雪村は付箋をつけた該当ページを開いて示した。
「では単刀直入にお聞きします。ここに書かれている烏堂誠司の女とは、神崎香澄のことでしょうか」
「そうです」
「当時の、神崎香澄の職業は?」
「……強いて言えば会社社長かな。事件後、自殺した時にもそう報道されています。元々は銀座の売れっ子ホステスでしたが、店は事件の半年前にやめていますからね」
「では……ホステスをやめて起業した? それともホステスと会社社長の兼業を?」
「後者ですね。といっても社長なんて名ばかりのものですよ。実態は暴力団のフロント企業。『誠会』の会長、烏堂誠司が百パーセント出資し、マネーロンダリングにも利用されていた会社です」
 成美は、胸が重苦しくなるのを感じた。
 烏堂誠司。もしかすると、その人が……神崎香澄が『依頼』した人物だろうか。後藤水南を襲うようにと。
「つまり神崎香澄は、暴力団のフロント企業の経営者だったと……」
「肩書だけをとってみればね」
「そして、烏堂というヤクザの恋人でもあったんですね」
 念を押す雪村に、金森は少しだけ眉を寄せた。
「……恋人。まぁ、そういってもいいかもしれませんが――というより、表向きそういう話になってるんですけどね。なにしろ、香澄を寝取られたことが原因で、烏堂は寝取った相手と殺し合いまでしてるんですから」
「表向き……といいますと」
「烏堂と香澄がビジネスパートナーであったことは間違いないですが、少なくとも肉体関係はない。烏堂はね、女とセックスができない身体なんですよ」
 1人は性的不能者だった――宮原が酒場で言った言葉を、成美もそうだが雪村も同時に思い出したようだった。
「同性愛者、という意味ですか」
「まぁ、そっちの真偽は謎ですが、同性愛者だとしてもネコだったという意味ですね。これは侠生会のタブーであり、一部の捜査関係者しか知り得ない情報ですが、烏堂には性器がないんです」
「……え?」
「ちょん切られてるんですよ。根本から」
 金森が指で空を斬る真似をして、成美は思わず息を引いていた。
「子供の頃、母親から虐待を受けたのが原因のようです。ヤクザであれがないってのもなんだか抜けた話でしょう。だから侠生会でも一部の幹部連中しか知らないトップシークレットでね。漏らしたら殺されます。ふふ、……烏堂が生きていた頃の話ですけどね」
 金森はおかしそうに笑ったが、成美も雪村も笑う気分にはなれなかった。
「実の母親に性器を切り落とされたトラウマか、はたまた生殖機能がない故か……いずれにしても烏堂の周囲に女は1人もいませんでした。そういう意味じゃ確かに神崎香澄は特別な女だったんでしょう。――ただし、恋愛関係ではない。それは僕が断言します」
「では、……どうして、その神埼香澄をめぐって殺し合いなど……」
 ようやく我に返ったように雪村が言葉を発する。金森は苦笑して肩をすくめた。
「ね、警察の動機付けがいかにいい加減だったか判るでしょう? 原因は痴情のもつれなんかじゃない。金ですよ。何かしら大きなシノギがかかっていた。――事件現場となった工場倉庫に、それが隠されていたんです。それを奪い合って、双方が死んだ」
 しばらく黙った後、雪村が探るように囁いた。
「……アルカナ、ですか」
「おそらくね」
「実在するんですか」
「します」
 金森は断言した。
「だからこそ警察は、痴情のもつれという、烏堂をよく知る者なら誰もが首をひねるしかない理由をでっちあげて、事件の幕引きをはかったんです。それがあの抗争事件の真実ですよ」
 その場に深い沈黙が降りた。
「……では、神崎香澄はただの動機付け、警察がスケープゴートに仕立てただけだと」
「だけ、とはいえない」金森はわずかに肩をすくめた。「というのもですね。抗争のきっかけはやはり神崎香澄だったからです」
「というと」
「あの抗争は痴情のもつれなどではなく、アルカナの奪い合いだというのは、僕だけではなく事件関係者なら誰もが確信している真実です。しかしアルカナは過去の遺物だ。現物を手にしたものは誰もいないし、その存在さえ立証されていない」
 言葉を切って成美と雪村を見回すと、金森は微かな笑みを浮かべた。
「つまり過去の亡霊にすぎなかったアルカナを現代に呼び戻し、争いの火種を作ったのが神崎香澄だった――という意味ですよ」
 雪村がけげんそうに眉をひそめた。
「どういうことでしょう。つまり香澄は、アルカナを探しだして入手した……ということなんでしょうか」
「順を追ってお話しましょう」
 頷いた金森が、椅子の背もたれに背をあずけた。
 
