「……偶然かな」
 お茶を入れ替えるために叶恵が退室した直後、雪村がどこか険しい目で呟いた。
「昨日金森さんから聞かされた余談を、今またこうして耳にしている。しかも後藤家とあながち無関係の話じゃなかった」
 そこで言葉を切った雪村が、苛立ったように頭を掻く。
「わかんないない。だからなんだっていうんだろう。烏堂誠治にしろ長瀬一哉にしろ、一体どう後藤家に関わってくるんだ」
 成美は、ひとつ――ずっと胸にひっかかっていたある出来事が、今の話と関連しているような気がしてならなかった。
「雪村さん覚えてますか? 金森さんが、約束の時間をオーバーしてまで烏堂誠司の話をしたでしょう。あの人、その直前にこう言ったんです。同じ理由で未婚の母になった人間を、僕は知っている―――私たち、後藤水南の話をしたんです。その直前に」
「……で?」
「私、ずっと不思議に思ってました。雪村さんが後藤水南の名前を出した時、金森さんが、ひどく奇妙な表情をしたのを覚えてませんか? 一瞬返答に窮したような、自分の中で何かを懸命に整理しているような――とにかく、それまでの金森さんの反応とは、まるで違う態度だったんです。時間にするとほんの数秒のことでしたけど」
「……お前、案外、観察力半端ないな」
「烏堂誠司は、やっぱり後藤水南と関係しているんです。ずっと烏堂誠司を追いかけていた金森さんは、私たちが話す前から水南さんのことも知っていたんですよ」
 そうだ。間違いない。
 ようやく不思議だった何かが腑に落ちた。金森さんのあの反応は――水南さんのことを最初から知っていたからに違いない。
「雪村さん。やっぱり、水南さんのお腹の子の父親は、烏堂誠治って人なんですよ。しかも2人は、昔からの知り合いだった可能性がある。金森さんも言ったましたよね。烏堂って人は決して悪い人じゃなかった。不幸な境遇で育ち、義理のために命を捨てられるような人だった。――だからこそ水南さんは彼に惹かれて出産を決めたんじゃ」
「まてよ。それこそ想像を飛躍させすぎだ。それに大切なことをひとつ忘れてる。烏堂って男は」
「あ」
 そうだった。――性的不能者。
「つまりお前の推測はこうだ。20数年前の豪雪の夜、烏堂誠治と長瀬一哉はヤクザを殺して山に逃げ込み、後藤水南と出会った。もしかすると水南さんが、2人を逃したのかもしれない」
「…………」
「吹雪の夜に助けた男と十数年してから再会する。……まぁ、いかにも女が考えそうなロマンチックな展開だが、今までの話を統合すると、そんな綺麗な話じゃないことだけは確かだろ。向井志都さんの話……もう忘れたのかよ」
 成美は眉を寄せて口を噤んだ。
 そうだった。
 後藤水南は、現実に複数の暴漢に襲われているのだ。
「だいたい、未成年の人殺しが、後藤家に逃げ込んだってことも非現実的だ。当時は大勢の人がいただろうし、警察だって当然警戒していただろう。後藤水南はまだ10代前半だぞ。相手も未成年とはいえ、どうやって男2人を逃がせたんだよ」
「……わかりません。でも……」
「でも?」
 迷いながら、成美はわずかに眉を寄せた。
「匿える場所なら、あったんじゃないでしょうか」
「匿うってどこに。警察もヤクザも、血眼になってその男を探してたんだぞ」
「だから警察にも、見つけることが出来ない場所があったんですよ」
「…………」
「さっき雪村さんが偶然みつけた、隠し部屋です」
 2人の間に、息が詰まるような沈黙が降りた。
「……確かに、あの部屋なら、警察が捜索してもすぐには判らなかったかもしれない。でも……」
 うめくように、雪村は言った。
「わからない。もしそうだとしても、人殺しのヤクザを匿って、水南さんになんのメリットがあったというんだろう。それに金森さんがあえて水南さんのエピソードをとばしたのも不自然じゃないか」
「まぁ、そうかもしれないですけど……」
 それは、金森さんに、知っていると言えない事情があったから。
 口まで出かかった反論を、成美はぐっと押しとどめた。
 確かに、水南さんの妊娠を綺麗事に変えたかったという、期待混じりの妄想をしていたのは確かだ。
 ただ、金森さんはなにかを隠している。それだけは確かなような気がする――
 
 
