「……そうですか。そういうことなら、お持ちいただいても結構です」
 鍵をいったん福利課に戻さないといけないことを雪村が説明すると、勝手口に出てきた向井志都は悄然として頷いた。
 もうすっかり体調はいいと言ってはいたが、まだ顔色は紙のように白い。
 夕刻、後藤雅晴の不在を確認してから、再度成美と雪村は後藤家を訪問した。
 向井志都から預かった鍵だけは、無断で持ち帰れないと雪村が言ったからだ。
 後藤雅晴にひどく責められたらしい志都は、見るからに疲れきっていて、雪村と成美は勝手口で用事を済ませることにした。
「手続きを済ませて、またこちらに持参します。その際、向井さんを受け取り人としてうちの役所に報告してもいいですか」
「構いません」
 話はそこで終わったが、雪村はしばらく動かずに黙っていた。
「それから……ご迷惑でなければ、ひとつお聞きしてもいいですか」
「なんでしょう」
「山頂の館は、確かに診療所のようでした。そこに常駐していた医師、というのは今でもご存命なのでしょうか」
「………………」
 志都の表情は石のように変わらない。
「もしよければその方に連絡をとってみたいと思うのですが……難しいでしょうか」
 てっきり拒否の言葉が返されると思った。
 確かにその医師と話ができれば、あの奇妙な館に伝わる伝承――悪魔だの、悪魔の子を産んで死ぬだのという迷信が、そもそも何から来ているのか判るかもしれない。
 けれどそこに、――もしそこになんらかの遺伝病が絡んでいるなら、向井志都は絶対に首を縦に振らないはずだからだ。
「サカイゴロウ」
 が、呟くように、志都は言った。
「都市の堺に、五に口、朗らかという字を書きます。都内で個人病院をやっていたところまでは存じておりますが、すでに引退して、今となっては連絡をとることは不可能でしょう」
「と、いいますと……」
「堺家の人間が、それを嫌がるだろうということです。実を言えば、私が一度連絡をとろうとして拒否されました。もし……あの鍵の用途を知るものが、お嬢様以外にこの世にいるのだとしたら」
 そこで言葉を切り、志都は苦悩するように眉を寄せた。
「それは、ミナエ様の主治医であった堺先生以外にはおられないでしょう。けれど堺の家では、後藤家に関わることを決して許さないと思います。連絡するだけ……無駄でしょうね」
 
 
「……どうする?」
 雪村の声で、成美ははっと我に返った。
 気づけば車内に、夕暮れの赤みを帯びた日差しが差し込んでいる。
 雪村の借りたレクサスだ。
 後藤家を後にしてから、いや――それより前に三条と別れてから、自分がひどくぼんやりしていたことに成美はようやく気がついた。
「もう行くあてもなくなったな。堺って医師の家を調べてみてもいいんだが――さすがに、今日の今日訪ねていくわけにはいかないし」
「そう、ですね」
「ただ、向井さんでも駄目だったら、無関係の俺たちはもっと駄目だろうな。いきなり見ず知らずの他人が来て、……水南さんのことを教えてくれと言ってもな」
 一度、灰谷市に戻って出直すか。
 雪村の声が、妙に明るく、そらぞらしく聞こえる。
 何も言わないが、雪村にももう判っているからだ。
 もう答えは、私の中にしかない――
 水南の言い遺した青い本の場所を知っているのが、この世で、氷室ただ1人であるように。 
「戻りましょうか」
 顔をあげて、成美は言った。
「明日は仕事だし、そろそろ日も暮れますし。――あ、つきあってくれたお礼に、帰ったら晩御飯おごりますから」
 しばらく黙った雪村が、ふっと息をついてからステアリングを握り直す。
「そんなのはいいから、まずレンタカー代を払うんだな」
「えっ……」
「帰りの新幹線代も、当然、お前持ちでいいんだろ?」
「ちょっ、そんな、どこまでケチなんですか」
 いつも通りの会話に、ほっと心のどこかが和らいでいる。
 そうだ。
 もう一度灰谷市に戻って、少し冷静になって考えよう。
 そうしたら絡んだ糸もきっとほぐれて、見えなかった何かが見えてくる。
 だって、まだ判らないことが多すぎる。
 今氷室さんを見つけたところで、きっと何も解決しない。
 灰谷市に戻って――雪村さんと、もう一度はじめから整理して……
 
