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「だーれだっ」
 そんな浮かれた声と共に背後からいきなり目隠しをされた雪村の顔――というか、全身で示した恐怖の反応を、成美は多分一生忘れられないと思った。
 そして同時に理解した。昨夜、あれほどしつこく「早く来るのは有りだが、遅れるのは絶対になしだ」と念を押された意味を。
 ここは、成美にとって因縁のある店である。
 雪村と初めて食事をした店――その答えは考えるまでもなかった。忘れもしない、客も店員も男しかいない謎の居酒屋。まさかこの店に、再び足を踏み入れることになろうとは――
「だーれだ」
 成美は半ば固まったまま、そう言って雪村の目を背後から手で包みこんでいる男を見上げた。
 こんなベタな甘え方するカップル、初めて見た。
 いや、カップルなんていったら雪村主査に殺される。なにしろ相手は、噂の女子大生彼女ではない。いい年をしたおっさんなのだから。
 滅茶苦茶とはいえないまでも、眉太、濃い目の顔立ちに、アフロヘアを彷彿とさせるおそらくだが天然の爆発ヘア。
 名前は宮原。確か職業は……あれ、なんだったっけ。弁護士、……ではなく、探偵?
 じゃ、まさか雪村さんが調査を依頼した相手って――
「どうしったのかなー、ゆきりん、僕の名前が答えられないのかな?」
 ますます固まる成美の前で、宮原はさらに甘えた声を出す。
 成美は、怒り狂った雪村がテーブルをひっくり返すのを覚悟した。が……。
「……み、宮っち?」
 はい?
「せいかーいっ」
 はしゃいだ歓声と共に、ようやく雪村の目が開放される。
 その雪村をガン見する成美を、雪村は殺意むき出しの目で睨みつけた。
「よくできましたー。ゆきりんは本当に、おりこうさんでちゅね」
 ゆ、雪村さん。その殺意はどうか、目の前の変態さんにお願いします。
 あわあわと首を振る成美の隣――つまり雪村と成美の間の席に腰を下ろすと、宮原はすぐに片手をあげてウエイターを呼び寄せた。
「生、アルコール抜きで」
 それ、ノンアルコールビールって言えばいいんじゃ……。
 呆れる成美の心情を察したのか、宮原は濃い顔をゆるめてにやっと笑う。
「気分の問題。居酒屋にまで来て、ノンアルコールなんて頼みたくないでしょ」
「仕事中ですか」
「まぁね」
 訊いたのは雪村で、短く答えた宮原はすぐに満面のにやけ顔になった。
「そりゃ、愛するゆきりんに呼ばれたら、たとえ火の中水の中。恋する男は一途なのよ?」
 成美は口にしかけた水を噴き出すところだった。
 ああ、神様、この現場から一秒も早く私を開放してください!
 成美は天に祈ったが、雪村のモアイ像みたいなガチガチの笑顔にふと視線をとめていた。
 愛想笑い――といっていいのかどうかわからないくらい奇妙な笑顔だけど、そんな媚びた笑い方をする雪村を初めて見た。
 その雪村は、強張った笑顔のまま、それでも丁重に頭を下げる。
「お忙しいところ、本当に申し訳ありません」
「ん、いいよ。約束どおり宮っちって呼んでくれたしね」
「……、……、それで、例の、お願いした、件ですが」
 必死に自分を立て直そうとする雪村に、宮原は椅子を動かして擦り寄った。
「そりゃあ、頼まれたから調べてはみたよ? でもさぁ、なんだってまた30年近くも前の汚職事件を? これってゆきりんが生まれる前の話でしょ」
「う、生まれてますよ。僕はこうみえて、もう30を過ぎてます」
 成美は呆然としながら、目の前で交わされる二人の会話を聞いていた。
 やっぱり雪村は、この男――宮原に何らかの調査を依頼したのだ。
 でも、どうして?
 あれだけ逃げたがっていたのに――探偵なら、別の人を雇えばいいのに。
 なにしろこの宮原は、弁護士を詐称し、紀里谷の悪事の片棒を担いだような男なのだ。成美からみても、これっぽっちも信頼できる人物ではない。
 むしろ雪村の軽挙が信じられない。そんな得体のしれない男に、氷室さんの個人情報を漏らすような真似をしたなんて……。
「ま、調べたっつっても、僕が警察に入る前の話だからねぇ。守秘義務だってあるし、大した話はでてこないよ」
 えっ……?
 その宮原の言葉で、成美は目が覚めたように顔をあげていた。
「ちょっと待って下さい。警察?」
「あれ、聞いてない?」
 顔を見合わせた2人の前で、雪村が小さくため息をついた。
「すみません。宮原さんの素性を話していいものかどうか、判らなかったので」
「刑事、一応今はこっちの県警所属ね」
 閉じたままの警察手帳らしきものをひけらかした宮原は、それをすぐに胸ポケットにおさめてにやりと笑った。
「いや、もう、あちこちでバレバレだし。最近は隠してもないしね。でもありがとう。ゆきりんのその心遣いが、うれぴーよ」
 雪村の顔がモアイ像になり、成美は再び神に祈っていた。
 
