「お客さん、この辺りは労働者の町だ。女1人じゃ物騒だよ」
 タクシーを降りようとすると、強面の運転手が心配顔で声をかけてくれた。
「大丈夫です。まだ明るいし、ちょっとこのあたりを歩いてみるだけですから」
「夜は、バスも極端に少なくなるからね。近くを流してるから、用事が済んだら電話しな。運がよければ5分で迎えに来てやるから」
「ありがとうございます」
 確かにその親切は、受け入れた方がよさそうだった。
 灰谷市と同じ感覚で、多少遅くなってもタクシーを拾えばいいと思っていたが、道路は閑散として車通りも殆どない。一応、オフィス街のようなのだが灯のついているビルさえひとつもない。
 成美の目の前には、5階建ての古びたビルディング。
 浦島土建株式会社――もちろんここも周囲の建物と同じように、すでにシャッターが降りていた。
「………………」
 しばらく、ぼんやりとその建物を見上げた成美は、気持ちを切り替えて歩き出した。
 まさかこの会社に絵が寄贈されたとは思えないから、もしかすると、近くに社員寮でもあるのかもしれない。
 が、人にそれを訪ねようと周囲を見回しても、通行人はおろか車さえ通る気配がない。
 とりあえず成美は、2ブロック先に見える仄かな灯を目指して歩いてみることにした。
 もうこうなったら、誰でもいいからこのあたりの人を捕まえて聞いてみるしかない。――氷室さんを知っていますか、と。
 彼は絶対にこの町にいる。
 もうその結末以外はあり得ない。
 
 
 
 遠くから聞こえてくる嬌声に、成美はふと足をとめた。
 ビルの向こうにのれんやネオン入りの看板が見えるから、どうやら灯がある方向には、ちょっとした飲み屋街があるようだ。
 駅を出て以来、全く通行人に出会わなかったから、なんだか救われたような気持ちになる。
 急いでビルの角を曲がると、そこは交差点で、向かいの居酒屋から出て来た複数の男女連れが、賑やかに会話しながらこちらに近づいてくるところだった。
「…………」
 ややひるむものを感じ、成美は歩調を緩めていた。
 男性の大半が穿いているのが泥やペンキのはねたニッカーボッカーズ。どうやら若いとび職たちのようだ。
 金髪ロングヘアーの女がその中に混じり、ひときわ背の高い男の腕にからみついてべたべたと甘えている。
 誰でもいいから捕まえて――という意気込みはどこにやら、成美は本能的に視線を下げていた。
 言っては悪いが、いかにもヤンキーっぽい若者たちの集団である。話しかけたら最後、からまれて、有り金全てをもっていかれるんじゃないだろうか。
 バッグをぎゅっと胸に抱き締め、うつむいたまま、そそくさとその集団の脇をすり抜ける。――その時だった。
「あれ、日高さん?」
 ―――え?
 深みのある低い声。
 どこかで聞いた――いや、忘れたことのない懐かしい声音と、軽い口調。
「びっくりしたな。本当に日高さんだ。どうしたんです、こんなところで」
 え……?
 え―――?
 これは、もしかして――幻聴?
 思考が定まらないまま、成美は呆然と振り返った。
 今しがたすれちがった若者たちが、1メートルもない距離から不審そうに成美を見ている。その中から、ひときわ背の高い男が歩み出てきた。
 いかにも作業着用といったデザインの、ネイビーの解禁シャツと同色のカーゴパンツ。傍らでは、先ほどまでその男の腕にからみついていた女が不満そうに唇を尖らせている。
 成美はただ、立ちすくんでいた。
 こんなデジャヴは、今まで何度も、何度も見た。
 あり得ない場所から、あり得ないタイミングで氷室さんが現れる光景。
 でもこれほどまでに、現実味のない光景ってあるだろうか――
「……僕ですよ」
 成美の前で足をとめ、薄っすらと日焼けした人はわずかに笑った。
 整髪料をつけない髪は無造作に伸び、口元には薄く無精髭が生えている。
 彼の静かな――優しいけれどどこか他人ごとのような飄々とした目を、成美はただ黙って見つめた。
 その反応を訝しむように、氷室は微かに苦笑する。
「そういえば、この近くがご実家でしたね。ご両親と一緒ですか」
「………………」
 ……なんか、おかしくない?
 こんな再会、想定の想定の想定外だ。
 だいたい、どうして驚きもしなければ、喜びもしないんだろう。この人は。
 この人は――自分が私に何をしたか、本当に判っているんだろうか。
「なんだよ、彼女、ブラさんの知り合いか?」
「ブラさん、いいのかよ。ハルちゃんが怒ってるぞ」
 ひやかしの声と口笛が、ひどく遠くから聞こえてくる。
「昔の知り合いです。先に帰ってもらっていいですよ」
 それに、淡々と氷室が応える。
 その瞬間、成美の中の何かが弾けた。 
 ちょっと待ってよ。
 昔の知り合いって私のこと?
 そもそもブラさんって、誰のこと?
 で、ハルちゃんって一体何?
 というか、あなたはこんな場所で、一体何をしているんですか?
 そんなことを、意識の片隅で考えていたような気がする。気づけば、成美は右腕を振り上げ――それを思いっきり振り下ろしていた。
 鈍い音が、夜に響いた。
 成美の右手が反動で震えても、叩かれた人は微動だにしなかった。
 まだ、現実感のないまま、夢でも見るように成美は言った。
「……すみません。もう一発、いいですか」
 返事の代わりか、氷室は少しだけ眉をあげる。目にはまだ、優しい笑いを滲ませている。
 今度は左腕を振り上げ、それが利き腕でないだけに、力任せに、いっそ叩くというより殴るように、成美は思い切りそれを振り切った。
 先ほどまで騒いでいたギャラリーは、今は完全に静まり返っている。
 2度目も、氷室の身体は揺らぐことさえなかった。
「い、いまのは」
 ようやく震え始めた声で、成美は言った。
「今のは、雪村さんの分です」
「…………」
 氷室は視線を下げ、苦笑ともつかない笑いを浮かべる。
「今のは、……少し痛かったですね」
 声は、少し寂しそうだった。
 