                 10
 
「悪い、またせたな」
 スマートフォンを上着のポケットに滑らせながら雪村が歩み寄ってくる。
 ぼんやりと名刺を見つめていた成美は、はっとしてそれを手の中に握りこんだ。
「電話、もういいんですか」
「ああ」
 成美は、背後の電光掲示板を仰ぎ見る。
「急ぎましょう。あと10分で次の便が出ちゃいますよ」
 日曜夕方の東京駅はごった返していた。
 人があふれる土産物売り場を避けるようにして、2人はホームに向かって歩き出す。
 エレベーターを上がって生暖かな風が吹くホームに出ると、ようやく一息つけた気がした。
「随分長い電話でしたけど、どこから?」
「宮原さん」
 渋面で応える雪村に、ああ……と成美は納得して視線を下げた。
 それは、お疲れ様でした。
 まぁ、内容の報告がないってことは、私とは無関係の電話だったんだろうけど。
「お前は?」
「え?」
「どっかに連絡するつもりじゃなかったのかよ。ずっと名刺、見てたじゃん」
 一瞬言葉に詰まった成美は、すぐに曖昧な笑いを浮かべた。
「昔の知り合いの……ずっとお財布に入れっぱなしだったのに気がついて。でも、なにも今電話しようと思ってたわけじゃないですから」
「ふぅん」
 なんでもないように相槌を打った雪村が、いきなりその場で足を止める。
 勢いで二、三歩先に進んだ成美は、驚いて雪村を振り返った。
「雪村さん?」
 足元の一点を見たまま動かない雪村の周囲を、新幹線待ちの客が迷惑そうにすり抜けていく。
「あの……雪村さん?」
 なに、一体どうしたの?
 もしかして気分でも――
「なぁ、日高」
「……は、はい」
 慌てて返事をする成美を見ないまま、一瞬唇を引き結んでから、雪村は再びそれを開いた。
「以前、お前にも話したよな。後藤家と佐伯家の間には、何かつながりがあるんじゃないかって」
「……ああ」
 そう言えば、そんなことを言われたような気がする。
「さっきの宮原さんの電話で、ようやくその疑問がとけたよ。佐伯涼と後藤雅晴は、都内の同じ高校を卒業している。つまり2人は先輩後輩の仲だったんだ」
「…………」
「田舎出の貧乏寮生だった佐伯を、後藤は随分可愛がり、公私にわたって面倒をみていたんだそうだ」
「………じゃあ、昔は、仲がよかったってことでしょうか?」 
 成美は訝しく瞬きをした。
 まぁ、それはそうだろう。後藤は後年、逮捕された佐伯涼の妻子を手元に預かることまで引き受けているのだ。
 その好意が――いつしか、違うものになっていったのだろうか。
「そのあたりを確認するのは……難しそうですよね。後藤議員は、私たちなんて相手にもしないでしょうし」
「その通りだし、それが当たり前の反応だよ。そもそも門外漢の俺には、これ以上踏み込む資格すらないんだから」
 静かな、そしてどこか寂しげな声だった。
「だからこっから先は、お前1人で行かなきゃいけないんじゃないか」
「………………」
 私、1人で。
 一瞬息を飲んだ成美は、強張ったままの顔をあげた。
「無理です」
「なんで」
「だって何も……何も、私には判らないし」
「……本当に?」
 初めて聞くような、ひどく優しい声だった。
 はっと顔を歪ませた成美は、何故か眼の奥がみるみる熱く潤むのを感じた。
「……なぁ」
「……は、はい」
 懸命に答えながら、顔を背ける。
「絶対に怒らないから言ってみろ。本当は、見当がついてんだろ」
「……………」
「そんなに、1人でいくのが怖い場所か」
「……………………」
 堪えていた涙が溢れ、成美は口を両手で覆いながら歯をくいしばった。
「…………ごめ、なさい……」
 しゃくりあげながら、成美はようやくそれだけを言った。
 雪村は何も言わず、そっと成美の肩を抱き寄せて、人混みから庇うように胸元に引き寄せてくれる。