「よう、ナオミちゃん」
 成美もそうだが、雪村もしばらく声が出てこないようだった。
「驚いた? すごいだろ。あんたの行動なら全部お見通しなんだ、俺」
 見上げるほどの長身痩躯、全身を黒のブランドスーツで固めた男――三条守。
「ごめんね。恨まないでほしいんだけど、もし後藤さんとトラブルになったら、社会的立場が立場なだけに、こっちの分が弱いから」
 その背後から、ちょっと申し訳無さそうな顔で、安藤叶恵が現れた。
 一瞬、信じられないという顔になった雪村は、すぐに諦めたような眼差しになる。
「それで、三条守に通報したんですか」
「……念のため、ね。許可はとってるって言ったでしょ? だったら照会してみても問題ないと思ったんだけど」
 つまり、別荘に招き入れられ、こうしてもてなしてもらったのは、全部時間稼ぎだった、ということだ。
 いきなり剣呑になった空気を遮るように、三条がおどけた素振りで両腕を広げた。
「もちろん許可はとってるさ。志都さんの許可は俺の許可。だから別に俺は怒ってるわけじゃない」
「ふざけるな。だったらなんでここに来た」
「まぁまぁ、そう怒るなって可愛い子ちゃん。――俺はおたくらを助けにきてやったんだから」
「……助けるだと?」
「後藤さんが、突然後藤屋敷に戻ってきたのさ。志都さんは熱出して寝こんでるし、屋敷の中にはいかにも来客があった形跡がある。その上、携帯にはあんたの中途半端なメッセージだ」
 楽しそうに言って、三条が雪村を指さす。
「後藤さんが怒って山に登ると言い出す前に、なんとかしてくれって志都さんからこっちに連絡が入ったんだ。その直後に、この人から会社に電話が入ったってわけ」
 三条の後ろで、叶恵がひょいっと肩をすくめる。
「後藤議員が追いかけてくる前に、俺がおたくらをこっそり連れ出してやろうっつってんだ。文句を言う前に感謝してくれなきゃな」
「――言う通りにした方がいいんじゃない」
 叶恵が、少し歯切れ悪く口を開いた。
「悪いけど警察沙汰になるような面倒ごとだけはごめんよ。それは、察していただければありがたいんだけど」
「おっと、おしゃべりしてる暇はもうないぞ。急ごう。後藤さんに捕まったら俺まで面倒なことになる」
 まだ安藤叶恵に聞きたいことは沢山あった。が、――確かにこれ以上ここにいるのは得策ではないようだった。
 
 
 3人きりの車内は、想像以上に居心地が悪かった。
 いや、3人ではない。後部シートに座る成美の隣には、巨大なケージが置いてある。で、その中でうずくまっているのは全身黒色で耳のピンと立った――ドーベルマンだ。
 眠っているようだからいいようなものの、この至近距離で巨大な犬と隣合わせだということが、成美には怖くてたまらない。
「……い、犬が、お好きなんですか」
「ん、まぁね」
 犬――狂犬――狂犬領主。今、それを訊いても怒られないだろうか。
 成美は助手席の雪村をちらっと見たが、相変わらず怒ったような目で黙りこんでいる。
「あの……狂犬領主って、ご存知ですか」
「あ?」
 いえ、なんでもないです――と慌てて言う前に「俺のご先祖様じゃん」と三条はあっさり言った。
「ご先祖様……?」
「後藤家の何代目かの当主、後藤伝八さんの通称だろ? 伝八爺さんは入婿で、もとは三条の血筋だからな。なんでも俺と瓜二つらしいぜ、大昔の白黒写真が」
 言葉を切った三条が、サングラス越しの目を雪村に向けた。
「で、可愛い子ちゃん。あんたが天の女だってんなら納得なんだけどな――それは置いといて、行き先は本当にコインパーキングでいいのかな? まだ他に、行きたいとこがあるなら連れてってあげるけど」
 ゆ、雪村さん、ここは抑えて――と成美は懸命に目で訴えたが、雪村もそのあたりはわきまえているようで、一瞬変わった眼の色はすぐに元に戻された。
 コインパーキングとは、雪村がレンタカーを停めた場所をいっているのだろう。そこまで調べられていると思うとさすがに少し気味悪くなる。
「……何が目的なんですか」
 ずっと黙っていた雪村が、初めて三条を睨んで口を開いた。
「何がって?」
「助けてもらったことにはお礼を言います。でもあなたは一体何がしたくて、――どうして嘘までついて日高を振り回すんですか」
