「じゃ、氷室さんの居所は、国土交通省の同僚も知らないということなんですね」
「ま、そういうことなんじゃないの」
 ふてくされたように言った兼崎は、煙草を唇に挟んで火をつけた。
 ホテルロイヤルのロビー。足を組んでソファに背を預けている兼崎に質問しているのは、成美ではなく雪村である。
「なにも退職する際、転居届まで出す規則はないからね。退職があまりに突然だったから、元の上司がマンションを尋ねてみたんだそうで――そうしたら、不動産屋の看板がかかってたって話。みんな、氷室は、灰谷市が気に入ったんで、そっちで暮らしてるんじゃないかって言ってるよ」
「氷室さんは、灰谷市からも消えたんです」
「みたいだね。それはそっちの彼女の留守電を聞いてから知ったけど。――じゃあ、あれじゃないの。どっか他の女のところにでも転がり込んだとか。そういうの、いくらでもいたでしょ。氷室なら」
 兼崎は両の鼻穴から、煙草の煙を吹き出した。
「どうしていきなり退職を?」
「そりゃ、奴をかわいがってた上司が逮捕されたからでしょ。その上西東さんまで逮捕されりゃ、氷室は二度と国土交通省に戻れない。もどったところでコースから外れるのは目に見えてるからね」
 西東というのは、逮捕が取り沙汰されている国土交通省の事務方のトップである。そして――紀里谷の言うことが本当なら、氷室の身辺と成美の素性を調べさせていた男。
 そこに、雪村が頼んだコーヒーが運ばれてくる。このホテルでは、一階の喫茶店から、ラウンジにコーヒーを運んでもらえるのだ。
 成美は、なんともいえない気持ちで、不機嫌丸出しの兼崎と、「日高の兄です」と、堂々と身分を詐称した雪村を見た。
 兼崎とホテルで会えと言われた時はびびったが、なんのことはない。雪村は最初からついてくるつもりだったのだ。
 雪村を見た時は、すぐにでも席をたとうとした兼崎だったが、「同じ市役所に勤めている兄です。妹を弄んだ挙句捨てた男を探しています。協力してください」――と言われればむげにもできないと思い直したのか、渋々席についてくれた。
「てかさ、氷室が役所やめたのがなんだっつの? それがそこまで騒ぐほどのことかよ」
 コーヒーを一口飲んでから、兼崎は吐き出すように言った。
「あんたら、しがないど田舎の地方公務員にはわかんないだろうけどさ。俺らキャリア官僚の出世争いってのは、本当、マジで熾烈なわけよ。トップに立てるのは同期でも1人だけ。残った連中はほぼ全員が退職だよ。わかる? トップに立てないって判った時点で、役所をやめて転職するってこと。氷室はそれが他の連中より早かった。――でも珍しい話じゃない。それだけのことさ」
「そんなに、キャリアの退職率は高いんですか?」
 雪村が、少し驚いたように訊いた。
「そりゃそうさ。っても、大抵は定年の数年前だけどね。なにしろ、そこらへんで役所での終着点が見えてくる。どこまで行けるか、どこ止まりなのか。――キャリアはみんなプライドの塊だし、トップに立つのと立たないのじゃ、定年後の扱いが全ッ然違ってくる。身の振り方を考えるなら、早けりゃ早い方がいいからね」
「定年後の扱いというのは……、つまり天下り先、という」
「そうだよ。そうに決まってるだろ。行き先ひとつで、何千万単位で生涯収入が違ってくんだ。あんたらもまがりなりにも公務員ならわかるだろ。俺らの給料がいかに能力と見合ってないか。その安月給を補ってくれる旨味が天下りだよ。それがなきゃ、俺みたいな優秀な人間が役所なんかに入るもんか」
 耳ざといメディアや市民団体が聞いたら、一気に炎上しそうなコメントである。
 まぁ、――ただ、その偏った考え方もわからないでもない。
 成美も受験したから判るが、国家一種試験を通るような人間は、成美などが逆立ちしても敵わないほどの高学歴と明晰な頭脳の持ち主なのだ。
