わずかな沈黙の後、「そうですか」と呟いたのは雪村だった。
「……別に不満じゃないです。むしろ安心したというか……、完全に、ではないですけど」
「というと?」
 宮原の問いに、雪村は眉根を少しだけ狭くさせた。
「佐伯の息子は、現に国土交通省に入省しているからです。……その理由が腑に落ちない。全く無関係だとはいえない気がして」
 宮原は口元を少しだけ歪めて笑うと、煙草を深く吸い込んだ。
「――ま、君らが何を調べてるのかは知らないし、詮索もしない約束だからしないけど――いまさら掘り返しても、という気はするね」
「と、いうのは」
「君らレベルがたどり着けるような真相なら、とっくに佐伯の息子も気がついていると思うからさ。そう……多分、何年も前にね」
 宮原は独り言のように言って、両方の肘をついて頬を支えた。
「まぁ、こっからはオマケだな。オフレコだと思って聞き流してくれればいいけど」
「もちろん、ここで聞いた話は一切他言しません」
「――全部噂。信憑性ゼロ。その前提ね」
 2杯目のノンアルコールビールをまずそうに飲み干し、前を見たままで宮原は続けた。
「当時――佐伯が全面否認に転じて公判が延期になっていた頃のことだけどね――東京地検特捜部では、こんな噂がしきりに囁かれていたそうだ。佐伯の無罪を証明する音声データが存在する。本当の横領犯たちが交わした会話を盗聴したもので、万が一公表されれば現内閣の総辞職は確実なくらいの、スキャンダラスな代物だ」
「……音声、データ」
 虚をつかれたように雪村は呟いた。
「そんなもの……、あったんですか。色々調べても、そんな情報はどこにもなかった。今、初めて聞きました」
「当たり前だよ。これはいわば東京地検特捜部の都市伝説。間違っても公開されるわけがない。――まぁ、今のも僕の独り言だけどね」
「では、真偽のほどは判らないんですか」
「少なくとも、僕は知らない」
 いったん言葉を切って前を見たまま、宮原は聞いたこともない単語を呟いた。
「アルカナ」
「………アルカナ?」
 雪村と成美は顔を見合わせ、雪村がそれを復唱した。宮原が小さく頷く。
「件のデータ、地検ではそう呼ばれていたそうだ。アルカナ。秘密、神秘……、ラテン語だよ。タロットカードが語源になっている」
「何故、そんな呼び方を」
 それこそわからない、とでもいう風に宮原は肩をすくめた。
「これは隠語だ。関係者の間だけで通用する隠し言葉。誰が呼び始めたものかは知らないが、少なくともデータの存在について、地検内で極秘に調査されていたことを意味してるんじゃないかと思う。――そんなものが公判半ばに出て来たら裁判はひっくりかえる。司法が大恥をかくことになりかねないからね」
「でも、結局はでてこなかった」
「そう。少なくとも表には」
 つまり――どういうことだろう。
 成美は混乱しかけた頭の中を整理しようとした。
 つまり、氷室さんのお父さんは、無実だったかもしれないということだ。
 その無実を証明する音声データが、存在していたかもしれないということ――
「……今から、7、8年ほど前のことかな」
 いったん考えこむように言葉を切ってから、宮原は続けた。
「東京を根城にする広域暴力団内でちょっとした抗争が勃発してね。……まぁ、組織内部の権力争いだな。将来組長候補とも目されていた幹部候補2人を含む5名が死んだ。実際、ヤクザが近代化した昨今ではあまりきかない話だよ。敵対する組織同士ならともかく、血の結束で結ばれた組織内で、しかもボス同士が殺し合いなんてね」
「……どこの、組ですか」
「指定暴力団組織侠生会(きょうせい)。その二次団体である『誠会』と『蓮池組』。死んだのは双方の組長だ。両組織は即日解散し、母体である侠生会から警察に上申書が提出された。抗争は組長同士の個人的怨恨が原因であり、世間を騒がして誠に申し訳ないってね。簡単に言えば、2人の組長が、1人の女をめぐって喧嘩したっていうオチだ」
「それで、殺し合いですか」
 呆れたように雪村が口を挟む。
「そう。よほどの魔性の女が、2人の強者極道を翻弄したんだろうね。輸入会社の女社長で銀座の高級クラブの元ホステス……。その女も、侠生会に追い込みをかけられたのか、事件後半年もたたない内に自殺している」
「…………」
 ふと黙り込んだ雪村の横顔が、次の瞬間、あっとでも言うように大きく動いた。
「み、宮原さん、その話はもしかして」
 雪村の声を無視するように、前を見たまま淡々と宮原は続けた。
「僕は当時まるで別のセクションにいたが、ちょっとした関係があって事件のことは少しだけ聞きかじっている。……今思い返しても、不可解なところが多い事件だったよ。2人の極道は、1人は既婚者、1人は性的不能者。少なくとも女を巡って喧嘩するような、のぼせあがった若造じゃない。そんな2人が、まさに命を賭して争った。なんのために? あくまで組対4課内の下っ端から漏れ伝わってきた噂にすぎないが、原因として浮上したのが『アルカナ』だ」
「どういうことなんです」
 席を半ば立つように言った雪村の剣幕は、尋常ではない。
 成美は、戸惑いながら、そんな雪村と宮原は交互に見た。
 口を挟む暇さえなかったが、この会話には、自分1人だけが知らされていない何かがあるのだ。しかもそれは、雪村の様子を見る限りひどく重要なことらしい――
「唯一生き残った――正確には病院で死亡したが、唯一、警察の事情聴取を受けることができたヤクザが、意識を失う間際に『アルカナ』という言葉を口走った。4課は麻薬の裏取引を意味する隠語とみて調査にかかったが、被疑者全員死亡で捜査は打ち切り。まるで亡霊みたいにこの世に再び現れた『アルカナ』と共に、真相は闇の底に葬り去られた」
「…………」
「それ以上でも以下でもない。本当のことは、誰も知らない」
 重苦しい沈黙の中、宮原はすっかりちびてしまった煙草を灰皿に押し付けた。
「なにもかも噂で申し訳ないが、深入りすればその程度には危険だってことの……忠告かな」
 雪村は黙ったまま何も言わない。
 宮原は頬杖をつき、どこか冷めた笑いを浮かべた。
「でもな、雪村君。それがいくら危険な道でも、君以外の誰かの問題なら、決めるのは君じゃないぞ。――それがどれだけ心配で、どれだけ大切な相手でも」
「…………」
 しばらくその意味を考えた成美は、えっと驚いて雪村を見上げた。
 それは、つまり……心配で大切って……私のこと?
「ちょっ、おかしな誤解を招くような言い方はやめてくださいよ。僕はただ、話を聞いた以上、道義的な責任を感じてるだけで」
 奇妙に慌てる雪村を見て楽しそうに笑うと、宮原は再びその視線をテーブルに落とした。
「いいなー、若いって」
「わ、若いとかそういう問題じゃ」
 カランと、空になったグラスの氷が音をたてた。
「……人ってのはな、雪村君。常に他人と関わっているようにみえるが、しょせんどこまでいっても1人なんだ。最初と最後だけが1人なんじゃないぞ。最初から最後まで、ずっと1人だ」
「…………」
「いつか君も、本当の意味での岐路に立たされた時にわかるよ。親子でも、姉弟でも、親友でも夫婦でも、誰も、自分の人生を引き受けてはくれない。……まぁ、寂しがり屋のおっさんのたわごとだな」





 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。