 
 
「尋ねられたことは2つだが、ひとつは僕の口からは答えられない――それは電話で説明したね」
 切りだした宮原に、雪村は頷いた。
「ええ、あの件に関しては、宮原さんに紹介された人を訪ねてみるつもりです」
「とんでもなく忙しい奴だけど、アポはとれた?」
「宮原さんの紹介だと言ったらすぐに」
 話の意味がわからない成美は交互に2人の顔を見た。
 なんだろう。それは一体なんの話? 
「じゃ、僕が話せる方――5億円横領事件のことを話そうか。といっても、話せる範囲はせいぜい報道で出てきたものに毛の生えた程度。一応、現役公務員だからね」
「はい? 5億?」
 唖然とする成美を尻目に、宮原が取り出したアイパッドを卓上で操作する。差し出された画面には、新聞記事のPDF。目につく大きな黒文字が踊っていた。
 建設省、使途不明金五億の行方。
 金と欲まみれのエリート官僚、佐伯涼の転落人生。

 ――佐伯、涼……
 文字の下に小さな白黒の顔写真がある。映っているのは髪を七三に分けた端正な顔だちの男性だ。ドットが荒く、細部はよく判らない。
「佐伯涼。こいつがまた映画俳優ばりのいい男でねぇ。そのルックスの良さも相まって、マスコミのいい餌食だった。稀代の悪徳官僚、悪魔、国賊――まるで悪役スター扱いだ。当時はネットなんかなくて、個人情報全てがさらされなかっただけ、まだマシだったんだろうが」
「氷室さんの父親」
 雪村が横から小声で囁いた。
「そうなん、ですか」
 成美はぎこちなく答えて視線を下げた。そんな予感は記事を目にした時から微かにあった。でもまさか、雪村が依頼した調査の内容が、氷室の行方ではなく、父親の事件のことだったなんて……。
 胸に何かがつかえたような、ひどく嫌な気分だった。
 氷室の父が懲役刑についていたことは知っていたが、その罪が何なのかまでは、知りたいとも、知る必要があるとも思えなかったからだ。
「でもどうやって、……お父さんの名前を調べたんですか」
「この20年間で、安治屋駅で心中した夫婦がいないか、鉄道会社に照会して調べてもらった。そんな例は一組しかなかったよ。佐伯涼と佐伯杏子。鉄道自殺は後をたたないが、それでも夫婦で飛び込む例なんて滅多にないんだそうだ」
 びくっと、胸の裡で何かが跳ねた。
「名前でネット検索したら、すぐ記事がでてきたよ。かなり前の事件なのに、相当数のトピックがあったんで驚いた。そういえばこんな事件もあったなって程度の記憶は残ってたけど」
「――それが氷室さんの失踪と、何か関係してるんでしょうか!」
 自分でも思わぬほど、強い口調になっていた。
 雪村が驚いたように顔を上げ、宮原が肩をすくめるのが判る。
 それでも成美は、自分の感情を上手く抑えることができず早口で言っていた。
「そういう風に、氷室さんの過去に勝手に首をつっこまれるのが嫌だから、だから、雪村さんには話したくなかったんです」
「…………」
「……少なくとも、こういうことするなら、事前に言ってほしかったです」
 沈黙に気づき、成美はさすがに気まずくなって視線を逸らした。
 あれだけ親身になってくれた雪村になんてことを言ってしまったんだという後悔と、氷室の過去を勝手に暴かれた怒りが、胸の中でぐちゃぐちゃになって渦を巻いている。
「……電話が入ったんで、ちょっと出てくるよ」
 険悪になった空気を遮るように、肩をすくめた宮原が携帯を持って立ちあがった。







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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。