 つまり、その気になれば、大手有名企業にも入ることができただろう。いくら公務員の給料が安定しているとはいえ――大手企業のサラリーと比べれば、相当な開きがあるのは明白だからだ。
 ふと、成美の頭にひらめいたことがあった。――そうだ、そういえば三条さんが妙なことを言っていた。
(実は、天にはある目的があったんだ。もう株取引だけで十分贅沢に暮らしていけるのに官庁――しかも国土交通省なんて半端なところに入庁のしたのはそのためだ。そこで、貪欲にトップを目指したのには理由があるんだ)
「あの……氷室さんはどうして、国土交通省に入ったんでしょうか」
 ああ? と、目を剥くようにして兼崎が成美を睨んだ。
「奴の動機なんて知るもんか。どうせ俺と似たりよったりだろ。国土交通省でトップにたって、いいところに天下って、悠々自適な老後を送る。いきなりの退職はそのライフプランが崩れたからだ。奴の後ろ盾だった清永さんや菊池さんが失脚したからに決まってる。さっきからずっと、そう言ってないか? 俺」
「そのあたりを、もう少し詳しくお聞きしたいんですが」
 萎縮した成美に代わって、身を乗り出したのは雪村だった。
「逮捕された青柳参事官は、予定価格を横流しした見返りに、大手ゼネコンから金銭を受け取っていた――と報道されています。ただし青柳参事官はあくまで従犯で、主犯は別にいるだろうと……」
「だから西東事務次官だろ。曖昧にごまかさなくても、うちじゃみんなが噂してるよ。西東さんは病休とって雲隠れ中だ。どっちにしても失脚は間違いない」
「氷室さんが、彼らの犯罪に関与していた可能性は?」
「ある」
 一瞬、全身の血が凍りついたかと思ったが、すぐに兼崎は肩をすくめた。
「――と言いたいが、ないんだろ」
「……というと」
「氷室のいたセクションには、入札に係る権限もルートもない」
「でも氷室さんは、逮捕された青柳参事官の元部下で、非常に親しい間柄だったんですよね?」
「わけまえに預かれるほどには親しくはなかったってことじゃないの。確かに氷室のことを心配する声はちらほらあったが、俺が知る限り、氷室が取り調べを受けたって情報はないよ」
「それだけですか」
「それだけって?」
「氷室さんが無関係だという根拠です」
 兼崎は肩をすくめ、煙草を灰皿におしつけた。
「いいか、警察が狙う本丸は西東事務官。つまり官僚のトップだよ。こういう時、警察ってのは下から攻めるものなんだ。今回も、まずは青柳さんのかつての部下が任意同行されたことから始まってる――でも、そいつは氷室じゃなかった。この件じゃ、おそらく氷室は蚊帳の外だね」
「でも氷室さんは、事件後に行方をくらましています」
「警察から逃げるために? 俺の知る限り氷室って奴は、自分が不利な状況で姿をかくすようなまぬけじゃない」
「警察からじゃなく、口封じをしようとしている連中から身を隠した可能性は?」
 成美は思わず息を飲んだが、兼崎は口をへの字に曲げて眉の端を掻いた。
「なにかのドラマの見過ぎだろ。おたく」
「真剣に聞いてるんです。そんな危険な男に妹を二度と関わらせたくない」
「氷室に関して言えば、それ以前の問題だって気がするが……」
「氷室さんは事件に関係しているから姿を消した。その可能性は、あるんですか。ないんですか」
 一歩も引かない雪村の剣幕に、兼崎はやや鼻白んだようだった。
「俺の知る限り、ないと思うがね」
「……というと」
「てかさ。おたくら、あいつが灰谷市に飛ばされた理由、知らないの?」
 兼崎は、雪村と成美の顔を交互に見てからコーヒーを飲んだ。
「オ、ン、ナ」
「女?」
 嘲笑うように兼崎は口元をゆがめた。
「飛び抜けて優秀な男だったけど、あの頃の奴は頭がどうかしちまってたんだろうな。保険屋のねぇちゃんと会議室でやってるところを他部署の連中に見られたんだ。信じられるか、役所の中でだぜ?」
 そういえば、似たようなことがありました――と、思っている場合じゃない。
 成美は眉を寄せたまま返す言葉が見つからなかった。
