「先生」 「……どうしたね。貧血だと聞いて来たんだが」 後ろ手に扉を閉めた白髪の老人は、分厚い眼鏡を指で押し上げてから、訝しげに細い目を瞬かせた。 「泣いていたのかい?」 「鍵を閉めて、あの人が入ってこないように」 この世でただ1人、全てを知る医師は黙って言うとおりにする。 「……天は」 「外に出てもらったよ。君のことをとても心配していたようだ」 たまりかねたようにベッドに伏せて嗚咽しはじめた水南の背を、堺医師は何度か優しく撫でた。 「もう、耐えられません。もう彼を欺けない。もう、どうしたらいいのか、わからないんです!」 「……水南」 「先生、助けて。もう楽にしてください。もう、私を開放してください」 「水南、私に助言できるのは」 その言葉の続きを遮るように、水南は激しく首を横に振った。 「いいえ、無理です。先生の仰りたいことは判ります。でも、そんなことできない。知りたくない。たとえどんな結果がでたとしても、その先の未来が私にはないんです。これ以上あの人の苦しむ顔を見たくない。そんなこと――、もう、私には……」 しばらくあやすように、泣きじゃくる水南の背を撫でていた人は、やがて静かに寡黙な口を開いた。 「……水南、君の運命を、この老いぼれが引き受けることができたらどんなにかいいだろう。君は生まれたその時から私の分身も同然だ。君の痛みは、同時に私の痛みでもある」 「………先生」 泣き濡れた顔をあげた水南を、医師は優しく見下ろした。 「けれどそれは、私だけではなく誰にもできない」 「…………」 「残酷なようだが、戦えるのは君だけなんだよ。水南。それは同時に人の持つ哀しい宿命でもある」 「………………」 「どうしようが君の自由だ。逃げるのもまた」 「………………」 しばらくまつげを震わせて自分の手を見つめていた水南は、やがて弱々しく顔をあげた。 「いつ、わかりますか」 「10日、もう少し早いかもしれない」 「…………」 「決めたんだね。そんな予感はしていたよ、ここに来る前から」 「……先生、私」 「ひどく取り乱した氷室君の電話を受けた時から……、彼は君を愛している。そうだろう?」 「……………」 「君の目論んだ打算だけの結婚は成り立たなかった。だからこそ、君はこうして苦しんでいる。そうだろう?」 子供の頃にそうしてくれたように、医師は水南の頭に手を乗せてゆっくりと顔をのぞきこんだ。 「水南、一秒も永遠も変わりはしない。時間にして一秒たらずの幸福が70年余の命に火を灯し続けることもある」 「……先生……」 「幸福になりなさい、水南。君にはその資格がある。神様もきっと……許してくれるはずだよ」 水南は目を閉じ、ようやく訪れた精神の平穏に意識を委ねた。 変わらない、一秒も永遠も……。 でも先生。私はもう、その一秒を知っているような気がするんです。 (いつか、……僕の子を産んでくれますか) その一秒があるから、今までどんなことにも耐えることができたような気がするんです。 いままでも、そう、これからも―― 第2部 終 |
||||
>back >top |
||||
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved この物語はフィクションです。 |