 
                 12
 
 
「どうぞ」
 湯気のたつティーカップには、上品な緋色の液体が揺れている。
 以前氷室の部屋で出されたものと、多分同じ香りがする。
(美味しい! これってどこのメーカーですか)
(フォートナム・メイソンです。こんど注文する時は、少し多めにしておきますよ)
 当然知っていますよね、みたいな風に言われても、さっぱりわからないメーカーだった。でも知っているふりをして「ああ、あれですね」みたいな相槌を打ったっけ。
 後でネットで調べてみて、そのグラムあたりの値段にびっくりしたのを覚えている。
 環境も人も、あの時とはまるで違ってしまったのに、嗜好だけは変わらない。――いや、それも変わってしまったのだろうか……。
 成美は改めて、6畳の室内を見回した。
 褪せた畳に、絨毯はない。木製の円卓と衣装ケース、小さなテレビ。部屋にあるのはそれだけで、テレビのコンセントは束ねてある。端から使っていないのだろう。
 隣の襖は閉めきってある。
 そこに何が隠されているのか、聞くだけの勇気は、今はまだ持てそうもない。
 成美の予想どおり、浦島土建株式会社の社員寮は、会社社屋のワンブロック隣にあった。
 年季の入った古いアパートで、壁が薄いせいか隣室の声がよく響く。笑い声、ぎょっとするほど大きなダミ声……。
 氷室が立ち上がって、マスタード色のカーテンを開け、窓を開けた。
 ぬるま湯のような空気に、さっと涼やかな夜風が吹き込んでくる。
 ひどく不思議な気分だった。ここは、灰谷市でも東京でもない。なのにここは、元道路管理課長だった氷室天の部屋なのだ。
「隣で、飲み会の続きをやってるんですよ」
 再び、壁を背にして座りながら、氷室が言った。
 窓から、いっそう楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
「楽しそうですね」
「雰囲気のいい会社なんです。社員みんなの仲がいい」
「そうなんですか」
 自分でも感情のこもらない受け答えだと思った。ちらっと見上げた氷室は、片膝に腕を預けたまま、視線を窓の方に向けている。
 まるで、この部屋から一刻も早く出て、隣の喧騒に混じりたいとでもいうかのように。
 眉根にきつく力をこめて、成美は訊いた。
「なんの、会社ですか」
「建設会社です。大手から仕事を受けてなんとか糊口をしのいでいる弱小ですけどね」
「現場仕事、ですか」
「ええ」
「……いつから」
「3月かな。手持ちの現金がなくなってきたので」
「具体的には、なんのお仕事をされてるんですか」
「できることならなんでも。こうみえて、力仕事は向いていたようですよ」
 成美は黙って、氷室を見た。
 氷室は、ひどく優しい目でそれを見返す。なぜだかその瞬間、抑えがたい激情が胸を突き上げた。
「何故、消えたんですか」
「消えた? 僕はここにいるのに」
「そういう意味じゃない――、言葉遊びをしてるんじゃないんです。どうして私の前から、黙っていなくなったんですか」
 氷室は黙って成美を見る。その目はやはり優しいままで、成美はますますもどかしく、そして腹立たしくなった。
「鍵です。氷室さんの部屋にあった忘れ物」
 その怒りを紛らわすように、成美はバックの中に収めた巾着から、件の鍵を取り出した。
「結局なんのための鍵かは判りませんでした。教えてください。一体何がしたくて、あなたはこの鍵を部屋に残していったんですか」