「嘘?」 
「あなたは神崎香澄を拉致監禁し、暴行などしてはいない。――それどころか、あなたはヤクザに追われていた神崎香澄を匿い、守ろうとしていたんだ。そうでしょう?」
 三条は答えない。その唇から鼻歌が漏れ始める。
「そしてもうひとつ。氷室さんは、後藤水南さんが襲われた事件には関わっていない」
 雪村はきっぱりと言い切った。
「もし神崎香澄がそれを企んだとしたなら、その神崎香澄と男女の関係にあった氷室さんに道義的な責任がないとは確かに言えない。でも、だからって、当時ドイツにいた氷室さんに全ての咎があるわけじゃない」
「…………」
「なのにあなたは、それをあたかも、全て氷室さんが企んだかのような言い方で日高に伝えた。それを悪意ある嘘と言わずになんと言えばいいんですか」
 いつの間にか鼻歌は止み、三条は薄ら笑いを浮かべている。
「目的は、知らない」
「は?」
「本当に知らないんだ。そう――打ち明ければこれは全部、水南の、遺言どおりの筋書きだからだ」
 成美は眉をひそめ、雪村もまた言葉をなくしたようだった。
「水南は死に際して、俺と志都さんに遺言を遺した。俺も志都さんも、それを忠実に実行しているだけ。つまり2人とも、水南の目的までは知らないんだ――多分な」
「……遺言?」
 雪村が、信じられないとでもいったように呟いた。
「……日高に嘘をついて傷つける。それが、……水南さんの遺した遺言だって?」
「嘘じゃない。俺がナオミちゃんに言ったことは、紛れもない真実だ。いや、ある側面における真実だ。なにも水南が、作り話をするよう俺に指示したわけじゃない」
「回りくどい言い方はやめろ。結局お前は嘘を言ったんだろう?」
 雪村が気色ばんだように身を乗り出す。運転席の三条が肩をすくめた。
「あのさ、あんたらは天の行方を探してるんだろう? だったら重要なのは、俺が語る真実じゃなくて天にとっての真実なんじゃないのか?」
 ――氷室さんにとっての、真実……?
「ま、天に会えたら確かめてみるんだな。いずれにせよ俺に言えるのは、あんたは天の過去を何も知らないってことだ」
「…………」
 成美は困惑しつつ、眉をよせた。
 氷室さんの真実とはなんだろう。三条守は、どうして明らかに嘘をつきながらも、それを真実だと言いはるんだろう――
 ある側面における真実……。
 いや、今は氷室さんを信じるしかない。あの人は間違ったってそんな非道な真似ができる人じゃない。
 ごくりと唾を飲み込んてから、成美はようやく口を開いた。
「ひとつ、お聞きしたいんですけど」
「どうぞ? 答えられるかどうかは質問次第だがね」
「……去年のことですけど……、紀里谷さんに依頼して、私の身辺を調べさせたのは、それも、……水南さんの遺言のひとつですか」
「ははっ。ばれてたか。やっぱりあのヘタレは口が軽い。どこまでいっても使えねぇな!」
 あっさりと三条は認めて笑う。肩が落ちるような脱力感と共に、ようやく成美は三条に怒りを覚えていた。
「紀里谷さんが言ったんじゃありません。――なんだか話がおかしいと思ったんです。国土交通省の事務次官が私の身辺を調べさせるなんて、いくらなんでもありえないですから」
「そうかあ? いっとくけど、西東事務次官が天を調べてたのは事実なんだけどな。もちろん、紀里谷とは別のルートで」
 えっ……
「それは、どういう」
「奴も逮捕逃れの口実探しに必死だったのさ。父親が有名な犯罪者だった天は、スケープゴートにはうってつけだ。おおかた、上手いこと罪をかぶらせようとでもしてたんじゃないのかね」
 ――そんな……。
「ま、俺が知ってんのはそのくらいだ。だから、これ以上聞かないでくれ。話を戻すが、そう――紀里谷を使ってあんたの身辺を探らせたことだ」
 成美は身をこわばらせる。
「確かに、それも水南に依頼されたことには違いない。が、それは遺言じゃない。なにしろ、その当時水南はまだ生きてたんだからな」
「……なんのために、私を?」
「さぁ、さっきも言ったが、目的を俺は知らないんだ。ただ推測することはできる。気になったんだろ。なにしろ天は、水南の夫だったんだから」
 成美は言葉をなくしていた。
