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「そういやお前、宮原さんの言ってた事件、調べてみたか」
待ち合わせをしているという駅構内の喫茶店に腰を落ち着けると、雪村がそう切り出して、鞄の中から一冊の単行本を取り出した。
「事件って、氷室さんのお父さんの」
「そっちじゃなくて、暴力団の抗争の方。不思議なことに当時の新聞を検索しても、殆ど報道されてないようなんだ。この本が一番詳しかった。――今から会う、金森和明さんの書いた本だ」
黒っぽい装丁の単行本。表紙には、『闇社会の真相』という赤色のタイトルロゴと、警告を意味するハザードシンボルが描かれている。
「さっきは嫌味で訊いてみたけど、どうせ何も調べてないんだろ。付箋のついてるとこ、ざっと目を通しといてくれ。金森さんとの話が進めやすくなる」
「わ、わかりました」
成美は慌てて本を取り上げた。
そうだ、もう逃げずに向き合うしかない。真っ暗なトンネルの先には絶対に光がある。あるはずだと――そう信じて。
「てか、そういうの、せめて新幹線の中で言ってくださいよ。なにも約束の5分前になって言い出さなくても」
短時間で読めるかしら、と思ったが、心配は無用だった。文字は大きく、文章は簡潔。どうやらあまり本を読まない若者世代向けに書かれたものらしい。
★ 平成の仁義なき戦い? 侠生会若頭候補、死のデュエル
侠生会といえば、暴対法施行に先駆けて、いち早く経済ヤクザへと舵の切り替えを行った組織として有名だ。
老舗組織が弱体化していく中、次第にシノギと勢力を伸ばし始め、ついには神戸山中組に次ぐ巨大組織に成長した。
侠生会は、関東テキ屋集団の元締めだった雄島一家がその発祥である。四代目組長、雄島銀次郎を勇退に追いやり、かわって侠生会のトップに立ったのが現組長、浅川桐吾だ。
経済ヤクザの先駆けとあって、侠生会のやり方は従来のヤクザと大きく異なっている。まず組織は武闘組と経済組に完全に二分され、後者に属する組員は、そもそも盃を交わしていないか、偽装破門されている。要は警察の取り締まりを逃れるための、エア破門である。
破門された組員たちは表社会に溶け込み、IT実業家、会社社長……、中には政治家の秘書なんかをやっている輩もいる。驚くなかれ、ドラマよろしく警察内部に入り込んでいるという噂もある。
侠生会は、今もっとも全容がつかみにくいヤクザ組織だと言われている。下部団体も構成員の数も、警察が掴んでいる以上の規模かもしれない。あなたが信頼している隣人がもしかして……なんてことも、ごく普通にあり得るのだ。
さて、その侠生会で、近年、武闘派も真っ青の血なまぐさい事件が起きた。
侠生会の直若頭候補とも囁かれていた若手組長2人が、揃って遺体で発見されたのである。
その2人とは、『蓮池組』組長の蓮池庸(47)と、『誠会』会長烏堂誠司(30)。
どちらも組対四課が常時監視するほどの大物で、侠生会では若頭補佐というポジションについていた。
両組織は、新宿の利権を巡ってかねてより不仲が囁かれていたが、烏堂会長の女を蓮池組長が寝とったことから、ついに殺し合いにまで発展してしまったようだ。事件の様子を簡単にふりかえってみよう。
事件は都内の外れにあるさびれた工業街で起きた。現場は、閉鎖された工場の倉庫内。車通りも殆どなく、広大な工場敷地内は当然無人。これが昭和初期なら、任侠者同士の決闘にはもってこいの場所だったといえよう。
発見時、蓮池組長と烏堂会長は折り重なるようにして倒れていたという。蓮池は頸動脈を鋭利な刃物で切断され、ほぼ即死の状態。片や烏堂は全身を何発も銃で撃たれているという凄惨な有り様だった。
現場には、あと3人、蓮池会の構成員が倒れていたが、2名は既に死亡しており、1名は意識不明の重体。結局本格的な事情聴取が始まる前に病院で死亡が確認された。
つまり、こういうことだ。蓮池組4名に対して、烏堂会長はたった1人。それで全員死亡という不思議。
