House of cards
   
   
   
 

「水南!」
 名を呼ばれ、水南は大きく目を見開いた。
 目の前に影に覆われた顔がある。顔――自分を見下ろすあの男の醜悪な顔。
 たちまち息がつまり、心臓が凝固したまま闇に吸い込まれていくような感覚に見舞われる。
「……水南?」
 室内を淡く照らす間接照明が、わずかにその男の輪郭を照らしだした。引き締まった顎と、彫像のように整った鼻筋。不安に陰る切れ長の目。
 水南は小刻みに呼吸しながら、その男の顔を凝視した。
 ――違う……。
 お父様じゃない。
 額に浮いた汗が引き、視野に光と、そして現実が戻ってくる。
 目の前にいる男は、何年もの間、自分を苦しめ続けてきたあの男ではない。
 ある意味、それよりもなお、一緒にいることが耐えがたい男だ。
「……何度も名前を呼ばないで。頭に響くわ」
 額に手をあてると、水南は眉をしかめて半身を起こした。室内にはエリック・サティ。グノシエンヌの一番が流れている。いつの間に眠ってしまっていたのだろう。
「それは失礼しましたね」
 居住まいを正した氷室もまた、眉をしかめるようにして水南から顔を背けた。
 帰宅したばかりなのか、まだ黒のチェスターコートを着たままだ。その肩に雪の結晶が奇跡のように残っている。水南はふと手を伸ばし、その雪の欠片に触れてみたい衝動にかられた。
「放っておこうとも思いましたが、随分、うなされていたようだったので。悪い夢でも?」
 水南はソファの上に座り直した。
「そうね。ひどい夢を見ていたわ。でも天には関係ないことよ」
「少なくともそれは、僕の夢ではないということですね」
 皮肉な目になって室内を見回した氷室が、足元に転がっていたワインの瓶を拾い上げる。呆れた目を向けられるまでもなく、20畳のリビングがひどいありさまなのは判っていた。
 デリバリーの残骸、グラス、煙草、幾種類ものアルコールの容器。溶けて床に流れたアイスクリーム。散らばったドライフルーツ、ナッツ……。
「またパーティーですか」
「退屈なのよ」
「退屈」
「ええ。1日がまるで永遠みたいに」
 氷室はなにも答えず、隣のキッチンからポリ袋を持ってくると、室内に散らばったものを袋の中に投げ入れはじめた。
「掃除?」
「見ての通りです」
「慣れているのね。まるで以前使用人でもやっていたみたい」
 答えない氷室を見上げ、水南はコーヒーテーブルの上に置いてあったクラッカーの皿を持ち上げた。まだ残った中身が、ぱらぱらと床に落ちる。
「放っておいても、明日には志都が来てくれるのに」
「――僕にこんな部屋で夜を過ごせと?」
 彼の持つビニール袋の中で、ぶつかりあったガラス瓶が苛立った音をたてた。
「君と違って、僕は潔癖なんです。この汚れた空気が耐えられない」
「だったら、どうぞ、好きなところに行ってちょうだい」
「ここは僕の部屋だ。だいたいこんな時間からホテルにでも行けとでもいうんですか」
「ホテル? あなたを泊める女なら、いくらだっているでしょう」
 2人の冷えた視線が、空で挑むように絡み合った。
「……君にそんな嫌味を言われる筋合いはないはずですが」
「そうね。私達は、互いの利害のためだけに籍を入れた、形だけの夫婦ですものね」
 水南は冷ややかに言ってソファから立ちあがった。
 肩にかけていたストールが落ち、細い肩紐だけのロングワンピース姿になる。そんな水南に視線を止めた氷室は、口元に皮肉な笑いを浮かべた。
「今日、三条から役所に電話が入りましたよ」
「そう」
「君に頻繁に呼び出されるので、部屋の合鍵をひとつもらえないかと言われました。どう答えればよかったですか」
「あら。じゃあ、私が自分で合鍵を作ってあげるわ。寂しくて死んでしまいそうなんだもの。守が傍にいてくれないと」
 その刹那、確かに氷室が傷ついたのを見て、水南は小さな満足を覚えた。
