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「やぁ、日高さん。僕にお電話をいただいたそうで。僕? 僕ですよ、僕。いやだなぁ。もう声を忘れちゃったんですか」
カネサキです。と男は言い、携帯を耳から離そうとしていた成美は、急いでそれを耳に戻した。
うそ、まさかあの――国土交通省で、氷室さんの同期で、私にセクハラしたけど結局愛のキューピッドになった……あの兼崎さん?
「か、兼崎さん? お久しぶりです。あの……あの時は大変失礼いたしました!」
立ちあがった成美を、法規係の全員が見上げた。
午後5時少し過ぎ。就業チャイムが鳴ったばかりの執務室。連日の残業のせいか全員の目がガチャピン篠田みたいに寝惚けている。
携帯の向こうで、兼崎が快活に笑うのが判った。
「いいんですよ。気にしてません。誤解は誰にでもあることですから」
多分本気でそう思っているのが、この人のすごいところなんだろう――と思いつつ、成美は急いで執務室を出た。
階段の踊り場まで出て、ようやく改めて挨拶をする。
「用件は判ってますよ。氷室のことでしょう? うちでもかなり噂になってましてね。氷室に限ってまさか、とは思いましたが……」
心臓が、重くて鈍い音をたてた。
「あの……、それは」
「行方をくらましてるんでしょう? 君にさえ行き先を告げないなんて、氷室はよほど、追い詰められているんでしょうね。僕でなにか、お役にたてることがあればいいんですが」
胸がつかえたようになって、言葉が何もでてこない。
心のどこかで、氷室の失踪は仕事や犯罪とは無関係だと思っていた。原因は、彼の元妻――水南との過去にあると信じていた。
雪村の言うとおり、それは勝手な思い込みで、やはり彼を追い詰めたのは、国土交通省のトップが関わったと噂されている横領事件だったのだろうか。
「日高さん? 聞いてます? 実は僕、今、灰谷市に来てるんですよ。――日高さん?」
身体も心も、いきなり2週間前に引き戻されてしまったようだった。
2週間前――雪村と一緒に、消えた氷室を追って東京に行ったあの日の自分に。――
5月下旬。早くも梅雨入りした雨模様の灰谷市。
短くも濃密だった東京旅行から戻ってみれば、成美を待っていたのは本格始動した仕事の半端ない忙しさだった。
迫りくる6月議会を前に、在籍2年目の成美には、1年前からは想像もできない――いっそ、イジメとしかいいようのない量の仕事が割り振られた。仕事の配分を決めたのは、今や筆頭主査となった雪村である。
この春から着任した新任の課長補佐は、45歳の女性で、元秘書課課長補佐の明松淳子。
優しくて愛想はいいが、仕事に関しては、「私は素人なので、全て雪村さんに任せます」と笑顔であっさり言い切る強心臓の持ち主だった。
そのくせ、課長への報告は、どんな些細なものでも自分が引受け、雪村以下には一切その席に立たせない。傍でそれを聞いていると、雪村の判断で決まったことを、いかにも自分が指示したように説明していて――正直、成美は、新しい課長補佐が好きではなかった。
そんなこんなで、雪村ですら余裕のない法規係の6月は、とんでもなく忙しかったのである。
一番仕事ができない成美が、もちろん一番悲惨な状況だったのは言うまでもない。平日の帰宅は深夜すぎ。週末も休めるような状況ではなかったから、上京できないのは当然として、残された謎を整理する暇さえない。
雪村もまた、戻って以来、一言もその件には触れようとしなかった。
始終ピリピリしていて、福利課の鍵の件はおろか、成美と2人になっても、仕事以外のことは何も言おうとしない。
そんな雪村に、成美の方から話しかける勇気はとてもなかった。
――雪村さんは……もう、この件から手を引くってことだよね。
少しばかり心細いし、無責任だとも思ったが、だからといって雪村を責める筋合いはない。
そもそも雪村は無関係の第三者だし、東京では、多分彼女との約束を反故にさせてしまった。
福利課に預けっぱなしの鍵だけは、雪村に受け取りに行ってほしいと思うが、他の件ではこれ以上雪村に……
「でね、日高さん。よかったら今からお会いすることはできないですか。実は、今夜の9時の便で東京に戻ることになってるんですよ。氷室のことをお伝えしたくても、これから数時間しか時間がなくてですね」
携帯を握りしめたまま、成美は返事をすることができなかった。
いきなり背後から、束ねた髪を引っ張られたからである。
そんな、女性にできる最低限の行為をあっさり逸脱できる人間は、成美の知る限り1人しかいない。
「ゆ、ゆきむ」
しっと、雪村は自分の唇に人差し指をあてると、成美の手から携帯をとりあげ、スピーカー機能をオンにした。
「――てます? 日高さん。どうでしょう、7時にホテルロイヤルのロビーで。あ、もちろん普段着のままで構いませんよ」
成美はこわばった首を、大急ぎで横に振った。
ち、違うんです。雪村さん。私はなにも仕事中に、のんきにデートの約束なんかしてるんじゃないし、氷室さんを探すと言ったその舌の根も乾かぬ内に、他の人とつきあいはじめてるわけでも――
「オーケーしろ」
唇だけを動かして、雪村が言った。
「え、でも」
しっと怒ったように言って、雪村は再度同じように唇を動かす。――オーケーしろ。
どういうこと……?
激しく動揺しながらも、成美は急いで、雪村の手の上にある携帯に向けて言った。
「わ、わかりました。行きます。大丈夫です」
「そうですかー、じゃ、7時に。ロイヤルは料理が上手いんですよね。灰谷市おすすめの郷土料理でも、日高さんに教えてもらおうかな。あっははは」
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