「……鍵?」
 呟いた氷室が、不審そうに長い指を伸ばして鍵をとりあげる。
 掌にそれを載せた彼の眉が、初めて微かに歪むのがわかった。
「……これは……、これが僕の部屋にあったんですか?」
 嘘でしょ……?
 成美はひどく動揺したまま、氷室の質問には答えず、その掌から鍵だけを取り返した。
 なんだろう、今の反応。
 この鍵は、彼が意図的に残してくれたわけではなかったの?
 もしかして――最初から何もかも――私の思い込みだった……?
 全身から力が抜けて、成美は両手を床についていた。
「日高さん?」
 急いで顔を背けた途端、不意打ちのように涙が溢れた。
 氷室の気配が近づいてきて、震える肩に、そっと手が添えられる。
 どうして、それが当然の権利のように、彼は泣いた私を慰めようとしているんだろう。
 なんかもう、頭の中がぐちゃぐちゃで、何をどう切り出していいのかさえわからない――
「……ずるいです」
「僕のことですか」
 すぐ間近から、氷室の視線が、静かに自分に向けられるのが判る。
「ほ、他に誰のことを言っていると思うんですか。あなたはずるくて、そして、とても卑怯です。言い訳も説明も別れの言葉もない。―――いきなり、一方的に、私の気持ちだけ残したまま消えるなんて」
 違う。
「いままでだってそうです。氷室さんはいつもそうだった。自分は安全圏にいて、私がじたばたするのを試すように見てるだけ。私が追いかけても、追いかけてはくれない。自分はいつだって逃げるくせに、私が逃げることは許さない。私の気持ちだけ縛り付けて、そのくせ自分はいつも自由で」
 違う――そうじゃない。
 そんなことを言うために、私は氷室さんを探していたわけじゃない。
 そうじゃない――そうじゃないのに。
「決定的な言葉をくれなかったのは、今回も私を試すつもりだったんですか。それとも私を縛り付けるため? そうしてあなたは、ただ――のんびりと待ってたんだわ。私がいつものように、飼いならされた犬みたいに、あなたの足跡を辿って、追いかけてくるのを!」
 ただ言葉だけが、せきを切った奔流のように止まらない。
「どうせなら上手い嘘をついてくれればよかったんです。私が納得して、引くしかないような、上手い嘘です。あなたにそれができないとは言わせない。できたのに、しなかった。――しかも、中途半端に鍵なんて残して!」
「日高さん」
「残酷です、ずるい、卑怯だわ。こんなの――こんな気持ち、今までずっと2人で共有してたと思ってたのに、1人でなんとかできるとでも思ってたんですか!」
 気づけば成美は肩を震わせ、大きく息をあえがせながら泣いていた。
 その肩を、背中から包み込むようにして氷室が抱いてくれている。
「なんとかできると思っていました」
「…………」
 成美は、涙で潤んだ双眸をあげた。
「いや、嘘だな」
 首を横に振った氷室が、わずかに苦笑する。
 ――嘘……?
「君がどうするかなんて、想像してもいなかった。後のことは、考えもしなかった。僕はただ、逃げたかった。なにもかも捨てて、一秒でも、早く」
「……なにから、ですか」
 口元に微笑の余韻を残したまま、氷室は前を見つめて言った。
「君から」
 
 
 
  
  
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。