あるいは現場には、他の構成員も少なからずいたのかもしれない。生き残った連中が死体を捨てて逃走したことは容易に考えられるからだ。
銃弾の線条痕を調べれば誰が誰を殺害したかは明白だったと思われるが、何故かこの事件は単なる怨恨として処理され、捜査はあっさり打ち切られた。
もしこの事件に何かしら深淵な裏があり、侠生会が警察に圧力をかけて幕引きをはかったのだとしたら……。
これ以上は筆者でも踏み込めない領域となるので、後は読者の想像にお任せするが、この不可解な事件ひとつみても、侠生会が相当深い闇を抱えた組織であることだけは間違いない。
「……これ、本当に最近あったできごとなんでしょうか」
成美か強張った顔をあげて雪村を見ると、雪村は指先で摘んだ何かを光にかざして見つめているようだった。
なんだろう、と思った成美はすぐにその正体に気がついた。
鍵だ。
氷室さんがマンションに残した忘れ物で、昨日まで福利課に預けていた使途不明の鍵。
「駄目だ」
雪村が目を瞬かせながら、その鍵を机の上に置いた。
「100匹までは数えたけど、目が疲れてきた」
「100匹?」
「魚。この鍵の表面に、ちっこい魚の彫り物がしてあるだろ」
そういえばそうだった。成美はそっと、青く錆びた小さな鍵を取り上げる。
小さすぎてもう点にしか見えないが、確かに典型的な魚の形をした彫り物が、びっしりと表面を埋め尽くしている。
「意味あるのかな。魚に何か」
「……さぁ、でも後藤家って、海とか海産物に関係なさそうですけど」
成美が首をかしげると、再びその鍵を成美から取り上げた雪村が、ふっと何かに気づいたように眉をあげた。
「もしかして、財宝の隠し場所を示す鍵だったりしてな」
「は?」
「いや、関係ないと思ってたから黙ってたけど、実は司書のおっさんからこんな話を聞いたんだ。後藤家の山には、何代か前の祖先が残した財宝が埋められたままになってるんだとか」
成美はぽかんと口を開けた。なんだか話が、関係ない方向に流れている気が。
「だから昔は、盗人が山に勝手に侵入する騒ぎがよくあったんだそうだ。それで面倒になった当時の当主が山の半分を手放したって話。――もちろんただの噂だろうし、今じゃ誰も信じてないって話だったけど」
言葉を切った雪村は、鞄の中から折りたたんだ紙片を取り出した。
「でもさ、これもそうだが、残されたものがいちいち暗号めいてて、財宝の線もありなんじゃないかという気がしてきたよ。これ、氷室さんのキーケースに入ってた本の切り抜き」
成美は思わず息を飲んだ。
ニーチェの『善悪の彼岸』である。
「あてずっぽうで色々解釈はしてみたけど、結局のところ、なんの目的でこんな紙が入っていたのかは、謎だよな。仮に警告だとしても……これが氷室さんがお前にしたことだと思うと、正直、ちょっと気分が悪いよ」
成美は黙ったまま、何も言うことができなかった。
その覗きこんだ深淵の中に何があるのか、私はもう知っている。
その中には――深淵の中にいたのは――
「神崎香澄の件ですね。灰谷市の市役所の方……。まぁ、だいたいのところは宮原先輩から聞いてます」
にこやかに笑んで手を差し出した人を、成美は少しだけぼうっとしながら見つめた。
これはちょっと――不謹慎ではあるけれど――なかなかお目にかかれないイケメンだ。
駅構内の喫茶店。旅行客が慌ただしく出入りする店の一角で、3人は向き合ってから初対面の挨拶を交わした。
「宮原さんからお聞き及びだとは思いますが、僕らが神崎香澄の件を調査している目的などは……」
「詮索しません。本来ならこんな一方的な取材はお受けしないのですが、まぁ、今回は特別です。宮原先輩には借りがあるので」
「ありがとうございます。改めて失礼をお詫びします」
雪村と握手している男――金森和明。色白でウエーブのかかった短髪に口ひげ。スリムで引き締まった、いわゆる細マッチョの体型をした男は、雪村から手を離して成美の方に視線を向けた。
ドキリとした成美は、慌てて手の汗を着ていたシャツブラウスで拭ったが、イケメンライターはさわやかな笑みを浮かべて、「どうぞ、おかけください」と言っただけだった。
あれ?
