3
 
 
 たった2週間前、息もできないほどに混んでいた新幹線は、まるで嘘のように空いていた。
 自由席。通路を挟んだ反対側の席に座る雪村を、成美は横目で見てから目を伏せた。「着くまでは絶対起こすなよ」その言葉どおりに雪村は、腕を組んで眠っているようだ。
 宮原と会った週末、2人は再び東京に向かっている。雪村が福利課から受け取った使途不明の鍵を持って。
 ――いいのかな。本当に……。
 成美は気鬱なためいきをついて、シートに頭をもたれさせた。
 前の東京行きは自分で決めて、雪村はその付き添いだった。それが途中からなんだか立場が逆転して――それもどうかと思っていたのに、今日の東京行きは、もう完全に雪村の主導である。
(は? 意味が判らなかった? 神崎香澄のことに決まってるだろ)
 宮原と会った夜の帰り道。いまだ事情が飲み込めない成美に、雪村は信じられないといった風に話してくれた。
(暴力団の抗争のきっかけになったっていう銀座の元ホステス。あれは神崎香澄のことなんだよ。輸入会社の女社長。お前が検索してたネットにもそう書いてあったろ)
 呆れたように言われても、そんなの説明されなきゃ判らないと成美は思った。だって、宮原さんの話は暴力団同士の抗争のことで、三条さんとも氷室さんとも無縁の話だと思っていたし――
「………………」
 無縁、ではないのだ。
 氷室の父親が犯した罪と、アルカナと暴力団と神崎香澄。
 それらはもしかして、何かの線で繋がっていたのかもしれないのだ。
 そこに氷室が全くの無関係だったとは、もう成美にも思えない。
 辿り着いた先にとんでもない危険が待っていることだって、――絶対にないとはいえないのだ。もう。
 ――宮原さんの言うとおり、これは私の問題で雪村さんの問題じゃない。むしろ、これ以上雪村さんを巻き込んじゃいけないのかもしれないのに……。
 手の中列車がトンネルの中に入る。暗くなった窓に映る自分の顔を、成美はひどくぼんやりと見つめた。
 ――どっかで、雪村さんの手を離さなきゃいけない。……どこかで、手遅れにならない内に……。
 手には、あの夜、雪村から預かった名刺がある。
 フリーライター 金森和明
 白い紙片には、あとは携帯番号しか記されていない。
 雪村が、宮原から紹介されたというフリーのジャーナリストである。
(今回宮原さんには、佐伯涼の事件と……それからもう一つ、神崎香澄の自殺について、公にされていない事実はないかって聞いてみたんだ。神崎香澄については最初に電話で断られた。宮原さん自身が少なからず捜査に関わった経緯があるし、もっと詳しい人がいるからって)
 その詳しい人――暴力団専門のルポライター、金森和明に会うために、2人は今東京に向かっている。
 1人で行きますとは言えなかった。
 正直、心細かったし、これ以上先に進むことへの怖さもあったからだ。
 結局、まだ雪村を頼っているし、精神的に依存している自分がいる。
 長い息を吐いた成美は、再度、雪村の様子を窺った。
 寝ているように見えるが、実は起きているようにも思える。単に会話をシャットアウトしたいがために、あえて目を閉じているような。
「あの……」
「…………」
「あの、雪村さん」
「声かけるなっつったろ」
「す、すみません」
 びくっと姿勢を元に戻した成美は、数秒して、ん?と眉を寄せた。
 なんだ、やっぱり起きてんじゃん。
「……なんだよ」
 思いっきり不機嫌そうな声が、伏せた顔から帰ってくる。
 成美はもじもじと膝の上で指を組み合わせた。
「あの……そのですね。金森さんとの話は、午前中には終わるんですよね」
「忙しい人だからな。30分以内には終わらせてほしいと言われたよ。それで?」
 おずおずと成美は続けた。
「その……その後は……」
「その後? 後藤家に行くっつったろ。なんのために鍵を預かってきたと思ってんだ。福利課じゃ随分悪い顔されたんだぞ」
 雪村は、運転免許証のコピーをとらされた上に、借用書まで書かされたらしい。そしてようやく鍵だけを借りることができた。つまるところ福利課は、成美をまるで信用してくれなかったということだ。
「ご……後藤さんの家には私1人で行こうと思ってます」
「は?」
「な……、なのでですね。雪村さん、もしよければ、東京の彼女さんと」
「はい?」
 その瞬間の雪村の反応は、彼の顔を見るまでもない。成美はひっと肩を震わせていた。
「ごっ、ごめんなさい、ごめんなさい。余計なこと言いました」
「――お前な、遊び気分なら大概にしろよ。宮原さんからあんな話聞いて、よくそんなふざけたことが言えるな!」
「ちょ、雪村さん、声が」
 大きいから、同じ車両に乗り合わせた全員がこちらを見ている。
 それに遊び気分でもふざけているわけでもない。ただ――これ以上、彼を付きあわせてはいけないと思ったから――
「こっちは、昨日から胃がキリキリしてんだよ。何が彼女だ。次言ったら、マジで新幹線からたたき落とすぞ」
「……す、すみません」
「だいたいお前はな」
 そこで、怒りを呑んだように言葉を切った雪村は、しばらく成美を睨んでいたが、やがて疲れたような息を吐いた。
「何があったよ」
 ――え……?
