軽く息をつき、気まずい沈黙を破って口を開いたのは雪村だった。
「すみませんでした」
「………………」
 なんだろう。その他人行儀なふてぶてしい謝り方は。
「お気持ちもお察しできずに、勝手なことして悪かったですね」
「………………」
「ブース。すげーぶんむくれた顔してるぞ」
「ちょっ、なんなんですか、さっきから!」
 火に油注いでんですか。それとも本格的に喧嘩売ってんですか。
 けれどいつもの調子で言い返せたことが、逆に成美の中にあった虚勢みたいな強張った感情を消し去っていた。
「……ごめんなさい、私が……言い過ぎでした」
 うつむいたままぎこちなく言うと、雪村が、小さく息を吐くのがわかった。
「……説明するよ。でも悪いが、この件については俺は一切妥協しないからな」
 空になったグラスを脇によけてから、雪村は話しだした。
「……氷室さんが消えた理由、お前の言い分はひとまず置いて、俺なりに冷静になって考えてみたんだ。悪いが俺にはお前みたいな少女漫画的な考え方はどうしてもできない。何かしらの犯罪に巻き込まれたか――もしくは、巻き込まれることを回避したのか。でもお前にそれを話したところで納得なんてするはずがないだろ。だからまず、その線を客観的に潰してみようと考えたんだ」
 東京に行って、判ったことがある。
 雪村は続けた。
「氷室さんの人生には、俺たちが想像してた以上に様々な犯罪が絡んでたってことだ。元上司が犯した収賄。父親が犯した横領。それから、何があったか判然としないが、元恋人が犯したなんらかの犯罪行為と――自殺だ」
 自殺した神崎香澄。
 氷室の元恋人で、三条の話では、水南の妊娠の原因を作った女だ。
 混乱と反発がごっちゃになって、成美はグラスのカクテルを一口だけ飲んだ。
やっとわかった。それで雪村は、昨日兼崎にあれだけしつこく問いただしていたのだ。
 氷室の元上司が犯した収賄に、氷室が関わっていたかどうかを。
「ひとつは全然関係ないって、判りましたよね」
「一応な。でも納得したわけじゃない」
「なんで――」
「奇妙だと思わないか。父親と元上司。ふたつの犯罪は、奇しくも同じ国土交通省で起きている。建設省は国土交通省の前身だからな。――つまり氷室さんは、父親が罪を犯した職場をあえて就職先として選んだんだ。普通に考えておかしいだろ」
 成美は答えられず、少し黙った後に雪村は続けた。
「いずれにしても、父親の事件を詳しく調べてみる必要がある。俺がそう思ったのは間違いか?」
「……間違いだとは、思わないですけど……」
「そして、犯罪が絡んでいる可能性がある以上、そこをはっきりさせない限り、お前を1人で東京に行かせるわけにはいかないと思ったんだ。だから足止めの意味も含めて、明らかにキャパを超えた仕事をお前に振った」
「…………え?」
 はい?
 唖然とする成美を見下ろし、雪村はいかにも取り繕ったような、ぎこちない微笑みを浮かべた。
「潰れずによく頑張ったな。もうお前は1人前の法規担当だよ」
「………………」
 こ、ここで褒めるなんて、なんかずるくないですか?
 しかもなんだかセリフの棒読み的な……。
 納得できないままにうなずきながら、それでも雪村の方が成美の何倍もの仕事をこなしていたことを、成美は思い出していた。
 なのに雪村は、独自に氷室が消えた原因を推理し、成美に内緒で調査していた。超多忙な雪村にできたのだから、成美にその時間がまるでなかったとは言えない。
 帰宅したあとネット検索をしてもよかったし、雪村のようにプロに依頼してもよかった。でも、そうはしなかった……。
 ぼんやりと考えながら、成美の心は何故かあの日の朝をさまよいはじめていた。
 最後に、氷室と2人で過ごした朝。
 幸福の中、目に見えない、触れれば解ける雪のような違和感がふと足元に忍び寄ってくるような不安を覚えた――あの朝。
 氷室の両親が、安治屋駅のホームから鉄道列車に飛び込んだその日、 幼かった成美は、偶然にも同夜、同じ駅で一泊した。
 終点の灰谷駅で降りるはずだった成美は、途中停車した安治屋駅で、それと気付かず降車してしまったのだ。
 あまりに長い間、列車が動かなかったから。
 乗っていた乗客全員が、列車を降りてしまったから。
 そこまで考えた成美は、はっとして、思わず手指をこわばらせた。
 怖い。
 そこから先を考えるのが、怖い。
 2人が出逢って、あの朝安治屋駅に向かったのは、本当にただの偶然だったのだろうか?