 
「神崎香澄が、事件から遡ること半年前、ホステスをやめたという話はもうしましたね。実は香澄はその直後、会社の財産全てを処分して香港に飛んでいるんです。――つまり香澄は、その時点で烏堂を裏切り、袂を分かっていたわけです」
 眉をひそめたまま雪村が訊く。
「暴力団と関わるのが、怖くなったということですか」
「まさか、神崎香澄はそんな女じゃありません。結果として、マル暴が常時マークしていた凶暴なヤクザ2人を闇に葬った女ですよ? 香澄はね、烏堂に搾取される生活にケリをつけたくなったんです」
「……それは、……容易なことではなかったでしょうね」
「あたりまえです。香澄のような金づるを烏堂が逃がすわけはない。しかも会社の金を持ち逃げまでされたのならなおさら、地の果てまでも追いかけて報復するでしょう。香澄にしても、それくらいは承知しています。――香澄はね、烏堂と対等に渡り合うための取引材料を得るために香港に飛んだんですよ」
「……取引材料」
「アルカナです」
 探るように呟いた雪村の疑問を呑んだように、金森は即答した。
「香澄はアルカナの情報を得るために香港に飛んだと僕はみている。事実、香澄が帰国してまもなく、件の抗争事件が勃発しています」
「では、アルカナは香港に渡っていた……?」
「正確には、唯一アルカナの在処を立証できる人物が、香港にいたんですよ」
「誰です。事件の関係者ですか」
「いえ、むしろ表向き全く無関係の人間です」
 金森の目が少しだけ細くなった。
「だから誰にとってもノーマーク。しかし、その男の経歴をたどれば、帰納的にみて、アルカナの所在を知ることに蓋然性がある人物です。香澄というのは、相当に頭がいい女だったんでしょうね。その人物に目をつけたというだけで、ヤクザと渡り合う材料を手に入れたも同然だったわけですから」
「……何者ですか。その人物は」
「それが判れば、僕も香港に飛んでますよ」
 金森は苦笑して両手を広げた。
「判っているのはその人物が男性だということくらいです。おそらくですが、宮田組の関係者……構成員ではなく、準構成員か、宮田組長が個人的に懇意にしていた人物……。警察でもそれ以上は絞り込めていないはずです」
「宮田組、とは……」
「ああ、説明が前後して申し訳ありません」
 金森は手帳を開き、その余白部分に『宮田始』と書いた。
「宮田組とは、侠生会の当時の若頭――つまり会のナンバー2だった宮田始(みやたはじめ)が組長をしていた組織です。今は引退して表舞台から姿を消してしまいましたがね。実はその宮田始こそが、5億円横領事件の公判前、アルカナを消去したと言われている人物なんです」
 さっと雪村の横顔が険しくなった。
「佐伯涼の起こした横領事件に、関与していたということですか」
「そうじゃない――おそらくですが、侠生会のトップ、浅川桐吾の命を受けて、事件の証拠を奪い、葬り去ったんでしょう。その浅川もまた、何者かの依頼を受けている。まぁ、ここではそれ以上は触れませんが」
 つまりデータが公表されては困る横領の真犯人が――侠生会に依頼して、データを消去させた、ということだろう。
 金森はもっと詳しい情報を知っていそうな気もしたが、黙りこむ雪村だけでなく成美もそれ以上聞く気にはなれなかった。
「宮田始は独身で、彼の所有する住居は厳重な警備に守られていますが、件の男性は、その住居に唯一自由に出入りできる立場だったと言われています。よほど信頼されていたのか、――あるいは愛人だったのか。いずれにしても、宮田組長の自宅に自由に出入りできた人間で、今現在所在が知れないのはその人物しかいない、ということです」
「つまり、その人物が、宮田組長の住居からアルカナを盗み出した可能性があるということですね。……でも、アルカナと呼ばれるデータは、そもそも宮田組長の手で消去されたのではないんですか」
「宮田始が、意図的にアルカナを残していたとしたらどうでしょう?」 
「…………」
「動機はいくらでも考えられる。浅川桐吾への切り札として。もしくは真犯人たちへの脅迫材料として――いずれにしても、宮田のしたことは、侠生会にとって許されない裏切り行為であることだけは間違いありません」
「最初に蓋然性とおっしゃいましたね。つまり香港にいる件の人物は、アルカナを盗んだかもしれないし、盗んでいないかもしれない。その、どちらの確証もないということなんですね」
 金森は満足そうに頷いた。
「その通りです。理解が早い人と話すのは楽でいい。そして、そのグレーゾーンに、香澄は自らの命脈を見出したんです。つまり香澄は、自身がたてた仮説に基づいてその人物を探しだしたんですよ。その人物が、アルカナを持ち出したかもしれないという仮説に基づいて」
「…………」
「皮肉なことに、ヤクザどもの過剰な反応が、香澄の仮説が正しいことを証明してしまいました。――つまり、宮田始が密かに隠し持っていたアルカナを、何者かが持ちだしていた可能性はゼロではない。――むしろ、限りなく高かったんです」
 言い切った金森は苦笑して肩をすくめた。
「というより、その仮説なくしては成り立たないんですよね。神崎香澄と接触したその人物は再び行方をくらまし、帰国した香澄は、その足で烏堂と、そして烏堂と敵対関係にある蓮池庸会長と接触した。事件が起きたのはそれからわずか一週間後。蓮池と烏堂は殺し合い、死ぬ間際の構成員がアルカナと言い遺した。――ね? 筋が通っているでしょう?」
「……筋」
「つまり香澄は、アルカナの存在を巧みに利用して、烏堂を敵対組織に殺させたんです。もしかすると、アルカナそのものは手に入らなかったのかもしれない。でもそんな必要はなかった。だって香澄にしてみれば、かつて宮田始の住居に自由に出入りしていたその人物と会った――と吹聴するだけで、連中を信じさせるには十分だったはずですから」
「アルカナを持っていると、……香澄が嘘をついた、ということですか」
「あるいは隠し場所を知っている、とかね。実は、そう聞けば烏堂は身の危険を顧みずに動いたはずなんです。というのも宮田始――宮田組長は、烏堂にとっては非常に特別な恩人なんですよ」
「――特別な恩人」
「義理の父です。宮田始は、孤児だった烏堂を引取り、極道として育てあげた、いわば育ての父なんです。その恩人の立場が危うくなる。――烏堂は、何を犠牲にしてもアルカナを取り戻そうとしたでしょう。長年烏堂のパートナーだった香澄は烏堂の性格を知り抜いていた。だからこそアルカナを利用し、敵対組織と烏堂の殺し合いを企んだんです」

 
 




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