と、思った成美は雪村の横顔を見て納得した。また、笑うモアイ像になっている。
ということは、つまり――そういうことだ。金森和明、この人も多分……宮原さんの同類。
な、なるほど、雪村さんが昨夜から胃がキリキリしてたって……そういうこと?
「雪村です。こう見えて、年は40を超えてます」
「伺ってますよ。宮原先輩から」
金原は爽やかに苦笑して、わずかに首をかしげてみせた。その間、潤みを帯びた黒目がちの瞳は一度として雪村の目から逸らされていない。
「じゃ、さっそく始めましょうか。11時の便で関西方面に取材に行く予定なので、時間はそうありませんが」
「すみません。貴重なお時間をいただきまして」
「かまいませんよ。僕にとっては、今のこの時間が、とても貴重なものになりそうです」
とどめのウインクに、雪村はすでに蝋人形みたいになっていた。
すごい。
雪村さんの拒否オーラをものともしてない。この人。
ある意味、宮原さんより何倍も危険なタイプかもしれない。もし、あんな情熱的な目で見つめられているのが私だったら……正直ちょっと、やばいかも?
しかし当然、熱視線を向けられた雪村が喜ぶはずもなく、引きつった横顔は岩石みたいにこわばっている。
運ばれてきたコーヒーを、ワイルドな口ひげを生やした唇に運びながら、金森は愛想よく切りだした。
「もうお聞き及びだと思いますが、僕は組対四課、マル暴の元デカです。まぁ、趣味が高じて、結局自分が刑事にまでなってしまったといいますか」
成美には初耳だったが、雪村は心得たように頷いた。
「前職は承知しています。けれど、趣味といいますと」
「つまり――刑事とヤクザというのはですね、雪村さん。僕が知る限り最高の組み合わせなんですよ」
「…………」
は?
数秒黙った成美と雪村は、凍りついていた。
なにが? 最高って、なにが?
気になる。ものすごく気になるけど、それは絶対きかない方がいいような気がする。
「とはいえ、刑事でいる限り、必要以上にヤクザと親しくなれないですからね。それが面倒になって、警察をやめたんです。7年ほど前ですか。それ以来、趣味と経験と実益を兼ねて、今の仕事をやってます」
「なるほど。興味深いお話です」
雪村が大人のコメントを返して頷き、付箋をつけた『闇社会の真相』をテーブルの上に置いた。
「ご著書をいくつか拝見しました。この本もそのひとつですが――随分、暴力団の内情にお詳しいようですね。文章は子供向けでも、ここまで詳しく書かれたものは、当時の新聞にはひとつもありませんでした」
「組織の中に、複数の情報源がいるんです。まぁ、しゃれ抜きで命に関わるので詳しくは申し上げられませんが、僕の情報はある意味警察よりも確かです。言っておきますが、この本には僕の知り得た情報の半分も載せちゃあいませんよ」
「……今日は、この本に載せられなかった事実を、おうかがいすることになると思いますが」
わずかな間の後、金森は薄く微笑した。
「承知しています」
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