 氷室らしい行動だといえばその通りだが、反面、全く彼らしくないとも言える。何故なら、彼はそんなに、脇の甘い人じゃないからだ。
「青柳さんが必死で庇って、省内に厳しい緘口令が敷かれて、何もなかったことにされたけど――、まぁ、もう限界だったんだろうな。氷室の女癖の悪さはその頃にはもう有名で、上司や同僚の奥さんも食ってたって話だから」
「……それで、灰谷市に異動ですか」
「いかにもキャリアらしい、ぬるま湯みたいな処分だけどそういうこと。――幸か不幸か、件の収賄事件が起きたのはその頃だ」
 だから蚊帳の外だった。
 それはむしろ幸運だったのかもしれない――そう思いながら、成美は微かに安堵の息をついた。
 関わらないまでも、もし情報の一端でも知らされていれば、氷室も無関係ではいられなかったろう。
 雪村の妄想――もとい、推測どおり、口封じをはかろうとする連中から姿をくらました可能性だって、考えられないことはなかったのだ。
「……先ほど、あの頃の氷室さんは……という言い方をされましたが、元々はそういう――女性問題を起こすような人ではなかった、ということですか」
「あの気の毒な結婚するまではね。裏の顔はともかく、表向きは極めて真面目な男だったよ」
 雪村の問いに、得たりとばかりに兼崎は目を輝かせた。
「美人の奥さんとは、結婚3ヶ月たらずで別居。なんでも氷室が海外出張中に荷物をまとめて出て行ったんだとか。連日マンションに男を引き込んでたとか、腹の子が氷室の子じゃないとか、そりゃ気の毒な噂だらけだったよ。ま、議員の娘だから、おおっぴらに口にする者は誰もいなかったけどさ」
 吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると兼崎は席を立った。
「そんなところでもういいだろ。氷室は頭がいいし如才ない。もしかすると保険屋のねぇちゃんと人目につく場所でやっちゃったのも、西東さんらの企みに巻き込まれない予防策だったのかもしれない。――ま、今だから言えることだがね。いずれにしても、どこでだって上手く生きていける男だよ」
「兼崎さん、最後にひとつだけいいですか」
 黙りこむ成美に代わって、雪村が口を開いた。
「氷室さんは女性問題で異動になった……とのお話でしたが、先ほど、青柳参事官が氷室さんを必死に庇われたとも言われましたよね。それは氷室さんが、奇行を繰り返すようになってもなお、派閥内で重宝される立場にいた、ということになるのではないですか」
「……あんたもいい加減疑り深いねぇ。どうしたって氷室を事件の容疑者リストに入れたいんだ」
 兼崎は心から呆れた目で雪村をねめつけた。
「そりゃ氷室は、青柳さんに守られてたさ。ただしそれは、氷室の能力云々が理由じゃない。奥さんが後藤議員の娘だからだ。後藤議員、知ってるだろ? 国土交通省に強い影響を持つ族議員だ。つまり青柳さんが庇ったのは氷室じゃない。後藤議員の娘婿なんだよ」
 
 
 
「とりあえず、あれだな。氷室さんの失踪が、国土交通省の事件絡みって線だけは、消してもいいのかもしれないな」
 兼崎が大股で立ち去った直後、さっさと席を立った雪村がそう言った。
「だから私、最初から関係ないって言ったじゃないですか」
 お礼を言おうと思っていた成美は、とっさにそう返していた。雪村が鋭い目で成美を見やる。
「それでも確実につぶしておきたかったんだよ。女のカンだかなんだか知らないが、常識で考えれば、その線が一番理にかなってたんだ」
「……氷室さんから、そんな危険な匂いは全然しなかったですし、……だいたい彼は、自分に疑惑がかかっているのに、逃げるような人じゃないですよ」
「氷室さんを知ってる人間なら、当然たどり着く結論ってことか」
 呟くように言うと、雪村は成美に背を向けて歩き出した。
「つまりお前の言うとおりだったな。これではっきり判ったよ」
「え?」