 今なら判る。この恐怖と氷室さんはあの日、2人で安治屋駅に向かっていたあの日――ずっと1人で戦っていたんだ。
「日高?」
「あ、はい」
 うろたえながら顔をあげると、すでに宮原は席に戻り、雪村が不審な目で見下ろしている。
「……大丈夫か、顔色悪いぞ」
「いえ……」
 それきり黙った成美を肘で小突いてから、雪村は宮原に向き直った。
「すみません。こいつ、まるで基礎知識がないみたいなんで、話の前に事件のことを簡単に説明してやってもいいですか」
「なんだ、あっさり仲直りしちゃったんだ」
 何故かがっかりしたようにそう呟いた宮原は、大儀そうに頬つえをついた。
「そんな複雑な話でもないでしょ。建設省――今の国土交通省の役人が、二十数年前、省内の機密費を使い込んだ。機密費ってのは、予算に計上されない機密の用務に充てられる費用、いわば省庁に眠る埋蔵金ね」
 枝豆をつまみあげると、宮原はそれを美味そうに口に含んだ。
「当時の建設省で、官房機密費を自由に出し入れできるのは事務次官秘書の佐伯涼ただ1人だった。発覚の端緒は地検特捜部にかかってきた匿名電話。検察が内偵を始めるやいなや佐伯は即座に役目を解かれて地方に飛ばされた。そして、1年後に逮捕された」
 そこで言葉を切った宮原は、にやりと笑って成美に目をやった。
「3年に渡って、額にして5億の横領。当時の金銭感覚からすればとんでもない額だし、20年以上たった今でも、横領事件の中じゃトップクラスだ。事件そのものは、いってみりゃ単純な公務員の横領だがね」
 戸惑う成美を、宮原はひょい、と人差し指で指差さした。
「では、そこで問題です。一体5億はどこに消えたのでしょう?」
 え?
「その、だから使い込んだって……」
「5億だぜ? 一介の公務員が何に使う?」
「えと…………」
 車? 家? 会社設立? それでも5億って……派手なことをすれば、税務署に目をつけられてしまうだろうし。
「あの……、5億って、全部使っちゃったんですか」
 それには答えず、ノンアルコールビールを一気に流し込んだ宮原は、茶目っ気たっぷりな目を雪村に移した。
「裁判記録は読んだかい?」
「ええ、ひと通りは閲覧しました」
「逮捕後、佐伯はじたばたすることなく罪を認めた。金の使い道は愛人を養うため。横領した5億の殆どを、佐伯は海外――ブラジル在住の愛人にむけて送金したと自白している。マリア・サンドラ。実在することは確認されているが、事件当時は行方不明で一度も法廷には現れていない」
「知っています」
「結局5億円の使途の裏付けはとれないまま、佐伯は横領罪で起訴された。証拠は佐伯の自白のみ。それを知ってか、第1回公判の被告人尋問で、佐伯はいきなり全面否認に転じた。検察も慌てたが、さらに慌てたのが佐伯についていた弁護士だ。結局公判は3ヶ月に渡って延期になった」
 宮原は煙草を取り出し、口に挟んでから火をつけた。
「そして3ヶ月後、公判が再開されたその日――新たな弁護士がとうとうと佐伯の無罪を訴えた直後、いきなり被告席を立った佐伯が、今度は一転して罪を認めた。むろん、法廷は大混乱だ。公判は延期――悪あがき、時間かせぎ、など、佐伯は随分叩かれたものだよ」
「結局、裁判はどうなったんですか」
 口を挟んだのは成美だった。
「求刑通り7年の実刑判決。佐伯は罪に服し、出所後何年かして自殺している」
 息を止めたまま黙り込んだ成美に代わって、雪村が後をついだ。
「率直に言えば、腑に落ちないというのが、公判記録を読んだ僕の感想です。確かに佐伯は当時の建設省内でただ1人、金を自由に動かせる立場にいた。マリア・サンドラあての送金記録も残っている。でも、逆にいえば、佐伯を有罪とした物証はそれだけしかないんです」
「つまり?」
「つまり……、マリア・サンドラを通じて、5億という大金が、公判には出てこない第3者に流れていたという可能性も、考えられると思ったんです」
 成美は眉をひそめて、雪村の横顔を見た。