「け、今朝の時点で、いえ、前回東京に行った時点で、……わかってなきゃいけないことでした。彼が私を待っていてくれるなら――その理由がなんであれ――待っていてくれるなら、その場所は、最初からひとつしかなかったんです」
 なのに私は、ずっとその場所から目を逸らし続けていた。
 怖かったからだ。
 そこで起きたことを考えるのが、ただ、怖かったから――
 震える唇で、成美はその場所を口にしようとした。
 雪村が、それを遮るように、そっと口の前に手をかざす。
「いい。聞いちゃったら行きたくなるから」
「……一緒に行ってくれないんですか」
「それがお前にしかわからない場所なら、俺が踏み込んじゃいけないんだ。……そうだろ?」
 思わず雪村を見上げた時、駅構内に、列車の到着を告げるアナウンスが鳴り響いた。
「ああ――いい忘れたけど、俺、ちょっとこっちに残るから」
 なんでもないように言って笑うと、雪村は成美の肩から手を離した。
「せっかく東京に出て来たのに、挨拶ひとつせずに帰ったら失礼だろ。今から会いにいって、最終で帰ることにした」
 え……。
 意味が判らない成美の前で、轟音をたてて新幹線がホームに滑りこむ。
 顔をあげた雪村は、わずかな苦笑をその唇に浮かべた。
「忘れたのかよ。俺、彼女いるんだけど」
「あ、いえ、それはもちろん」
「じゃあな。氷室さんと会ったら、頬の一発でもぶんなぐってやれよ」
 軽く片手をあげると、雪村は乗車待ちの列から離れて成美に向き直る。
「俺の分もだから最低でも二発か」
「……………」
 新幹線のドアが開く。立ちすくむ成美の傍らを、次々に人が追い越していく。
 ようやく、成美は理解した。
 これが、雪村との別れなのだ。
「ここで、終わりですか」
「そういうことだ」
 ここで終わり。
 ここでお別れ。
 もちろん月曜日には、職場で会える。
 でもそういうことじゃない。雪村と成美、2人にしか判らない心の繋がりみたいなものが――今、ここで終わるということだ。永遠に。
「私、……」
 笑おうとしても上手く口が動いてくれない。成美は、雪村を見たまま、呟いた。
「私、悪いこと、……しましたか」
「悪いことって?」
「…………」
 後はもう、言葉にならない。目を逸らし、懸命に涙をこらえる成美を見て、雪村は笑った。
「大丈夫」
「……大丈夫?」
「そうなる前に、こうやって別れてる。だろ?」
「…………」
「心配しなくても、お前みたいな女に落ちるほど、俺は安い男じゃないってことだ」
「…………」
「泣くなよ」
「…………」
「もう、貸してやるハンカチもない」
 雪村さん――
 アナウンスと共に新幹線の発車を告げるベルが鳴る。
「おい、早く乗れって。こっちはもう、お前に付き合うほど暇じゃないんだ」
 促されるように、成美は新幹線に乗り込んだ。振り返った途端、目の前で扉が閉まる。
 顔を上げると、ひょいと片手だけをあげて、雪村はさっさと背を向けた。
 新幹線が動きだす。
 自分の中の、何かひどく大切なものが永遠に切り離されていくのを感じながら、成美は必死で雪村の背中を追った。
 決して歩調を合わせてくれないその背中を、今まで何度、追いかけただろう。
 冷たくて――優しい言葉なんか絶対かけてくれなくて――でもその背中は、いつだって成美が追いつくのを待っていてくれたのだ。
 雑踏に紛れた雪村の背中が見えなくなる。駅が、そしてオレンジの夕陽に染まる東京の景色が、みるみる遠ざかっていく。
「…………」
 何を考えていいか判らないまま、成美はぼんやりと空いた席のひとつに腰をおろした。
 ずっと名刺を握りしめていることに気付いたのはその時だった。
 樋口直人。
 安治屋駅の元駅員で初恋の人。
 そして――おそらく、氷室の過去を知っている人。
 その時、バックの携帯が不意に震える。はっとした成美は急いで携帯を取り出した。
 案の定それは、雪村からのメールだった。
 
