつさえ、自由に決めることが許されないのか。 神様―― 私はたくさんの罪を犯しました。 けれどこれが、私に課された罰なのでしょうか。 想像できるどの結末も、私にはもう辛すぎます。 もう――私には、辛すぎるのです。 |
||||
>next >back >top |
||||
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved この物語はフィクションです。 |