 つまりそれは、5億円を受け取った誰かが他にいるということだ。公判には出てこなかった黒幕がいるということ。
「答えにくい質問だというのは理解しています。その可能性を、……黒幕が他にいる可能性を、当時の警察や検察は捜査したんでしょうか」
 答えない宮原は、煙草を美味そうに吸ってから、椅子に深く背を預けた。
「したにしろしなかったにしろ、公判に出てこなかったという結論が全てじゃないのかな」
「黒幕は存在しないということですか」
「そう。それで裁判の決着がついた以上、結論が変わることはない」
「可能性は、じゃあ、あったんですね」
「黒幕がいた?」
「そうです。僕が知りたいのはまさにそれです。佐伯の息子は事件から十数年後、後国土交通省に入省し、昨年忽然と姿を消した。僕は佐伯の息子が入省した動機は、父親の犯した事件を再調査したかったからではないかと思っているんです。――僕が息子でもそうする。裁判記録を読めば――身内なら誰でも、佐伯がただの傀儡であった可能性を疑うはずだからです」
 成美は、なにか恐ろしいものでも見るような目で雪村を見つめた。
 何故この人は、こうも冷静に、残酷に、こんな突飛な推理ができるんだろう。
 けれどそう考えれば、全ての辻褄があうことも確かなのだ。
 三条がくれたヒント――氷室があえて国土交通省を選んだ理由。議員の娘である後藤水南と結婚したかった愛情以外の強い動機。
 にやりと笑った宮原は、グラスのノンアルビールを一気にあおってから口元を手の甲でぬぐった。
「僕の知る限りではだが、事件は今でも過去の遺物だよ。特捜に探りをいれてはみたが、それが動き出したという話はない」
「……確かですか」
「知る限りでは、と、言ったろ。ひとつヒントをあげればだが、そしてもし事件に黒幕がいるとしてだが――、5億円を必要とし、官僚を自由に操れるような職業ってのは、なんだと思う?」
 少し考えた雪村は、それでも確信していたようにきっぱりと言った。
「政治家です」
「しかも与党の大臣クラス……なのかもしれない」
 ビールのお代わりをオーダーした宮原は、酔うはずもないのに、酔眼で雪村を見上げた。
「仮に、僕がその黒幕だとする。まず事件が起きた国土交通省に証拠を残すような真似は絶対にしない。人的にも、物的にも。そして佐伯の息子を――それがいかに巧みに名前と戸籍を変えていたとしても、あえて入省させるような愚は絶対に犯さない」
「…………」
「しかも、事件は司法的に決着をみている。唯一の人的証拠であった佐伯涼と妻は死亡し、事件をほじくりかえして得する人物は誰1人いない。まぁ、息子をのぞいて――ということになるのかな」
 宮原はわずかに目をすがめ、少しだけ首をかしげた。
「と、なるとだ。行政、司法、政治、日本の三大権力全てによって葬られた事件の牙城に、尻の青い若造が食いつくのは至難の技だ。言葉どおり人生の全てを賭けなきゃ無理って話だ。まず、のんきに地方公務員なんかやりつつ恋人と愉しんでる場合じゃないと僕なんかは思うがね。その佐伯の息子ってのは、そこまでの正義漢で、かつ父親の無念を晴らすためなら自己犠牲すらいとわないような――悲壮感漂うハードボイルドだったのかね」
「……それは」
 言葉に詰まった雪村が問うように成美を見る。成美は慌てて視線を彷徨わせたが、もちろん答えられる者は自分しかいない。
「よ……よく判りません。でも彼から、そんな危険な匂いを感じたことは一度もありませんでした」
「だろうね」
 宮原は煙草を取り出して火をつけた。
「はなはだ不満だろうが、それが雪村君の質問に対する僕の答えだ。――息子の失踪に、いまのところ父親の事件との関連性は見いだせない――以上」
 
 




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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。