「いわばあんたは、夫の愛人。浮気相手だ。普通に考えて妻が調べたくなるのも当たり前だろ?」
「………………」
 まるで自分の立場をわきまえろ、とでも言われているようだった。
 その通りだ。
 水南さんが、三条さんを通じて私の調査を依頼したとして……、それを責めることは、私にはできない。
「何が当たり前なんですか」
 その成美を庇うように、雪村がいきなり口を開いた。
「紀里谷って男は、年末日高を実家まで尾けて、追いかけまわしているんですよ。その時には、言い方は悪いが水南さんはすでに死亡していた。日高をつけ回す理由なんて、もうどこにもないでしょう」
「だから言ったろ。俺は目的までは知らないんだ」
「は? 目的も知らされずに、よくそんな不可解な遺言を実行できましたね。そうじゃないでしょう。目的ならあなたも向井さんもちゃんと知っていたはずなんだ。――2人を、日高と氷室さんを別れさせることだ」
 成美ははっとしたが、三条は涼しい目で微笑している。
「普通に考えればそうかもな。でもそれにしちゃ、ちょっとやることが大げさだとは思わないか?」
「大げさどころじゃない。異常ですよ。言い方は失礼ですが」
「……残念なことに、水南の考えることは大抵俺たち常人には理解できないほど複雑にできてるのさ。多分目的は、そんな単純なものじゃないよ」
 言葉を切ると、三条はおかしそうに眉をあげた。
「それに、あんたらには奇妙に映っても、俺や志都さんにとっては、水南の遺言は特段不思議なことじゃない。水南は――そう、昔からそういう知恵遊びが大好きでね。謎かけ、……断片的な事実から何かを探させるゲーム……。相手になるのはもう天しかいなかった。俺たちは断片的な事実であり、ゲームを動かす一種の駒であり、メッセンジャーでもある。そういう扱われ方に、俺も志都さんも昔っから慣れてるんだよ」
「……ゲーム……」
 成美は思わず呟いていた。
 つまりこれは、水南さんが氷室さんに仕掛けたゲームなのだろうか。
 最後に出会った日、まるで彼らしくなかった氷室さん。何かに戸惑い、迷い、考えをまとめようとしていたようにも――思えた。
 あの日彼は、水南さんに仕掛けられた謎に気づき、懸命に解こうとしていたのだろうか。
「もし、それが本当に……水南さんの仕掛けたゲームなら」
 成美は思わず呟いていた。
「私たちの役目って、なんなんですか」
 それだけじゃない。
「そのゲームはまだ……、今も、続いているってことなんですか」
 丁度車は信号待ちで、三条は微笑んで両手を広げた。
「その答えは、あんたにしかわからない」
 私に、しか……?
「そしてあんたは――ここまでの中で、もう自分がどうすべきか、どこに行くべきかちゃんと知ってるはずなんだ。そうだろ? ナオミちゃん」
 知っている……、私が。
 黙る成美を振り返ると、三条は意外そうな目になった。
「知ってるはずだ。ここまで来てまだ判らないっていうなら、何かを見落としているんだろう。あんた相手に水南が難しい謎を残すもんか。――断言するよ。あんたはもう、天の居場所を知っている」
「………………」
 バックミラー越しに、雪村の強い視線を感じる。
 成美は戸惑って、2人の眼差しから逃げるようにうつむいた。
「知ってるって……言われても」
 最後の望みだった山頂の別荘からは、結局何も見つからなかった。
 雪村が一枚の紙切れを持ち帰ったけれど、汚れがひどいのと万年筆で書かれたらしい字が滲んでいるのとで、判読は――不可能だった。
「なるほどね。詳細は判らないけど、あんたも天と同じだな」
 不意に三条がひとりごとのように呟いた。
「そして水南のやりそうなことだ。――あんたの一番見たくない過去。多分それがヒントだよ」
 雪村が何かを言っている。
 でもそれは、成美の耳には届かなかった。
 私の、一番見たくない過去。
 私の――一番、行きたくない場所………。


 
 

 
 




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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。