 2人の位置関係は、こんな異常な事態になった今でもなお――私の方が優っているのだ。
 眉根を寄せ、再びゴミを拾いだした氷室が呟いた。
「三条には婚約者がいる。――そして君は既婚者だ」
「正論ね。そして正論を吐くものは常に敗者だと決まっている」
「…………」
「不思議ね、天。絶対優位のはずだったあなたが、いつの間に敗者になったのかしら」
 動きを止めてしまった氷室を尻目に、水南は髪をかきあげながらバスルームに向かった。
「……僕が、敗者?」
 氷室の呟きが追いかけてくる。
「そうでないなら、たかだかこの部屋で守と過ごしたくらいで苛々しないでちょうだい。まるで嫉妬されているようで気味が悪いわ」
 急激に足音が迫り、影に覆われる。足をすくませた時には、水南は壁に押し付けられていた。
 手首を捕まれ、壁と氷室の間に囲い込まれる。水南はわずかな恐怖と気分の高まりを覚えた。彼と出会ってから何年にもなるが、これほどあけすけな怒りをぶつけられたのは初めてだ。
「乱暴はよして。子供がいるのよ」
「君の子であって、僕の子じゃない」
「だから? まさかいまさら傷ついたふり? 自分1人が被害者のつもりでいるの」
 肩で呼吸だけをしながら、氷室が黙る。
「父はヤドカリにあなたを選び、あなたはその代わりに自分の欲しいものを手にいれた。私はただ、それを黙って眺めていただけ」
「…………」
「自分で受け入れた運命よ。天。私は父が決めた男なら誰でもよかった。この子に籍を与えてくれる相手なら、誰でも」
「…………」
 手首を押さえつけていた圧力が弱まる。氷室は暗い怒りを飲んだような目で水南を見つめ、それを逸らした。
「……僕と離婚して、それからどうするつもりなんです」
「どうする? 生まれた子供と生きていくだけよ」
「………水南」
 壁についた氷室の拳がこわばり、微かに震えている。
「確かに……僕は自分の運命を自分で決めた。それでも聞く権利はある。……何故、君は」
 言葉を切り、ゆっくりと顔をあげた氷室が、苦悩を滲ませた目で水南を見下ろした。
「君が、ただ感情のままに自堕落な振る舞いをするとは思えない。三条のような愚鈍な男が君を愉しませるとも思えない。君には何かの目的があるはずだ。なぜなら僕の知っている君の行動には、必ず意味があるからだ」
「…………」
「君は僕を故意に傷つけ、そして遠ざけようとしている。僕にはその意味がわからない。だったら何故、そもそも君は僕との結婚を承知したんだ」
 目の奥をのぞきこまれるように見つめられ、水南は粟立つような動揺を覚えた。
 天、あなたは賢く、冷静で、いかに追い詰められた状況でも自分の成すべきことを見失うことのない人よ。
 けれどひとつだけ、そしていつも、あなたは一番大切なことを見誤っている。……
「意味なんてないわ」
 口にした途端、一瞬、世界が闇に沈んだ。
「水南?」
「なにもない――平気よ。構わないで」
 また目眩だ。
 立っているのさえおっくうなほどのひどい貧血は、胎児に生命を吸い取られている証のようにすら思える。
「――水南」
「触らないで!」
 はっと身をこわばらせた水南は、渾身の力で、支えようとする氷室の腕を振り払った。
「私の行動には意味がある? 意味のない行動なら、今まで散々してきたわ。たとえば学生時代、あなたをコントロールすることと引き換えにセックスまでしたこと。それから、才能の欠落した芸術家への恋とかね」
 氷室の顔が、屈辱でさっと歪むのが判った。
「もし私が、天を傷つけているのだとしたら理由はひとつよ。子供のために結婚はしても、二度とあなたと意味のない行為をしたくないから。判ったら、その薄汚い手で、私に二度と触らないでちょうだい」

 


 
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この物語はフィクションです。