 てっきり説教が続くと思った成美は、その言葉に少し驚いて顔をあげた。
「何がって」
「テンション、前と全然違うだろ」
 テンション?
「腰が引けてんのが見え見え。やめたいならそう言えよ。金森さんには、もともと1人で会いに行くつもりだったし」
 胸のどこかに、不意に重い石が詰め込まれたような気がした。
「あの……言われてる意味がよく」
「意味わかんないのは、俺じゃなくてお前だろ。最初、人がいくら止めても、わけのわからないポジティブな理屈つけて暴走してたくせに、今じゃどうだ。東京から帰って以来、てんでやる気をなくしてるじゃないか」
 なぜだか、一番見られたくない部分をのぞきこまれたような、ひどく嫌な気分になった。
「別に……なくしてなんかないですよ」
「へぇ、じゃあ、今までいったい何してた」
「何って」
「前回の東京行きからもう2週間以上が過ぎたってのに、今まで何をしてたんだよ」
 さすがに成美は、むっとした。
「なにをって、雪村さんから押し付けられた仕事に忙殺されてたんですけど」
「ふぅん、何もかも俺のせいか」
「だって、自分でそう言いましたよね。私が1人で動かないように。わざと仕事を振ったって」
「じゃあ聞くが、何もできなかったのは本当のそのせいか? 時間はなくても考えることはできたはずだ。俺はてっきり福利課に行けってお前から矢の催促だと思ってたよ。でも、なんの催促もされなかった。それどころか、東京行きの話ひとつでてこなかった」
「それは――」
 説明できない反発の気持ちが不意に喉をついてくる。
「仕事が忙しかったからじゃないですか。ベテランの雪村さんと違って、私には日々の仕事をこなすだけで精一杯なんです。だいたい雪村さんピリピリして、取り付く島さえなかったくせに。話なんて振れるわけないじゃないですか」
 雪村は呆れたように鼻で笑った。
「悪いが、俺はお前みたいに救いようのない鈍感じゃないんでね。話がしたい気配があればすぐに気づくさ。なんにも感じなかったけどな、お前からは」
「だから仕事が――繁忙期は公私混同してる場合じゃないでしょう?」
「普段からしまくってるお前が何言ってんだ。だからそういうのの何もかもが言い訳だって言ってんだよ!」
「言い訳なんかじゃありません!」
 次第に激しい口調になっていく2人を、車内の誰もが珍しい見世物でも見るような目で見ている。その視線に気付いたのか、雪村は言葉を飲み込み、怖い目で成美を睨みつけた。
「わからないなら言ってやるよ。お前はな、びびって尻込みしてんだよ。これ以上氷室さんの過去を知るのが怖くなった。そうだろ?」
「そんなんじゃ」
「だったら適当にごまかしてないで、はっきりやめるってそう言えよ。今からでも約束キャンセルして灰谷市に引き返すから!」
 そうじゃない――
 雪村への敵愾心がどうしようもなく胸の裡で膨れ上がる。
 頭の中では、嵐のように反論の言葉がうずを巻いている。
 そうじゃない。
 何も知らないくせに。私と氷室さんの心の繋がりなんて、なんにもわかってないくせに――
「……このままでいいのかよ」
 やがて疲れたように言う雪村から、成美は顔をそむけて唇を噛みしめた。
「……このままでって?」
「三条守が言ったことを、そのまま氷室さんの真実にしていいのかってことだ。女をもてあそんで自殺させ、妻と結婚するために犯罪まがいの真似までした。それを結論にして本当にいいのか?」
「別に、……誰も結論にするなんて言ってないですし」
「結論だよ。調査を今断念するってことは、そこまでの結果が結論になるってことだ。少なくとも俺とお前の中では、それが氷室さんの真実になる」
「そうじゃない、そんなこと言ってない。それに、たとえ過去に何があったって私は氷室さんを信じてます!」
「胸の底でずっと疑惑を抱きながらか? そういうのは信じてるっていうんじゃない。目をつむってるっていうんだ!」 
 はっと胸をつかれたようになって、成美は黙り、視線を逸らした。
「俺は氷室さんに何の思い入れもないが、少なくともお前が選んだ相手がそんな卑劣な奴だとは思いたくない。絶対に思いたくない」
「…………」
「だから今、目をつむったまま終わりたくないんだよ」
「…………」