 
 余計なお世話かもしれないが、最後に堺吾郎の連絡先だけ転送しておく。
 医者やってる友だちに調べてもらったら、すぐに判ったよ。
 当人はすでに引退しておられるが、息子が千葉で個人病院をやっておられるそうだ。

 いいか、くれぐれも1人で無茶なことはしないように。
 
 
「……雪村さん……」
 まだ続く文字を、成美はもう追うことができなかった。
 携帯を握りしめたまま、しゃくりあげるように成美は泣いた。
 もっと別の出会い方をしていたら。
 そんな馬鹿な想像したところで、なんの意味もないことは判っている。
 2人の関係が変わってしまうのが怖くて、ずっと目を逸らし続けていた。
 いつまでも、仲の良い2人のままでいたかった。
 それが自分の、身勝手で残酷なわがままだと解っていながら――
「……ごめんなさい、雪村さん……」
 もう二度と戻ってこない時間を想いながら、成美は携帯を抱きしめて泣き続けた。
 
 
 
「脩二さん。今一体どこにいるの。今朝から一体何度電話したと思っているの」
「すみません。今夜中には帰るので、上手く謝っておいてもらえますか」
「もう……約束をすっぽかすなんて、全く脩二さんらしくもない」
 携帯から聞こえる母親の嘆息を、雪村はホームの端に立ったまま、どこか現実味のないまま聞いていた。
「無責任だって、お父様はもうカンカンよ。あちら様は、いきなり婚約を破棄された理由を直接聞きたくていらしたわけだから、……それを、とうの本人がすっぽかすなんて」
「本当にすみません。僕が後日、必ず直接謝りに伺いますので」
 あの親父が怒るかな。
 こんな場合なのに、ふと苦笑が唇に浮かぶ。
 今日の顛末を話したら、むしろ目をキラキラさせて食いついてきそうだ。
 もちろん誰にも話すつもりはない――永遠に。死ぬまで、誰にも。
 この想いは、自分1人がこの胸に抱いて、生きていく。
「まぁいいわ。――で、ほのかさんから伝言よ。今度は結婚前提でなくてもいいから、もう一度おつきあいしたいんですって」
 後半、母親の声が乙女のように弾んでいる。
「……悪いんですが、今は仕事が忙しくて、とてもそんな気分には」
「そう言うと思ってたわ。でもね、脩二さん、あなたの人生はまだ長いのよ。早々色んなことを、短絡的に決めるべきではない……とだけ言っておくわ」
 通話を切った雪村は、ごったがえすホームの中を、人混みを避けて歩き出した。
 次の便まであと15分か。帰ったら帰ったで、なんだか色々面倒そうだ。
 ――なんか……今頃になって腹が立ってきたな。
 歩きながら、雪村は自然に眉を寄せていた。
 鈍感なら鈍感らしく、最後まで気づかなきゃいいのに、実は知ってましたオチはないだろう。
 じゃあ何か? あいつは俺の気持ちなんかとっくに見抜いてて、で、知らないふりでちょこちょこ後をくっついてきてたのか?――悪女かよ。
 知っている。
 頭はいいんだ。
 普段はぼやっとしてるくせに、人が気づかない感情の隠し場所みたいな部分に、一番先に気づくのは、いつもあいつだ。
 それでいて、人一倍優しいから、無意識に気づかないふりをする。
(……私、悪いこと、しましたか)
「……馬鹿じゃねぇの」
 もう、とっくに手遅れだ。
 それがいつかと聞かれれば判らないが、いつのまにか、心の全部をもっていかれてしまっている。
 初めて知った。それはもう、自分1人の力では、どうしたって取り戻せない。今まで知らなかったこの痛みは、もう永遠に自分の伴侶だ。
 それでも前を向いて生きていくしかない。
 人生は、まだまだこの先も続いていくのだから。
 
 
 
  
  
 
 
 




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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。