「氷室さんは疑惑からは逃げない人かもしれない。でも、水南さんからは逃げる人だった」
「…………」
「水南さんとの別居後、自己コントロールを失って自棄になり、今は――またしても、奥さんが原因で、傍からみれば自棄としか思えない行動をとっている。いってみれば、現実逃避だ」
 それは――
 成美は反論したかったが、何も言葉にできなかった。その通り……なのかもしれない。
 それほどまでに、氷室さんにとって、水南さんの存在は大きかったのかもしれない。
 それから、もうひとつわかったことがある。
 三条守もほのめかしていた。氷室さんが水南さんと結婚したかった――愛情以外の動機だ。
 それは、あれほどの不祥事を犯しながらも、氷室がなお上司に庇われたことが意味している。
 愛情のあるなしは想像する他ないが、国土交通省にあって後藤議員の娘と結婚するというのは、とてつもなく大きなメリットだったのだ――。
 ひとまず話を変えようと、成美は雪村の隣に追いついた。
「そんなことより雪村さん、よくあれが兼崎補佐からの電話だって判りましたね」
「お前が大声で名前を言ったんじゃないか。――氷室さんの同期だって話は初耳だったが、あの人は……役所じゃちょっとした有名人だ」
「有名人?」
「女癖が悪いって意味でな」
「…………」
 目をそらし、成美は軽く咳払いをした。そうだった。兼崎さんはセクハラで有名な人だった。私もその被害者の1人で――てか、私のことはどこまで雪村さんの耳に入ってるんだろう。
 あれ。まてよ。
 ってことは、雪村さんが電話を受けた私を追いかけてきてくれたのは。
「もしかして、私のこと心配」
「戻るぞ。役所に」
 ――はい?
 いきなり方向転換した雪村を、成美は慌てて追いかけた。
「戻るって、今からですか」
「仕事の途中で、2人して何も言わずに抜けただろうが。今頃全員が、残業しながら俺達の悪口を言ってるに決まってる」
「え……ええっ?」
 ちょっとちょっとそれは困ります。ただでさえ雪村さんとは妙な噂がたっていて、つきあってるとか結婚間近だとか――本当に困っているのに。
「それから明日な、時間作れよ」
「仕事ですか」
「じゃなくて――」
 何か言いたげに口を開いた雪村は、成美を見てから、軽く息を吐いた。
「氷室さんのことだ。調査を頼んだ相手と会うことになったから、お前にも一緒に話を聞いてほしいんだよ」
 調査……?
 意味がわかった途端、胃がずしん、と重くなった気がした。
 調査を頼んだって、もしかしてそれは、探偵か何かの調査機関だろうか。
「そんな――、そんなの私、聞いてないです。だって、だいたい雪村さんだって忙しかったのに」
「忙しかったさ。お前以上にとてつもなく。だから第三者に依頼したんだ。心配しなくても東京で見聞きしたことは一切漏らしてない」
「でも」
「相手は信用おける人だ。何かを推測されたとしても、その人から外に漏れる可能性は、ゼロ以下だ」
 でも……。
 それでも成美は、雪村を見返す目に非難の色がこもるのを押さえることができなかった。
 いまだに雪村さんがこの件に関わっていていてくれたのは嬉しい。でも、他人をそこに巻き込むなら、どうして、事前に相談してくれなかったんだろう。
「午後7時。場所は俺とお前が初めて一緒にメシ食った店」
 おそろしく早口で言うと、雪村は再び背を向けて歩き出した。
 少なからずむっとしていた成美は、慌ててその後を追う。
「ちょ、雪村さん、私納得してないですよ」
「説明も言い訳も全部明日だ。――いいな、早く来るのは有りだが、遅れるのは絶対になしだからな。もう一度言うぞ。早く来るのは有りだが、遅れるのは、絶対に、なしだ」






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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。