 黙る成美を見下ろした雪村が、小さく息をつく。そして同じセリフを言った。
「何があったよ」
「…………」
「俺の知らないところで、誰かに何か、聞いたのか」
 成美は首を横に振った。
 ふいに肩から力が抜けて、目頭が熱くなる。
 自分でもなかなか認められなかった。でも、やっぱり雪村さんには見ぬかれていた――。
「……怖くて」
「何が」
「…………」
「政治家絡みの犯罪や暴力団が絡んでたことか」
「…………」
 黙って首を横に振る成美の隣に、席を立った雪村が不機嫌そうに腰を下ろした。
「馬鹿じゃねぇの」
 呟いた雪村がハンカチを差し出してくれる。成美はそれを潤みだした目に押し当てた。
 やばい。泣くつもりなんてなかったのに。
 どうしてここ最近、こうも私、涙腺がゆるくなっちゃったんだろう。
 しばらく黙って成美が落ち着くのを待っていた雪村が、微かにため息をついた。
「俺なんか、最初から怖くてしょうがなかったけどな」
「そうなん、ですか?」
「人の過去なんて、基本怖いよ。隠れた裏の顔なんてみるもんじゃない。お前がしようとしているのは、そういうことだ」
「…………」
 人の過去――裏の顔。
 決して表には出ない影。
「でも氷室さんは、お前にそれを見せようとしてる。お前自身が断言したことだ。――そうなんだろ」
 成美はまつげを震わせながら、小さく頷いた。
 氷室さんの残した鍵――言葉――それは間違いなく、私をいざなってくれるものだ。
「そ、そうだと、信じてます」
「だったら、最後までへこたれんなよ」
 ばふっと頭を叩かれる。
「危ないと思ったら、俺が見極めて撤退する。話をきくのは信頼できる相手だけにして、こちらから余計なことはしゃべらない。そして、絶対に深入りしない。――大丈夫、必ず手がかりは残されてる。単純なお前相手に、氷室さんも複雑な謎を残したりはしない」
 うなだれた成美は、唇を噛んで頷いた。
 そうだ。私は最初から、闇と承知で氷室さんの過去に飛び込んだはずだったのだ。
 三条守から彼の残酷な側面を教えられた時にも、ショックではあったが、怖くはなかった。
 それが堪らなく、――どうしようもなく怖くなったのは、彼の過去に自分の姿が見えた時。
 彼の闇に棲む登場人物の1人に、自分がいると分かった時。
 光の中に住んでいたはずの自分が、実は闇の、一番深い場所にいたとわかった時だ。
 彼はそのことを私に教えて、そして……どうしようと思ったのだろう。
 最後に零れた涙をハンカチでぬぐって、成美はようやく顔をあげた。
「すみません、確かにちょっと、びびってました」
「びびんの遅すぎ。どうせなら最初からびびってろよ」
「だって……奥さんの幽霊に連れていかれたと思ってたから」
「お前のその発想の方が、俺は怖いよ」
 返そうとハンカチごと差し出した手を、雪村は見もせずにばしっと叩いた。
「えっ、ちょっ、痛っ、なにするんですか」
「手洗いして、アイロンかけて、トワレをつけて返せ。うちの母親はいつもそうしてくれる」
「……筋金入りのマザコンですね」
 落ちたハンカチを拾い上げると、なんと特注なのか雪村のイニシャルが刺繍されている。それを手ではたきながら、成美は雪村を横目で見上げた。
「言いにくいんですが、主査の結婚相手にいたく同情します」
「大きなお世話だ。というより、これは育ちの問題だな。お前、ハンカチにアイロンなんてかけないだろ」
「っ、し、失礼な。私が持ってるのはタオルハンカチで、そもそもアイロンなんて必要ないんです」
「イメージの話をしてんだよ。それがタオルかどうかなんて関係ない」
「それ、ますます失礼じゃないですか」
 ひどい言葉の応酬なのに、成美は自然に笑っていたし、雪村の横顔も楽しそうだった。
 その時、車内に終点到着をつげるアナウンスが流れ始める。なんとはなしに会話が途切れ、雪村は前に向き直った。
「……そろそろだな」
「……そうですね」
 同じように前に向き直りながら、ふと、このままずっと車内にいたいような不思議な感情に見舞われる。
 これも現実逃避だろうか。多分そうだ。多分――そうだ。






 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。